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それでもあなたは ニーチェ党か。
▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~ ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。 そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。 ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。 ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。 弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。 ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。 たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。 しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。 (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 ) ~~~~~~~~~ ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか? (あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 (い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。 ☆ ご見解をどうぞ! 何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・ さもなければ キ印であるとしか考えられません。
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- kurinal
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B様、こんばんは。 >「ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。 たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。」 それで、「神は死んだ」ですか? (強さを現すも現さないも) 「人権」への配慮は、充分ですか?
- NemurinekoNya
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こんばんは。 これは、人間の世界の話ではなく、それ以前の獣の世界の話ですよね。 《獣の論理》。 弱肉強食の、《万人の万人に対する闘争》状態の話。 ヒトが人間ではなく、獣であり、《狼さん》であった時の話。 ですから、この状態では、人権なんてものは存在しない。 ヒトは、己の身は、己の力で守らなければならない。 身の危険を感じたら、 あるいは、 他のヒトが自分の財産を犯そうしていると感じたならば、 これを守るために殺人すら肯定される、とってもコワい世界。 そして、 こうした世界においては、《弱さ》は、悪ではないにしろ、善きものではない。 ニーチェのお話は、このケダモノの世界のお話です。 生物学的なヒト―――ケダモノ―――の世界の話ではあるかもしれませんが、 人間―――他者と話し合いができる―――の世界の話ではありません。 ☆(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 ◇鷲と子羊は断絶していますから、鷲・猛禽と拉致された子羊との間に話し合い・交渉の余地はありません。 子羊の文句は、鷲にとって弱者の戯言にしかすぎないんですよ。 《愛》という言葉一つとっても、子羊の《愛》と鷲の《愛》とでは意味が違う。 ですから、話し合いの場を設けたとしても、話し合いにならない。 弱い者は、強者の論理に従うしかない、忍従するしかない。 子羊がこの状況を打破するためには、鷲を屈服させるチカラを手に入れるしかない。 しかし、これは《チカラこそ正義》のケモノの世界の話です。 人間の世界の話ではない!! 強者は弱者を常に虐げる存在なのか? 小さな子供が泣いていれば、「どうしたの?」と声を掛け、助けようとするのが、人情。これ幸いとばかりに、この子供を拉致して売り飛ばしたりはしないでしょう。 これは、 強者の弱者に対する憐れみや、理屈や損得、名誉や義務感からではなく、ヒトの自然な心のハタラキです。 ただ、自分にそうした力―――泣いている子供の手助けになる力です―――が備わっているから、助ける。 いや、そうした力がなくても、助けようとする。 行動に移さないまでも、「この窮状から救う手立てはないものか」と思案する。 「自分にはできないけれど、誰か助けて」と心の中で願う。 ☆ (い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。 ◇幻の如くでっち上げた《道徳》である場合は、あるのでしょうね。 ルサンチマンかといえば疑問符ですね。 強者と弱者の論理が異なっている、と考えるほうが自然だと思います。 「――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。」 という文章にも関係するのですが、 「他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われない、そのように強者が自制することこそ、真の強さである」 であってもいいわけですよね。 そのような能力を有しているということと、それを行使することは別な話ですから。 矛盾はしていない。 子羊が鷲にこのように説いたとしても、これはルサンチマンとは言えないでしょう。 鷲をこれで丸め込めれば、もっと好し(笑い)。 それでですね、 ニーチェのこの強さと弱さの話、 ど~も私には引っかかるんですよ。 この強さと弱さの話は、二項対立の構図であまりにも単純すぎると思うんですよ。 たとえば、ガラス。 ガラスは硬いけれど、同時に脆い、衝撃に対して弱いんですよ。 硬さと脆さは、あるものに対する強さとそれとは別なものに対する弱さは、両立しうるといいますか、コインの裏表の関係にあるですよ。すこし小ずるい言い方をするならば、強さと弱さは両立しうるんですよ。そして、長所は欠点にもなりえますしね。 さらに、鷲と子羊も単純な二項対立の構図ですよね。 猛禽を捕食するものが存在しているとするならば、鷲は弱者の立場に置かれる。 鷲は子羊の立場に置かれるんですよ。 強者と弱者の関係や、強さと弱さも相対的なものなんですよ。 ニーチェは、こうした議論をすべてすっ飛ばしていますよね。 これは如何なものかと思うのですよ。
