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神は死んだか?ニーチェの闘い
- 神とは何か?それはニーチェが問いかけた問いであり、《神の死》を宣言した。
- ニーチェの闘いの対象は一九世紀の再キリスト教化であり、自身の生活形式と文化に抵抗した。
- ニーチェは本当の神を見つけ、その死を告げることで人々の意識革命を起こそうとした。
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ニーチェは実はとても道徳的ではないのか? かつて、キリスト教は無神論と呼ばれた。 そして、人々は、一人の人間になった神を殺した。 人間が神を殺すと、どんな罪になるのか?は、さておき、 こうして、神はいなくなった。 神は人間になったのであって、、 人間を超えるというは、かつての神を超えることではないのか? ただニーチェの思想がおかしいと思うのは、 キリスト教の結果がニヒリズムであるなら、 積極的ニヒリズムはむしろキリスト教を評価しているのではないか? ということ・・・。 ニーチェが善悪的な宗教であるゾロアスターの名を 著書のタイトルに使ったのも謎になってくる。 自分の研究対象だった古代ギリシャでもなく、ショーペンハウアーの憧れたインドでもなく そのどちらとも争ったペルシャの人物を取り上げているのが・・・。 あと、プラトンがイデアの影といったり、インド哲学のマーヤーのヴェールのように この世界が幻影という考えに対して 大地を強調していたり…。 キリストは天に昇り、地上にはいない。 人間は神を殺した。 自分たちが殺しておいて、祈る道理はないのではないか? ひょっとして、ニーチェはキリスト教以後の世界を考えていたのではないか? 神が死んだといっているのは何を隠そうキリスト教なんだから。 それを受け入れて、その後の世界に必要なものは何か? それを考えていたのではないかな…。 わからない。
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念のため。 >わからないことが多すぎます。 というのは、ブラジュロンヌさんに対してのものではなく 自分の嘆き、ぼやきでした。 誤解のないように訂正しておきます。 それにしても… マハーヴァストゥとか日本に伝わっていたんでしょうか? 一体、みんな何をもとに釈迦の生涯とかの話をしてきたんだろう? 無量寿経の話題が出たけど、親鸞は、釈迦について どう考えていたのだろう。
お礼
つづいてです。 ★ 無量寿経の話題が出たけど、親鸞は、釈迦について / どう考えていたのだろう。 ☆ そう言えば 善導と法然についての話が多いように思います。たしか親鸞という名は 世親と曇鸞から来ていると聞きましたが。 いえ。と言うより 親鸞のゴータマ・ブッダ論は? と訊かれて ほとんど何も答えられずにいます。 親鸞が独自の信仰とその理論を見い出したとわたしはすでに勝手に思っていますので ゴータマとは切り離して来たのだと考えます。 あまり進展がなさそうですが いまはこのような応答にて のちを期します。
こんにちは。 わからないことが多すぎます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 佛伝 http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%B6%E3%81%A4%E3%81%A7%E3%82%93 >古いものでは、南方系で伝わった経典、スッタニパータに一部が伝えられ、成道から初期の教団の成立までは、ヴィナヤ(律蔵)のマハーヴァッガに伝えられている。 >釈尊の伝記としてまとまったものは、ブッダチャリタ(仏所行讃)、ラリタヴィスタラ(方広大荘厳経)、マハーヴァスツ(大事)がある。この内、マハーヴァストゥが最古の仏伝である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Vinayapiñake Mahàvaggapàëiyà Pañhamo bhàgo Mahàkkhandhakaü http://www.metta.lk/tipitaka/1Vinaya-Pitaka/3Mahavagga-Pali/38-mahakkhandhaka-01-p.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 説出世部 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E5%87%BA%E4%B8%96%E9%83%A8 >大乗経典の『無量寿経』は1世紀-2世紀のクシャーナ朝の時代にガンダーラに栄えた化地部の比丘たちによって編纂されたと信じている学者もいる[7][8]。しかし、『無量寿経』が編纂されるうえで多くを説出世部に負っている可能性も高く、この経典には説出世部の『マハーヴァストゥ』と共通する要素が多い[7]。この経典の最初期の翻訳によって、プラークリットの一つで北西部で使われたガンダーリー語から翻訳されたことがわかる[9]。