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中国の植民地
アヘン戦争のあと清は列強に分割され北京周辺をのぞく大部分を植民地にされました。日本も確か福建省を植民地にしてたと思います。しかし中華民国の地図を見ると全土が中華民国領になっていました。 1 これはなぜですか 2 そして香港とマカオはなぜ継続して英国領やポルトガル領だったん ですか
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植民地ではなく「租借地」だったんですね。 列強が強引に中国(清国)から、地代タダで、便利な沿岸部の土地を、半永久的に(99年間など)借りたわけです。 この租借地には中国の主権(警察権など)は及びません。 ですから、それらの土地は質問者さんのおっしゃるように、列強の領土のようなものですが、形の上では、借地ですから潜在的な主権(所有権)は中国にあります。 ですから、地図では皆中国領ということです。 似たようなものに「租界」というものがあります。これは租借地よりも面積は狭く、都市の一部分を列強が強引に借りたということですね。 これらの列強の借地の大部分は、この前の戦争の後、中国へ戻りました。日本は中国に戦争に負けたので(形の上では、実際にはアメリカに負けたんですけど)接収という形(中国が貸していたものを取り上げた)で、中国に戻っています。 香港、マカオは、契約の借地期間一杯まで、敗戦国ではないイギリスもポルトガル返さなかったということでしょう。 インターネットで「租借地」「租界」で引っ張ってみてください。詳しいところが出てきます。
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No.2です。No.3さんの博識振りには脱帽します。マカオは割譲でした。訂正します。 質問者さんが、「日本も確か福建省を植民地にしてたと思います。」と、述べられているのには、なにか原因があるようにおもいます。 たしかに福建省に日本が割譲されていた領土や、租借地、租界はありませんでした。 ただ、19世紀末に日本が福州(福建省)の一部を租界として借りるという協定が結ばれた事実があります。しかし、これは実行されませんでした。 このことが質問者さんの頭の隅に、残っていたのかも知れません。 No.3さんのおっしゃるように、地図は作った国の都合によって作成されるものです。 満州国は実質的に日本が作った国ですから、日本の地図には載っていても、ほとんどの国には、この建国は認められませんでしたので、中国の地図にはないはずです。 満州族は中国人(古い言い方でのシナ人)とは人種が違います。言語も中国語とは系統が全然違い、むしろ日本や朝鮮の流れに属します。だから、「日本は満州人を中国のくびきから解放し、満州人のための国を立てるのに援助した」というのが日本の建前でした(しかし、中身は日本の植民地の色合いもあったようです)。 話を地図に戻しますと、北方領土や竹島、尖閣諸島などは、領有権を争っている外国(ろしあ、韓国北朝鮮、中国台湾)の地図には、自分の領土として書かれているはずです。 情けないことに、昭和20年代の日本地図一部には、北方領土についてあいまいな記載がありました。大変残念なことです。こんなことでは相手国につけこまれてしまいます。
- takashimadaira
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質問者さまには失礼ですが、もう少し歴史を勉強してから質問された方がよさそうですね。事実認識があまりにも足りない部分が多すぎます。 アヘン戦争のあと清朝は列強の半植民地状態に進んだのは確かですが、植民地にほぼ全土がなったということはありません。日本が福建省を植民地などという話は全くありません。良港がある一部の沿岸都市が植民地として割譲されたのみです。このほかに租借地、租界というものがあります。 まず歴史が一番古いのはマカオ。ポルトガルがアヘン戦争以前に宣教や貿易のために清朝から譲り受けたのが最初。このころは国際法という概念もなかったでしょうが、事実上の植民地です。香港はアヘン戦争後、香港島と九龍半島部分が割譲(期限のある租借ではありません)され、その後大陸に隣接して最も面積の大きい新界が99年間租借されました。この3か所をあわせて「香港」といいますが、これは英国の植民地でした。したがって、新界部分は99年期限が過ぎると返還する必要があったのですが、香港島などの部分は返す必要もなかったのです。ただ、一部だけ返しても経済的に成り立たないので全体を返すことになったわけです。マカオもしかりで、ポルトガルに割譲されていたわけで返す必要もなかったものの、香港に倣ってそう決めてしまったわけです。 質問者さまがどのような地図を見て言っているのかよくわかりませんが、戦前の日本の地図などを見れば、満州は「独立国」として扱われていたので地図上もちゃんと表記されています。また、日本が当時租借していた現在の大連(関東州)、もっと遡ればフランス(広東省沿岸の広州湾など)、ドイツ(威海衛(山東省))なども表記されています。ただ面積が小さいので大きな地図には点のみになってしまうので省略されたものもあるかもしれません。これらはいずれも何らかの条約が存在して割譲または租借という形の植民地として国際法的にも認められたものです。上海などにあった「租界」はレベルで言えばその下のものといえます。さらに植民地でなく外国の影響下にあったところといえば、フランスなら広東省、第1次大戦までならば山東省はドイツ、満州国成立以前であれば東北各省は日本ということができます。 もし、中国側が作成した地図を見ているのであれば、そういう植民地の存在は「歴史の恥」として隠している可能性もありますので単純に信じ込まない方がいいと思いますね。「中華民国」の立場としては最近まで現在のモンゴル国までを自国領土として扱うものもありました。もっとも清朝滅亡以降の戦前の「中国」(シナと言った方が適していますが)は軍閥が戦国時代のように各地を押さえたりしたり、中華民国も各地に政府ができたりなど、国としての体を全くなしていなかったことも知っておく必要はあると思います。 以下のサイトは昔存在した植民地などの扱いについても地図を掲載しつつよく説明しています。ご参考にどうぞ。
- nacam
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列強各国が、中国を植民地にしたのではないからです。 列強は、中国から政治的、経済的権益を割譲させただけで、直接の統治は、中国(清や中華民国)が行っていました。 また各国は、国民の中国を行っていませんから、植民地には当たりません。 唯一の例外が、日本による満州への殖民です。