お礼
こんばんは ねむりねこにゃさん。ご回答をありがとうございます。 ◇ ニーチェのお話は、このケダモノの世界のお話です。 ☆ ではありますが ▲ ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。 ☆ というふうに《テーマ》を特定し明確にした上での話です。 とうぜん その主題についての回答を寄せるかたちで この獣の世界の話をタトエとして語っていると思うのですが どうでしょう? もしそうではないとすれば タトエですらなく 《ルサンチマンから人間が考え出したという善》なるテーマとは 関係ないということになります。すなわち: ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・ 弱い者は、強者の論理に従うしかない、忍従するしかない。 子羊がこの状況を打破するためには、鷲を屈服させるチカラを手に入れるしかない。 しかし、これは《チカラこそ正義》のケモノの世界の話です。 人間の世界の話ではない!! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが 人間界の話としては: ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 強者は弱者を常に虐げる存在なのか? 小さな子供が泣いていれば、「どうしたの?」と声を掛け、助けようとするのが、人情。これ幸いとばかりに、この子供を拉致して売り飛ばしたりはしないでしょう。 これは、 強者の弱者に対する憐れみや、理屈や損得、名誉や義務感からではなく、ヒトの自然な心のハタラキです。 ただ、自分にそうした力―――泣いている子供の手助けになる力です―――が備わっているから、助ける。 いや、そうした力がなくても、助けようとする。 行動に移さないまでも、「この窮状から救う手立てはないものか」と思案する。 「自分にはできないけれど、誰か助けて」と心の中で願う。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり《小羊と猛禽との動物物語》は 何の関係もない。 何の関係もない話を持ち出して 著者ニーチェは 何を考えているのか? ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ 「他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われない、そのように強者が自制することこそ、真の強さである」 であってもいいわけですよね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは 《強い者が 弱い者を打ち負かすことはなくても 矛盾ではない》ですね。 《ある程度の経済力をたくわえた国が 周辺のまだ強くない国に対して 物理的なチカラで圧倒することがなくても その強さとその現われについて矛盾はない》ですね? ところが ニーチェなる男は どこかで《必然と意欲とは 同じことだ》と言っていると言います。 それが 《権力への意志》だと。 すなわち それこそが 《永劫回帰としてのチカラの自己運動》なのだと。 《行為の主体》はいない。チカラないし 権力への意志というチカラ が世界のすべてだと。 《命令と抵抗》とのらせん状の戦闘過程が 権力への意志の運動として永劫回帰している。これが世界だというのだそうです。(新田章:『ヨーロッパの仏陀――ニーチェの問い――』 1998)。 人間が権力を持ちこれを揮うというよりは そうではなく 権力が人間をして 人間どうしのあいだに《命令》をくださしめそれに《抵抗》せしめるという過程とその循環。これが 世界だと言うのだそうです。 権力への意志なるチカラとその運動過程しか 世界にはない。その永劫回帰の過程そのものとして生きるのが 人間つまり超人であると。 もともと世界はニヒルなのだから 人間が主体になるなどということは 考えられない。考えるのは 弱い者であり 畜群である。強い超人は 永劫回帰するチカラに自分が乗り移るのだと。 ということだそうです。 もしそういう理論であり思想でありむしろ物理学の方程式であったら どうなるか? ◇ この強さと弱さの話は、二項対立の構図であまりにも単純すぎると思うんですよ。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さらに、鷲と子羊も単純な二項対立の構図ですよね。 猛禽を捕食するものが存在しているとするならば、鷲は弱者の立場に置かれる。 鷲は子羊の立場に置かれるんですよ。 強者と弱者の関係や、強さと弱さも相対的なものなんですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらくこのように《人間的に》考えるのは 多少とも《行為主体》という概念をあたまの中に持って 善悪の道徳を考える《弱者》だからだということになるのかも知れません。 いやぁ おっそろしい力学理論ですね。 新田の本をまだ全部は読んでいませんが この《権力への意志なるチカラの永劫回帰する歴史過程》は 世界のダルマのことだとなると言うのかも知れません。超人なる仏陀。仏陀なる超人。 いかが料理しましょう?