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Mahāvastu http://en.wikipedia.org/wiki/Mah%C4%81vastu ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マハーヴァストゥが最古の仏伝なら そのうちこれを読む必要が出てくるんだろうなあ。 wikipediaによると無量寿経と共通する要素が多いらしいけど 本当なんだろうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ええ。分からないことばかりです。 ▲( Wikiped: Mahāvastu) ~~~~ § 2 Mahayana themes The Mahāvastu is considered a primary source for the notion of a transcendent (lokottara) Buddha, common to all Mahāsāṃghika schools. ~~~~~~~~~~~~~~~~ だとすると ゴータマ氏は おとぎ話と見られるような飛躍した議論はしなかったのでしょうか? 法華経は 時空間を飛び越えた話が出て来ます。すべて ゴータマの後世に起きたことでしょうか? つまり ゴータマ・ブッダの神格化とともに。 というより 成道は どういう内容であったか? ですけれど。 あらためて質問しなければならないのではないでしょうか? 誰かが。真っ正面から ブッダのさとりとは何だったのか? と。
>苦行については 要するに難行苦行は必要ないという結論を得たのではないですか? その話がフィクションだろう、という疑問です。 必要ないという結論にはなりましたが、 ブッダは苦行もしています。 しかし苦行をしたわりには健康ですから。
お礼
つづいてです。 ということは 適当に苦行と言われる修行をもしたことはした。 こういうことですか? それとして分かりますが そしてそういう見方もおもしろいと思うのですが そういう場合にも 問いは残るのではありませんか? つまり 難行苦行は 目指したところのもの――ニルワーナ? 成道?――にとって要るか要らないか? という問いです。 あるいはつまり 修行一般というものは 要るのか要らないのか? どういう考え方でどういう態度を取るのか? です。 だけれども ニルワーナは(すでに参照し得た日本の坊さんのサイトで)それとして体験内容としての説明があたえられていますが それも成道にとっては要らないそうですから では 成道とは何か? という永遠の問いが残されているということでしょうか? ニーチェは そのような細かいことにはこだわらずに ディオニュソスの狂乱舞曲の中に浸ればよいと言うのでしょうか? (ディオニューソスとは 若いゼウスという語義だそうですね)。
ディオニュソスでもなく、ブッダでもなく ツァラトゥストラなのはなぜだろう。 ブッダといえば、 ゴータマ・シッダッタの苦行の話がありますけど、 それも作り話だったのではないか? と、疑問を持つようになってしまい、 なんだか素直に信じられなくなりました。 というのも、断食して骨と皮になった有名な釈迦像があって まあ、凄い迫力だとは思いますが、 そこまで断食をしたのなら、 胃液で胃にダメージを与えてしまい 胃の病気になっていないとおかしいと思うからです。 断食で、いったん体を壊してしまえば、 当時はまともな胃薬もないでしょうから 生涯、たとえば慢性的な胃炎とか、 消化器系の病気に苦しむはずだと思いますが、 ゴータマ・シッダッタが苦しんだという様子は なさそうだし、あやうく死ぬほどの苦行をした というわりには、その後の生涯が健康的なんですよね。 だから、もし苦行をやったとしても、 体を壊すほど徹底的にはやってなかったんだな、 まあ、苦行の話も、後世の作り話かと思ったのです。 もっともこれは、他の断食の話がある苦行者に共通していえますけど。 古代といえども体を壊さない程度にほどほどでやめておく 苦行の技術でもあったんでしょうかね。 そのわりには、凄まじい苦行をした。なんていいますけど。 しかし、苦行や成道にまで疑問を持つようになると もはやなにがなにやら。 仏教とは何なのという感じで、私は最近、 仏教の入門書とか哲学史とかを読んでいます。 というわけで、間違いだらけで勉強する必要のある私は しばらくまた休みます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 休息宣言は分かりました。 苦行については 要するに難行苦行は必要ないという結論を得たのではないですか? 世界と人間を見るのに 断食も要らないと。別の目的にはご自由にと。 ツァラトゥシュトラでさえ 《森の聖人》の生き方をしりぞけています。そのことが分かるために山に籠もらなければならなかったとしたら 幼稚だなぁと思います。 いえ 幼稚というのは それほどヘソは曲がっていないので そうは思えませんから 何とたとえればよいでしょう。 いえいえ。けっきょくフリッツくんを持ち上げる後世の人間が 問題です。阿呆だとしか考えられません。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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こんばんは、 受付終了した以下の質問、 あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか これに関してこねくり回しです。 