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それでもあなたはニーチェ党か。
- ニーチェによる善と悪の問題の解決を待つルサンチマンの人間についての疑問。
- 強さと弱さについての矛盾と、力が意欲や作用そのものであるという考え。
- 行為者や基質という概念の虚構についての議論。
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こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ かく言うニーチェ自身の発言が、社会的敗者である彼のルサンチマンに基づく発言。 したがって、 ○ 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 のごとく、道徳は弱者のルサンチマンに基づくいわれのないもの、とニーチェが文句をつけるいわれはない。 矛盾、矛盾。 ニーチェの一連の発言は、矛盾に満ちている。 そして、彼の発した言葉が彼を傷つける鋭い刃となる。 何たる矛盾、何たる皮肉!! 眠り猫は、かく考えます。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ ○ 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 ~~~~~~ 被害者なのだから、子羊には猛禽に文句をつける理由はあるでしょう。 その文句や論理を強者である猛禽を受け入れないだけです。 《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》 この論理、愛は通用しないでしょう。 この愛は、子羊を食べ物として愛しているにすぎない。 子羊の食べ物としての一面しか見ていない。 《愛》というのだから、子羊のすべてを愛してもらわないと困る。 子羊の文句を聞き入れるかどうかとは無関係に、その文句、不平だけは聞いてもらわないと。 そして、子羊の文句を言うところを含めて愛してもらわないと。
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- kurinal
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>「行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである」 「罪を憎んで、人を憎まず」ですか
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ >「行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである」 ☆ この文ないしこのひとくだりの文章の意味についてですが たぶんそれでは 自由意志はどうなるのか? ということが疑問になるのではないでしょうか。 もしニーチェの考えに沿って捉えるならば こうなると思います。 つまり わたしたちが行動を起こす前に いろんな考え方を想い起こし取り巻く事情を考慮しひとつの結論を得てこれを行為に移す。 このときたとえばその背後に《存在》がいるとか あるいは《行為》と《行為者》とを分けて考えるとか言うのは おかしいと言います。 いくら人間が考えてもそして選択肢からよいものをえらぶという自由意志を発揮したと言っても それは すでにおこなわれるべき《行為》の一環としてあるに過ぎない。むしろ《行為》は 初めから 《行為》そのものとして決まっているのだ。それは 《ちから》である。チカラは 《ある量の欲動 意欲 作用》として われわれ人間の思考や意志判断の如何にかかわらず 決まっているのだ。 正義の神があるとか ワタシはあのときほんとうはこれこれのように考えたしそう振る舞った・だから現われた行為とその行為者であるワタシとは違うとか そういうふうに思ったり言ったりするのは 《負けた者》の想像であり悔いから出た産物だということのようです。 ★ 「罪を憎んで、人を憎まず」ですか ☆ どうでしょう? 罪を犯したその行為と行為者である人と。これらは 分かれていないと言っているのだと思います。 勝った者は 確かに行為と行為者とを区別しないのだから 負けた者についておまえたちは弱いという認識を持って終わりだというのでしょう。すなわち いちいち負けた者の人間に対して ねたみやうらみを持つことはないのだと。 ぎゃくにねたみや恨みを持つのは 区別する必要などないのに行為と行為者とを区別するから 持つ必要のない怨恨を持って 勝った者の人間をも憎むことになるのだと。 きわめて一面的な見方だと言わざるを得ません。 ニーチェは ニチェクチャです。滅茶苦茶です。
- littlekiss
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志向性・語り・行為 ―ハイデガーの現象学的行為論― http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/europe/pdf/seur-28-01.pdf 有斐閣 http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641173354
お礼
質問内容と無関係であることが判明しました。 今後は 関係のある投稿であっても 無礼であると判断します。
- littlekiss