補足
新田章:『ヨーロッパの仏陀――ニーチェの問い――』 ▼ (《ヨーロッパの仏陀》対《インドの仏陀》) ~~~~ ・・・仏教は現実の苦から出発し 苦の起と滅との根本メカニズムを流転縁起と還滅縁起として語る・・・。 縁起は単なる自然法則ではなく 苦の因果連鎖の”道徳的”探究である。否 仮りにそれが自然科学的・機械論的であっても 因果への信仰そのものが本来道徳的なのであって 現在を過去の諸原因に遡って説明し 意味づけして 現実の苦から逃避しようとする衰弱・疲労した生の症候なのである。 苦が耐え難いのは《苦そのものよりも むしろ苦の無意味さ》(『道徳の系譜学』)であるから。 この弱化した生の無能力 つまり無への意志・死への意志が 仏教の場合には 涅槃への憧憬として現われる。だからニーチェにとって真の問題は 実は縁起・因果への信仰の方である。これこそニーチェが仏教に対して抱いた違和感の正体なのである。 しかしこれこそはまた 永劫回帰到来時にニーチェ自身煩悶せざるをえなかった問題そのものではなかったろうか? そしてむしろ涅槃のような逃げ道が無い分だけ その問題は一層痛切だったのではないだろうか? 《一切の”かく有りき”( es war )が 再び”かく有り”( es ist )に成る。一切の到来することの尻尾に過ぎ去ったことが噛みつく》(独語版全集の第七巻第一分冊 断片4[85]とあって 特定できず)。 過去の業が現在を 現在の業が未来を決定する。《時が逆流しないこと これが意志の憤怒である。”かく有りしこと”――意志が転がしえない石はかく呼ばれる》。(『ツァラトゥストラ・・』) 《時とその”かく有りき”への敵意 これが 否 これのみが復讐そのものなのだ》。(同上) これらの言葉と 既に引用した《生存もまた永劫に繰り返し行為(=業)であり 罪であらざるをえないこと これこそ”生存”という罰における永劫である》や あの予言者の言葉《一切は空だ 一切は同じだ 一切は有った》を見るなら”ヨーロッパの仏陀”の業・縁起説が《かく有りき》の因果連鎖だったことは明らかである。 ニーチェがこれと格闘したことは 永劫回帰到来後に因果律への問いが急増することからも分かる。彼は仏教の不徹底な因果説を 一切の逃げ道の無い《仏教のヨーロッパ形態》という《最も極端なニヒリズム》の因果説へと先鋭化した。 それゆえ 『ツァラトゥストラ』にオルデンベルク『仏陀』読書の痕跡が見出しにくいこと 有るにしても永劫回帰の絶対肯定の前段階に位置づけられていることは 彼が仏教の縁起説をいかに《かく有りき》に引き付けて理解し 克服しようとしたかを裏書きしている。 つまり ニーチェの仏教との対決は 実はニーチェ自身の永劫回帰のディレムマとの対決に他ならなかったのである。 それでは 《かく有りき》の因果連鎖はいかにして克服されたのだろうか? ――彼の答えは単純である。 《かく有りき》は何ら事実でも真理でもなく 捏造・妄想にすぎない これである。 ニーチェが《永劫回帰の思想》を《およそ到達しうる最高のこの肯定の定式》(『この人を見よ』)として体得した時 彼は同時に決定論的永劫回帰が自己崩壊するのを したがって必然性と自由とのあのディレムマそのものが氷解するのを体認しただろう。 ・・・ (第七章 pp.258-259 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 途中ですが 要するに 《意志だとか行為の主体》といった概念は妄想としてしりぞけ ただただ権力への意志として永劫回帰するチカラに みづからが成るということ。そこには 《必然と自由との背反》は無く ただひとつのチカラの運動がある。超人。・・・なのだそうです。 エポケーか。単なる思考停止か。ただの西欧型シャーマンの取り憑きさわぎか。・・・
- kurinal
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教育、教育、教育。
お礼
人権にうとかったニーチェをよく評価する向きに対して ★ 教育、教育、教育。 ☆ という方針だということですね。 ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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>「分かりました。 つまり 教育立国というような方針を立てたということでしょう。」 「♪ freedom!!」 では、ないような。
お礼
ふむ。教育上の施策を具体的に打ち建てたというよりは 思想の次元でうったえている。というような意味でしょう? という心つもりです。 ふむ。 ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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education,education,and,education
お礼
分かりました。 つまり 教育立国というような方針を立てたということでしょう。
- kurinal
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>「いづれにしても そのニーチェをよく評価する人がおおいのです。 いったいどうしたことでしょう?」 「教育、教育、教育」(英国、ブレア元首相)
お礼
ブレア氏が そんなことを言っているのですか。 学校には期待できないでしょうから さしづめこういう Q&A の場がよいのかも知れません。 ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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B様、こんにちは。 ニーチェは、人権には疎かったんでしょう。
お礼
こんにちは くりなるさん。ご回答をありがとうございます。 ★ ニーチェは、人権には疎かったんでしょう。 ☆ そういう段階のあやまちでしょうか? わたしは 致命傷だと考えます。 いづれにしても そのニーチェをよく評価する人がおおいのです。 いったいどうしたことでしょう?
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ですから ★ ~~~~~~~~~~~~ それで、「神は死んだ」ですか? (強さを現すも現さないも) 「人権」への配慮は、充分ですか? ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という物言いを この文章の著者であるニーチェに向けて放ってください。そういう問題です。よ。くりなるさん。