私には激しい葛藤があった時期があるのですが、そのさなか、平穏を願いました。 それはこいねがうと言う形で、何か対象に手向けたのではありませんが、何かが私とは別にその願いをくみ取ったとするなら、それは涅槃を何かについてこいねがったと言えるのかもしれません。 でも平穏を願ったのは20代位のころで30代になってからは、葛藤の内訳はポケモンバトルだと認識していて、むしろ平穏を実現しようと一生懸命知性の発揮を試みました。 その時分には自助が何よりも大切だと言う前提で、観念上の事柄に取り組んでいました。 こいねがう、という働きが「願い」なのか、「欲望」なのか? 仏とは人間の事で、その涅槃にある他者に「俺を幸せにしろ」こう働きかけるのは、感覚的に欲望を突き付ける事です。 俺を幸せにしろと要求する暴力的他者の望みを、仏が自らの望みとするのなら、、根拠が他者にある事になりまして、私はこれこそが欲望のメカニズムだと考えています。 これを神に手向けたなら、神は安らぎを与えるかというとそうではなく、願いとして扱うだろうけども、実現するのは自らの自助であり、願いでなく望みとすることです。 そこで知恵を授けてくれるので、私は人間の理性的資質は神に由来するだろうとすでに結論付けています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ そこで知恵を授けてくれるので、私は人間の理性的資質は神に由来するだろうとすでに結論付けています。 ☆ このコトを 命題にして 例証したり論証したりする。この作業をけっきょく ほとんど誰もが――哲学としては―― おこなっているのだと思います。 ★ 涅槃を何かについてこいねがった ☆ この表現は 読み取りにくいかと思います。ワタシがニルワーナをこいねがう。または 願わない。そういう言い方が まづふつうかと思うからです。 ★ ~~~~~~ ・・・平穏を願いました。 それはこいねがうと言う形で、何か対象に手向けたのではありませんが、何かが私とは別にその願いをくみ取ったとするなら、それは涅槃を何かについてこいねがったと言えるのかもしれません。 ~~~~~~~~ ☆ 第三者か あるいは 仲間ないし友だち がいるということでしょうか。 はっきりしません。意味も分かりにくいです。 ★ 仏とは人間の事で、その涅槃にある他者に「俺を幸せにしろ」こう働きかけるのは、感覚的に欲望を突き付ける事です。 ☆ ここにも用語の用い方が 釈然としないきらいがあります。 《ブッダ》は人間が成ります。それに対して 《仏とは人間の事で》といきなり言われても 意味を汲み取れません。 《その涅槃にある他者》。・・・ぢゃあ その《他者》は ブッダだということになりますが そういうことをスラッと言われても どう受け留めてよいやら 分かりかねると思います。わたしもそうですし 一般にもそうだと思います。 《「俺を幸せにしろ」と働きかける》ことは そう願っているということだと考えます。 ブッダがどう答えるかわたしには分かりませんが 神なら受けつけてくれましょう。 そういう事態だと思いますが 《欲望を突きつけること》うんぬん以下についても よく読み取れませんでした。
さっき回答しているときは思いつかなかった。 「罪悪感」はどうだろう? もしくは「罪の意識」 ニーチェから罪の意識を読み解くのも 不思議な感じがするけど。 神を殺した罪の意識って なんだか難しいな。
お礼
ひきつづきですが。 ★ ~~~~ 神を殺した罪の意識って なんだか難しいな。 ~~~~~~~ ☆ ニーチェには No.4お礼欄で考えたように 自分がイエス殺しに参画したという自覚やその重みはないように思われます。 われわれが殺したというのですから 共犯者であると言っているはずですが どうもそのような印象がとぼしい。 あるいはつまり そのことに《罪悪感》を持とうものなら それこそ家畜なる種族がルサンチマンのなせるわざとして持つに過ぎないということなのではないですか? 勝ったなら 何も言わないと言っているのでは?
神は死んだ! 死んでしまい 蘇ることはない! しかも 我々が殺したのだ! 殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。 (『喜ばしき知識』125番) なんとなく思いついただけなので まだまだ考えがまとまっていませんが、 ニーチェは、神がいないといったような 批判の仕方をしていないような感じがしませんか? ふつう、キリスト教を批判するとき、 神はいない、という批判が多いと思うのですが、 ニーチェのその有名な箇所を読むと、 神は昔はいたけど、殺されてしまった。 しかも殺したのは、我々だ、と、 その神の死に自分たちが関わっているという なんというか、後悔?というか、責任?のようなものがありませんか? >いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これが問題だったりして? もう、神殺しの罪を赦してくれる存在などいないのだから。 復活でもしない限り。 しかし、復活しない。問題は深刻である。 どうだろう?
