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昔の人は冬の寒さをどうやってしのいだのですか。
灯油ストーブが各部屋に普及するのはいつ頃なんでしょう 。 上流階級から庶民まで各時代の日本人はどのように寒さをしのいでいたのでしょうか。 素足で粗食、隙間風。 あるじ以下全員集合で囲炉裏ばた? 殿様もヌクヌクとはいかなかったのですかね。 日本人らしいですよね。何でですかね。日本人はケチ文化なんですかね。 私は暖房入れていないのですがこれでは冬に寿命が縮みます。昔をしのばれる状況です。 昔の人はどのくらい寒い思いをしていたのですか。平成の現代人には耐えられませんよね。 ご教授のほど宜しくお願いします。
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こんばんわ。 bungetsuです。 お読みいただきありがとうございます。 >>行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。 江戸時代は士・農・工・商と言われましたが、江戸市中を見る限り農業は0%、工業(鍛冶職、鋳物職など)は10%、商業は30%、後は、大工や鳶職などが10%、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが50%。 従って、江戸は一大「消費都市」だったのです。 さて、話を戻しましょう。 以外と思われるかも知れませんが、江戸の周辺には「炭焼き」が非常に多かったのです。 武蔵(八王子、川越、秩父など)・・・・東京都および埼玉県 伊豆、駿河、遠江(とおとうみ)・・・静岡県 相模・・・・・・・・・・・・神奈川県 甲斐・・・・・・・・・・・・山梨県 常陸・・・・・・・・・・・・茨城県 上野(こうずけ)・・・・群馬県 下野(しもつけ)・・・・栃木県 上総(かずさ)、安房(あわ)・・・千葉県 下総(しもふさ)・・・・千葉県の一部と茨城県の一部 「享保通鑑」という史料によると、享保11年(1726)に船などを使って江戸へ運び込まれた炭は89万9710俵、薪は1829万9687束とありますが、薪は当然のことながら、主に煮炊き専用でした。 前回も述べた通り、江戸では囲炉裏などで大々的に火を焚くことは禁じられていましたので、必然的に暖をとるためには炭に頼らざるを得ませんでした。となると、値がどんどんと吊り上ってしまいます。 そこで、幕府もたびたび炭の値段については「御触れ」を出し、庶民でも気軽に購入できるよう「価格統一」などを行いました。 しかし、薪に関しては、なぜかこの「価格統一」がされませんでしたので、大量に出回るにもかかわらず、結構な価格となってしまいました。 従って、炭は割合安く購入できたようです。ただし、備長炭のように長持ちはしなかったようですね。 まあ、長屋暮らしなどでは家計費を圧迫はしたとは思いますが、寒さにかえられなかったのではないでしょうか。 ご存じ、赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介が隠れていたのが「炭小屋」でしたね。 武家は炭は安かったので、結構溜め込んでいたようです。 >>明治以降戦後についてもご存知であればご教授ください。 明治に入ってからは、近代化が進み、西欧諸国から工業技術を積極的に取り入れたため石炭の採掘に力を入れ始め、年間200万トン余りも生産されていた炭も火力が弱いために、10年も経たないうちに約6万トンの生産量・・・と言うよりも使用量に減ったと言われています。 そして、現在のように一般家庭で電気、ガス、石油が使われ始めたのは、何と、第二次世界大戦の後の1950年後半で、それまでの木炭(炭)、薪、石炭から電気、ガス、石油への転換が急速に進みました。 これを「燃料革命」と呼ぶ学者もいます。
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- eroero1919
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真冬に白川郷の合掌造りを見に行ったんですよ。んでね、観光用に屋内を解放された家に行って驚いたんです。なにがって、意外にもかなり暖かいんです。1階でストーブなんかを焚いていたのですが、合掌造りで蚕置き場になっている2階や3階も外とは障子一枚しか隔ててないのに、結構暖かい。もちろん暖房器具なんて置いてありません。だけどコンクリートのマンションなんかよりずっと暖かいんです。茅葺ってかなり保温/断熱効果があるんですねえ。あれは驚きました。先人の知恵には脱帽するばかりです。 コンクリート造りの建物より、木造茅葺のほうが保温/断熱効果は高いようです。安アパートだったりすると断熱材を入れていないところもあったりしますから、そうだとかなり寒いですね。 とはいえ、日本人(というか世界的に)はつい100年くらい前は平均寿命が40歳くらいでしたから、それなりの年齢になったり、あるいは壮年であっても冬を乗り切れる体力がなければ簡単に死んじゃったと思います。 でも、北海道にもホームレスはいたりするんですから、案外人間はなんとかなるっちゃなんとかなるんでしょうね。ただし、北海道のホームレスはやっぱり全員道産子みたいですけど。札幌でマイナス10度の中、ヤンキー風の高校生がシャツの第二ボタンを開けて鎖骨を見せつけながら肩で風を切って歩いているのを見たとき道産子にはかなわないと思いました。