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たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように ↑ を自然の力には逆らえないと捉えるなら 後段の ↓ ――行為がすべてなのである。 ↑ は、「為す術なし」となりはしまいか? 恐慌経済はなぜ世界に戻ってきたの?(中央公論別冊) http://www.chuokoron.jp/2012/02/post_2.html 立憲主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E4%B8%BB%E7%BE%A9 ジョン・ロックと立憲主義の理論 http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/7566/2/HIKONE%20RONSO_046-047_389-404Z%20mori.pdf 魔笛 http://www.oekfan.com/note/mozart/zauberflote.htm 子羊たち←群れ集団 小さい羊←選び取られる対象 群れ集団の中よりより小さな羊を引き離す 理由↓ 民法「親権制限制度」改正 ― 平成24年4月1日施行 http://www.gov-online.go.jp/useful/article/201203/1.html
お礼
★ ~~~~ たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように ↑ を自然の力には逆らえないと捉えるなら ~~~~~~~ ☆ これは そうではなく 《自然の力》を持ち出して話を当てはめるならば ○ 自然には 自然の現象とそしてその背後の自然の力なる主体とがある。だが このようにふたつに分かれると見ることは まぼろしである。 とニーチェは言っているようです。 ★ ~~~~~ 後段の ↓ ――行為がすべてなのである。 ↑ は、「為す術なし」となりはしまいか? ~~~~~~~~ ☆ ですから もし《自然の力とその現象》といったまぼろしの理論を持ち出すなら 次のようになると言っているようです。 一方でニーチェはそうではなくその自然のなり社会のなりの現象にたいしてその《行為ないし現象が 力と一体であって すべてである》と言っており 他方でその弱者が持ち出した理論によるならば 《為す術なし》ではなく そうではなく 《その行為や現象の背後に控えるチカラなる主体が 人間のチカラを超えて何らかのかたちで現われ出て来て 道徳的によい方向へと みちびくであろう》となる。――そんなことは ありはしないとニーチェは言おうとしているようです。
- ukiyotonbo
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>何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・ 色即是空・心(受想行識)即是空であるなら 精神も空である。
お礼
うきよとんぼさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 しっかりとこちらの回答内容を見ていなかったけれど これぢゃ話にならないなぁ。 ★ 精神も空である。 ☆ ところのニーチェの精神における考えも 空である。か? とは言うものの ☆☆(趣旨説明欄) 空即是色・空即是心(受想行識)であれば 精神分析なる行為も精神の状態もそれとして――仮りの現象として――起こっている。 ☆ とも言うのだから ニーチェのあたまがまるっきり空っぽだと決めつけてしまうわけには行かない。ぢゃん?
- kusirosi
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自民党員ですが\(^^;)... zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
お礼
くしろしさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ん? qqqqqqqqqqqqqqq
補足
自民党は 《猛禽》だが 文句あっか? という意味でしょうか?
お礼
ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まったく無条件におっしゃるとおりだと思うのですが では――つまり批判すべき論点として恰好のくだりを見つけたと思っているのですが―― そのように世間では見られているのか? です。 ふつうの見方考え方がもし通用しないとすれば それは一体どういうことか? です。 まだまだニーチェを持ち上げる人たちはいるはずです。ではその言い分は どういうふうなものなのか? です。 ではないでしょうか? ひとこと気づいたこと。ほかの人の文章からはよく気づくようです。つまり ★ ~~~~ ニーチェの一連の発言は、矛盾に満ちている。 そして、彼の発した言葉が彼を傷つける鋭い刃となる。 何たる矛盾、何たる皮肉!! ~~~~~~ ☆ 少々苦情をつけ添えますと この論理は 批判しているのですが まだ弱いかも知れません。 《発言者であるニーチェ自身を傷つける》とすれば それとして・その威力なりに ニーチェの言っていることは有効である――こう見たことになります。これは 弱い。のではないか? つまり論理じたいがまちがっているはずです。 ○ 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 とにもかくにもほかの人に迷惑をかけてはいけない。わけです。その人の意志に反して力づくで連れ去るのは 自由意志を踏みにじる不法行為です。この命題が通るのなら 法律も警察も要りません。 これほど明らかなことについて では どうして翻訳も出されるわ話題にものぼるわで まだ相手にされているのか? ここに引用したくだりは 何かのレトリックであって字面どおりの意味ではない・・・というようなことがあるのでしょうか? あるいは ニーチェ党は とにかくこのくだりについてどう捉え もしわるくないと言うのなら どう説明するのか? 知りたいところです。