お礼
ご回答をありがとうございます。 今回のご見解は どうでしょうね。 前回の問題提起となるような主題は No.3お礼欄で《註》のかたちで取り上げました。(*1)から(*6)までありますが その中で次にかかげる(*6)を別としてほかの問題からほとんど離れてしまった。かのような感を持ちます。 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~ (*6)強情をつらぬいたのか:ならば 何らかの思想が――まだかたちを見せずに――芽をふきかけていたと解される。次のような推測として。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ひょっとして、ニーチェはキリスト教以後の世界を考えていたのではないか? 神が死んだといっているのは何を隠そうキリスト教なんだから。 それを受け入れて、その後の世界に必要なものは何か? それを考えていたのではないかな…。 わからない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《キリスト教以後の世界を考えていたのではないか》という主題に絡んでいると思いますが あとは言ってみれば 自分から主題の探究をそれ自身の内へと閉じ込めてしまったように見えます。 ★ ~~~ ニーチェは、神がいないといったような 批判の仕方をしていないような感じがしませんか? ~~~~~ ☆ あらたな主題を呼ぶような視点に見えなくもありませんが でもこの視点の場合には ★ しかし、〔殺された神は〕復活しない。問題は深刻である。 ☆ と言うのですから 《神はいないとは言っていない》としても 《復活することもない》というわけです。 別様に言うならば ★ ~~~~~ >いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これが問題だったりして? ~~~~~~~ ☆ であったとしても その問題の行き着く先は 見えない。というより ない。すでに《復活がないかぎり》 問題の解決にみちびくすべは いっさいないという設定がしてある。 いわばみづからを檻の中に閉じ込めたかっこうになっている。問題を見ているようで その問題は 閉じられた狭い部屋の中で ごちゃごちゃ言うのみという状態になっている。 思うのですが ★ ~~~~~ ニーチェのその有名な箇所を読むと、 神は昔はいたけど、殺されてしまった。 しかも殺したのは、我々だ、と、 ~~~~~~~ ☆ というときの《われわれ》にニーチェは はっきり自分が属していたと自覚して言っているのか? つまり 自分も――想像しうる世界においては―― キリスト・イエスを排除し抹殺する動きに参加していたと言っているか? もしユダヤ人と同じようにイエスを殺したという――想像上においてだとしても――共犯者の一人であったとするのならば とうぜんのごとくイエスとは何だったのかという問いを持つはずです。この問いをしっかりと問い続けているはずです。 どうもこれはない。ように思われます。 それでも確かに 冒頭にかかげた《註*6》の問題は引き続き持たれ問われて行くでしょうが それにしても やはり《イエスとわれとのかかわり》がどうであったかをきちんと捉えていないならば その問い求めの姿勢も発想もよわいし浅い。というように思われますが どうでしょう?
気になって検索してみたら どうやらウパニシャッドは、日本語の全訳がいつの間にか出ていたんですね。 ウパニシャッド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89 完訳文献 [編集] 湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。 日本翻訳出版文化賞だそうです。 って、 amazonで24,150円ではないですか・・・。 高い・・・。私は無理。 まあ、とりあえずあるようですので、訂正しておきます。
お礼
ふうむ。2000年の発刊ですか。 昔は なかったってことですかね。 ご回答をありがとうございます。 県の図書館にはまだ入っていなかった。代わりに次がありました。 湯田豊:ウパニシャッドの哲学 1985 平楽寺書店 だけど 中村元も書いているんぢゃないですかね。 とりあえず 了解しました。
補足
No.3の補足欄を承けて 次の主題について考えます。 ( a ) キリスト・イエスは なぜ死んだか? 復活とは何か? (1) キリスト・イエスは 確かに死を死んだ。の確認。 つまり 脇腹を剣で突き刺すと赤い血が流れ出たというように生身のからだにおいて 息絶えて死んだ。 ローマ兵士が 酸っぱい葡萄酒をふくませた海綿を棒でイエスの口に その死を早めてやろうと あてたところ イエスは息を引き取った。確かに死んだ。 (2) もしイエスがキリストとして神の子であり神であったのなら このようにはりつけの刑にあって死ぬという方法よりほかに方法はなかったのか? いくらでも方法はあったと考えられる。しかも このように十字架上に死を死ぬという方法が いちばんふさわしいと考えられた。 (3) まづ 濡れ衣を着せられるという問題もあるにはあると考えられます。 