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いつもありがとうございます。 熱源は要りますよ。体温だけで実現するのは無理です。 軒の低い屋根の断熱があると昼間の太陽から熱を得られません。屋内の熱源なのです。 北海道の路上生活者は渡り鳥しないのかね。サバイバルの達人だな。 ヤンキーは路上の時間だけでしょ。家はエアコンがんがんでしょ。そのサイクルなら耐えられます。平成の漁師と同じように。 昔はぬくぬくは湯の中だけではありませんか。後の時間は熱源が豊かじゃありませんよね。 生活史も含めてまたご教授くだされば幸いです。
- Him-hymn
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昔って、どのぐらい昔かという問題はありますが、現代とは違う風景がいろいろな時代にありました。 昭和の中ごろまでーー 本格的な冬に入る前に、障子の張り替えをします。 紙で室温を少しでも温かくするという、日本的考えです。 掘り炬燵もありました。炭火で。靴下に穴が開いたりして。 薪も使いました。 学校では、コークスで暖房しました。 コークス当番が早く学校へ行き、教室のストーブに火をつけてましたね。 雪深い地域でも、薪を割って冬用意。 食料もなくなるので、漬物(長持ちする保存食ですね)を漬けておきました。 エアコンなんてありません。 そうそう、トイレが外にあったりして。寒くて死にそう。 北海道の冬もひどいものだったと思います。 オホーツク沿岸の網走あたりでも根室でも、マイナス20度以下はざらでしたね。 下手をすると凍死です。 只見の方の山奥には、冬、道路が使えず、鉄道の鉄橋を渡ってという場所があったのにはびっくり。 さすが豪雪地帯。でも、私もその鉄橋を渡りましたが、下を見ると、数十メートル下に只見川が流れているんです。高所恐怖症の人では生活できません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 どのくらい昔でも構いません。日本の寒さの歴史です。 先祖の話でも有り難いです。 現代生活よりは寒かったはずです。 そういや冬にありましたね。障子の張り替えは12月くらいでしたっけ。紙を変えるとなぜ防寒になるの? なんで日本人は寒い時に掃除するのが好きなんだろ。水で凍るよね。そんで、さ湯と火鉢ですか。手の綺麗な女なんか少なかったでしょうね。 エアコンと炬燵を二日切ってみてください。歴史を体感学習できます。ずっと切れば簡単に寒さの歴史が逆流します。
- sporespore
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お礼
リンクは見られません。 本サイト内にテキストとして、引用した回答文をお願いします。
- 佐藤 志緒(@g4330)
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子供の頃は丹前を着て火鉢で暖を取ってました。 障子1枚で外だったが寒さに困ったことは無いです
お礼
回答ありがとうございます。 子供は風の子はいつでもそうでしょう。 今も耐えられますか。ブレーカーを切ってサッシを少し緩めて昔の年寄りについてもご教授ください。 江戸や明治の大人はおおかた素足でしたよね。火のない家はないわけですね。
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お礼
ご丁寧にありがとうございます。とても勉強になります。 吉良は炭小屋でしたか。ドラマで炭を転がす演出でもあれば私の理解も深まったのですが。 今後ともご教授よろしくお願いします。
補足
江戸城や江戸以外の武士も囲炉裏のようなものは無しですか。 中国や韓国の方が暖かかった? 冬を暖かくというのは最近の流れですね。それがエコと並行しているのだから落語有権者です。 ホットジャパン。 家計を圧迫したら革新的な変化があってもいいように思うのですが。素足で障子一枚のまま?食い物よりも炭代ですかね。 老若男女、馬鹿も利口も、障子一枚というのが解せません。 短命だったはずですよ。