言いかえると 十字架にかかって死ぬと言っても 罪を犯したわけではないということ。それでも 審判がくだったというかたちをも取って 死に追いやられた。 これは 自死ないし自殺ではないということを言います。 上の(2)ではりつけの死が もっともふさわしい方法だというのなら それは みづからすすんで死に就いたのではないかと問われる。 けれども―キリストなる神としては そう望んだにもかかわらず―― 人間イエスとしては 大声で泣きその盃を取り除けて欲しいと神にたのんだのであり 死を欲したというものではないということ この事実をも確認しておかねばならない。 (4) ではどうして キリストなる神は 十字架上の死をのぞみその方法をえらんだのか? それは 暗闇の中にいつづけて来た人びとが光を見るにはどうしたらよいかという観点から考えられる。 かれらにほんものの光――神のことば――を見させるには どうしたらよいか? (5) それは この経験世界における因果関係から自由な存在――つまり神――が はりつけの刑に遭えば 人間としてはとうぜんのごとく死を死なせられるということ。これを知らせるためである。 どういうことか? (6) もしキリスト・イエスが その十字架上から――ちょうどローマ兵士らやユダヤ人らが 《おまえが神の子なら そこから降りて来い》と言って挑発したように――降りて行ったなら それは やっぱし神のチカラなんだから そのくらい出来て当たり前であろうと言って 何にもならない。からである。 つまり 闇の中に闇を照らす光は ただただ人間のチカラのおよばない神の・神としての光〔のみ〕なんだと思ってしまう。ゆえに 何にもならない。(人びとは この世に不思議なことの一つや二つくらいは 起こるかも知れないとすでに思っている)。 (7) けれどももし イエスがただの人間であって キリストなる神の子でありみづからも神であるという存在で 同時に あるということでないのならば 濡れ衣を着せられ磔の刑にもよく耐えた――その策謀をはかった人びとに対してもうらみを抱かず よく最期まで耐えた――というただのちょっとした人間としての英雄として扱われるのが落ちである。それで済んだことであろう。 つまり その磔の死によって アダムとエワ以来のいわゆる原罪があがなわれそれがチャラになったとしても それは 人間の理性や意志としての能力のことであるのかと問われる。つまり人間の能力と努力は 言わば有限であることにおいて薄暮の光であって 人びとは このような人間的な光を見て 罪のあがないが成ったと見たかとも問われる。 (8) 神のチカラは・神のひかりは このような人間のそれを超えている。 と思われた。しかも 神のチカラのはたらきは 人間の・その有限で相対的な世界の住人であるという条件を やぶらない。けっして人間の条件を――神ゆえにと言っていともかんたんに突き抜けて突き破って――超えるということをしない。 これが 人びとに見させようとした神のひかりであると考えられた。――と弟子たちは それぞれその心の内に思ったし その思いをいやというほど突きつけられた。 たとえば そのようにイエス・キリストは 弟子たちの心に復活した。(とかれらは 思った)。 (9) この光を見させるチカラである神なら 確かに《死ぬことはない》と考えられた。 そのチカラは 非経験の場として捉えられ その神をわが心に抱くなら それは 非思考の庭として成る。こう捉えられた。 (10) これが キリスト・イエスの死と復活である。 それとしての《信仰》である。 遠くアブラハムは この人・この神の登場を待っていた。そういう信仰であった。 その登場を垣間見て かれはよろこんだ。 とパウロは 思った。イエスもそう言っていると知った。律法のモーセを超えた。その時代は イエスとアブラハムとの中間におさまるとしてよいと知った。
回答がついていませんね。 そういえば、 以前、言及したサーリプッタの自殺についてはこちらを参考にしました。 仏教は自殺を本当に禁じているのか? http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私が質問した内容で、言葉足らずで、まるで先生を批判したような 文章になってしまったのが申し訳ない。誤解である。 最も、今更合わせる顔もないのだけれど。 ただ、とうとう昔の先生のことにまで言及してしまったのは 私のバカな頭では、もうさすがに限界で、 手に負えなくなってしまったからだろう。 たぶん、問題はヤージュニャヴァルキヤまで遡るだろうし、 アンギラスについても調べていくなら、 やはり、ウパニシャッドを読む必要がある。 昔、「ウパニシャッドに興味があるなら、英訳だけど注文するか?」 なんて言われて、そのときは、いりません。なんてスルーしてしまったけど 今となっては、やはりウパニシャッドが必要だなあ。 ショーペンハウアーもウパニシャッドを読め、みたいな事を書いているし、 当然、ニーチェにも影響を与えているだろう。 当時のドイツの知識人以下のインド哲学に関する知識しかないのが悲しい。 でも、そこまでする必要あるのかな。 それこそ、色即是空とか、念仏でいいなら それでいいのではないか? それになんで、ヴェーダの日本語全訳とか、古ウパニシャッドの日本語全訳 がないんだろう?
お礼
かざみどりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 次の論文から事例をひとつ取り上げて論じます。言いたいことを述べます。 ▲ (仏教は自殺を本当に禁じているのか?) ~~~~ 事例1:ヴァッカリの自殺(サンユッタ・ニカーヤ(相応部22.87)) 長者ヴァッカリは、陶器づくりの者の家で、病にふし、困苦し、重病であった。 …skip (ヴァッカリの願いで釈迦が病床に訪れ、体の具合を尋ねる。ヴァッカリは釈迦に答える)… 「師よ、わたしにはしんぼうができません。元気もございません。強い痛みが増して、薄らぎはしません」 …skip (釈迦はヴァッカリに無常を説いた後、帰る。その夜、鬼神が釈迦を訪れ、ヴァッカリの涅槃(同時に自殺でもある)を予言する)… 釈尊はその夜が過ぎてのち、比丘たちによびかけられた。 「比丘たちよ、あなたがたはヴァッカリ比丘のところへいきなさい。 行ってヴァッカリ比丘に次のように伝えなさい。 『…ヴァッカリよ、おそれるな。おまえの死は罪に汚れてはいない。 罪なくして臨終を終えるであろう』と」 …skip (比丘たちはヴァッカリに釈迦の伝言を伝える。ヴァッカリは教えに疑念を持っていないと釈迦に伝えてくれと比丘たちに頼む)… 「友よ、承知しました」と、この比丘たちは長者ヴァッカリに返事をして、帰って行った。そのとき長者ヴァッカリは、この比丘たちが出てゆくや否や刀を取り出した。 …skip (ヴァッカリは自殺した。後にそれを知って釈迦は次のように述べる) …比丘たちよ。善男子ヴァッカリは、その魂がどこかに止まることなく、完全な涅槃に入ったのである」 (『バラモン教典・原始仏典』456ページ。中央公論社) この事例では釈迦はヴァッカリにその自殺を予期した上で「おそれるな。おまえの死は罪に汚れてはいない」と安心させています。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 単純な反応を持ち これをしるします。 (1) 《おまえの死は罪に汚れてはいない》とゴータマ・ブッダが判断したことについて その信憑性はいかに? (2) それは 気休めではないのか? (3) 何でゴータマさんは その判断を断定するようにくだすことができるのか? まさか そのワッカリの死がたとえ汚れていたとしても ゴータマさんの神通力か何かのチカラで 浄いものとすることができるというのぢゃないのですよね? (4) 《完全な涅槃に入った》は《死んだ》というのと どう違うのか? (5) ワッカリはただ心が弱くなってその行動を採っただけではないのか? あるいはむしろただ死にたいというだけだったのではないか? (6) その死を貶めるのも無謀であり 美化するのもおかしいのではないか? 言いかえると 本人のためにも周りの人びとのためにも なぐさめの言葉をかけるのは 分かるが それは 自死にせよ他殺にせよその主題にかんする哲学の問題ではなく 文学ではないか? 理論を問わずに 人びとの耳にここちよく聞こえるように話をしたという文学ではないか? * ★ それになんで、ヴェーダの日本語全訳とか、古ウパニシャッドの日本語全訳がないんだろう? ☆ この問題に まづは帰着するようです。 でもね たとえば前田専学の解説書を読んで 《梵我一如》について その歴史的な変遷の基本についてかなりくわしく分かったと思いましたよ。 《汝はそれなり》というその或る種のさとり これは 基本であり有効なのではないでしょうか? わが子に説明したのだったか。誰だったかも もうその名前も忘れているのですが。 それは ★ ~~~~~ それこそ、色即是空とか、念仏でいいなら それでいいのではないか? ~~~~~~~ ☆ という見方と方向を同じくしていると言ってよいのではないか? 別の質問の趣旨説明欄から引いて来ました。 ▼ (三島憲一) 理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェ ▼ (同上) 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェ ☆ こういった理解は レクイエムになりうると考えます。ウパニシャドに必ずしも頼らなくても 捉えることは出来るかも知れない。 たとえば《理性と力との癒着の告発》を――おそらく筋をたがえてソクラテスないしプラトンに向けて・あるいはつまりその世俗版と見なされたクリスチアニズムに向けて――おこなったと言っても 当のニーチェは《力への意志》を書き綴っていたとも見られます。 ディオニュソスに帰れと言っても ヱーダは そういった酔っ払いの情熱に基本的に通じているというのでしょうか? かつての先生と いちど話をしてみるのもいいのではないでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 例によって質問者の考えをストレートに述べてご返礼とします。 ★ ニーチェは実はとても道徳的ではないのか? ☆ つづくご議論でその具体的な意味内容を捉えて行かねばなりませんが それでもこういう説き起こしには――つまり逆説のひびきがあるようなときには―― まづやはり《道徳とは何か?》や《道徳的であることは よいことかどうなのか?》の定義や説明が要るようには思います。 たとえば ▲ (ルカによる福音書 6:21) ~~~~~~ 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。 今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 或る種の見方でこれは道徳だと考えられます。 でもおそらくこの思想というのは 何も将来にどんでん返しが必ず起きますよと言っているわけではないでしょう。ましてや死後に天国に行けるというような気休めなのではなく そうではなく 《それでも ほこりを持ってこのいまを生きなさい》と励ましているということのはずです。《ふつうの人間であれ。生活を重んじよ》という当たり前の思想である。 すなわちもしそうではなく 文字通り将来に期するものがあるというようなことの・しかも思い込みに落ち入るのなら それこそただのルサンチマンでありそれを後生大事に反芻しつづけることになりかねません。 ルサンチマンを指摘しそれをいだき続ける生き方は 家畜であると言ったニーチェが では《実はとても道徳的である》のではないかとは どういうことか?(*1) そういう道徳をあらたに説いたのか? という問いがつづきます。 ★ ~~~~~ 人々は、一人の人間になった神を殺した。 ・・・ こうして、神はいなくなった。 ~~~~~~ ☆ これは 趣旨説明欄に書いたような《観念としていだかれている神 つまり観念としての思い込み》をころしたというのではなく そうではなく 生身の人間をひとり殺したという事態を言っているのですね。 《神の子を意味する〈ことば〉が肉となった》の主題について詳しく見てみなければならないでしょうが さしづめここでは このように《肉となった神》が殺され ★ こうして、神はいなくなった。 ☆ と捉えるその見方じたいについて 考えてみます。 なぜなら 聖書記者たちは その殺された神が《復活して現われた》と――ともかく――表現しているからにはです。(*2) すなわち ★ ~~~~~ 神は人間になったのであって、、 人間を超えるというは、かつての神を超えることではないのか? ~~~~~~ ☆ という推論の筋は ほんとうに《神はいなくなった》し再び現われることもなかったという前提での話になりますから。 つまりニーチェが キリストのおしえはすべていじめられた家畜が胸にいだくかに思われるような不平不満をブツブツ沸き立たせるようなルサンチマンに発するものであって それらはプラトンの気高き理念を宿すイデアの世俗的な二番煎じであるに過ぎないと捉えてまづ聖書記者たちの伝えようとした内容をしりぞけ そのあとそれでも あたかもそこにしるされた《肉と成った神》をモデルとしてのごとくそれに取って代わるものとして《超人》を持ち出して来て据えた。 こう言うのでしたら・仮りにこうでしたら 《世俗版のルサンチマン物語》にも何がしかの意味がありチカラをももたらしたというような評価をあたえているとさえ受け取られます。(*3) あるいはつまり それにもかかわらず プラトンないしソクラテスの思想は――その光り輝く理知主義がでしょうか―― ニーチェのしりぞけるところである。こうも思われます。 ではいったいニーチェはたとえばこの《超人》で何を言おうとしているのか? 何を――神やイデアをも超えて――見ようとしているのか? 何が見えたというのか? 永劫回帰を持ち出したとするなら 将来や果ては死後の世界にのぞみをつなぐのではなく そうではなく 初めも終わりも両方とも無いとする時間にけっきょくのぞみを寄せなさいと言っているのでしょうか? つねに それでもまだまだだから のぞみをつなげということでしょうか? 《同じ時間 同じ情況が繰り返しやって来る》のだから のぞみは消えないし消してはならないとでも言うのであろうか? そのためにこそ《チカラへの意志》があってそれは あたかも宇宙の主宰神たるブラフマンの息吹きのごとく神秘的に神の霊としても そしてまた人間たるわたしの持てるチカラがあたかも宇宙と同じように呼吸すると言えるかのようなその意志としても つとめ続けなさいと言いたいのか? でも どうでしょう? この解釈に従うにしても それらはすべて実にかんたんに分かるように やはり二番煎じなのではないか? たとえば梵我一如のもとに霊我なるアートマンを説く思想の単なるコピーに過ぎないのではないか?(*4) ブラフマンやアートマンを否定するから――否定しつつ けっきょくアートマンにそのまま対応するブッダター(仏性)をのちにでも説くに到るから―― ややこしいのであって 世界観の成り立ちは 類型としては同じであると 素直にみとめなくてはいけない。 《超人》のあたらしさは 何か? 独創性はどこにあるのか?(*5) 一向に分からない。と言うより そんなものはない。と もしニーチェは阿呆でなかったなら 分かったはずだ。ゴータマ・ブッダとて 同じである。 強情をつらぬいたのか。(*6) それとも 何も知らなかった――《死ぬことのない神》を何も知らなかった――のか? -------- (*1)ニーチェにおける《道徳》:善悪の彼岸を言う《道徳》ないし思想が 次のような側面をも持っていたようである。ツァラトゥシュトラのオシエは 善悪二元論を内にふくむ一元論であるらしい。 ★ ~~~~~~ ニーチェが善悪的な宗教であるゾロアスターの名を 著書のタイトルに使ったのも謎になってくる。 ~~~~~~~ (*2)キリスト・イエスの《復活》?:次の議論について ( a )キリストは実際に死を死んだ それはどういうことか? ( b ) 殺した者たちが殺されていわば生け贄になった者をその死後に聖化して崇めるようになりいつまでもオシエの源泉であると言わんばかりにいわゆる《宗教》とするそのカラクリは? の二つの主題として 補足欄で考えます。 ★ ~~~~ キリストは天に昇り、地上にはいない。 人間は神を殺した。 自分たちが殺しておいて、祈る道理はないのではないか? ~~~~~~~ (*3)《世俗版のルサンチマン物語》にも何がしかの意味がありチカラをももたらしたというような評価をあたえているとさえ受け取られます。:この見方は 次の見解とどう同じでどう違うか? ★ ~~~~~ ただニーチェの思想がおかしいと思うのは、 キリスト教の結果がニヒリズムであるなら、 積極的ニヒリズムはむしろキリスト教を評価しているのではないか? ということ・・・。 ~~~~~~~~ (*4)梵我一如の思想のコピーではないのか:★ 《ショーペンハウアーの憧れたインド》――☆ というときの《ショーペンハウアー》は どうなんでしょう? どう言っているのでしょう? (*5)《超人》のあたらしさは 何か? 独創性はどこにあるのか:次のように超人を《大地》と言い直すのは おそらくキリスト・イエスの《生活を大事にせよ》に通じるのであろうか どうであろうか? ★ ~~~~~~ あと、プラトンがイデアの影といったり、 インド哲学のマーヤーのヴェールのように この世界が幻影という考えに対して 大地を強調していたり…。 ~~~~~~~~~ (*6)強情をつらぬいたのか:ならば 何らかの思想が――まだかたちを見せずに――芽をふきかけていたと解される。次のような推測として。 ★ ~~~~~ ひょっとして、ニーチェはキリスト教以後の世界を考えていたのではないか? 神が死んだといっているのは何を隠そうキリスト教なんだから。 それを受け入れて、その後の世界に必要なものは何か? それを考えていたのではないかな…。 わからない。 ~~~~~~~~ これは 註(*2)の( a )( b )の二つの主題に絡ませて考えます。
補足
お礼欄の議論――そこでの註(*2)――を承けて 次の二つの主題について考えます。 ( a ) キリスト・イエスは なぜ死んだか? 復活とは何か? ( b ) イエスをころした人びとがどうしてその死後かれをキリストとしてたてまつるのか? ここでは( b )を《第三項(犠牲)排除の理論》の紹介において捉えます。( a )は 回答No.2の補足欄に継ぎます。 これは 自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。 特定のひとりを犠牲として扱い――それが第三項ということですが これを――排除するというナラワシについて 今村仁司は『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)において理論づけました。 この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて ささやかな批判をも添えて しるします。 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。 人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社会集団としては まちがって追い求める傾向があると見られる。 簡単に言うならば 集団の中の一人を例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から追い求めて行く傾向をも持つ。たとえ一定の一人の人を除け者にしてでも。・・・ § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現すると考えたらしい言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり《秩序》を楽しむことが出来るというのだそうです。 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行》現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れるであろうと。 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度はぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。それによって なお人びとは 安心するというその仕組みとして。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは崇めるようになるのだと。 したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。 このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。それによって人びとは安心するということらしい。 (菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられたという。そういうからくりであるらしい。) § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。 なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくということらしい。からである。 反動のチカラは 出る杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた異端分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。 一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに排除の戦争にまでも発展させる。ときに社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができる。 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか? ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作っていることになっている。 だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。 § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたいという欲望は おそらく強いのであって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分からない。 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか? 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主役である。 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。 § 10 イエス・キリストの聖化は 制度化して固まっている側面がある けれどもその宗教は 個人の信仰の原点にまでさかのぼって その要素要因としてまもり保つべきは保ち あとは要らないシキタリやオシエは 解体するにまかせればよい。 No.2の補足欄に継ぎます。