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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:般若心経の無苦集滅道について)

般若心経の無苦集滅道について

このQ&Aのポイント
  • 般若心経の中にある一節「無苦集滅道」の解釈について知りたい。
  • 苦集滅道が無いということは、苦しみから逃れる方法などないと言っているのか。
  • 般若心経の無苦集滅道の解釈について、仏教の基本理念に反するのか知りたい。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.16

仏教の根底は『一切皆苦』です。意識地獄と言う意味があると思います。今現代にもそういう人達が沢山存在しています。一つは『恐怖症です。』ノイローゼです。不安神経症や予期不安やパニック障害等もその類にはいると思います。 対人恐怖症なども当然含まれると思います。広い意味では『心を病む』事も『自律神経失調症や過敏性腸症候群』等も含まれていると感じます。 その理由は『悟り』とその後の人間性の変化に在るからです。さらにもう少し詳しく書くなら、悟りに到る道筋から話が始まると思います。 悟る場合ではその前段階に『意識の停滞=意識地獄』=『原罪や業』に苦しむという通過点が存在していると感じます。宗教の根本には皆同じ目的があります、それは魂の救いです。その観点から述べると分かり易いこともあるかもしれませんので、少しキリスト教の聖書から、『人間が如何して苦しむ事になったのか?を』説明したいと思います。 人間が苦しむ世界を『失楽園』と表現しています。そうして人間に苦しみがない世界を『天国』と表現していると思います。そうして人間界で一番天国に近い存在を『幼子』としています。 聖書においては人間の脳の活動を知っていて書かれたたフシがあります、その理由を説明します。 人間(生きとし生きるもの=生命を持っている全ての存在)には、その固体では及びも付かない何か?(力)が働いていることです。 例えば人間を例にした場合では、自我意識には出来ない筈の、生命の誕生時における、秩序正しい細胞分裂です。細胞分裂をする順序を『知り抜いて働いている』機能です。自我意識にはわからないにしても、産まれた以上『自分の中にはそのような機能がすでに備わっていたはずです。 そうでないなら、自分はこの世に存在していない筈だからです。自分の内部には『命を働かせている、在る者が存在していたと推測出来ます。』 更にその者は、未熟な赤ん坊が何も知らない筈なのに『怖い事や安心する事』を知っていて『自我意識たる自分に知らせています。 高い所に上がった場合の感覚や、狭い所に入った感覚などと言う情報で『自我意識たる自分に』教えてくれています。 更にその者は、激しい運動時等では、呼吸方法や血流なども最適に保つ機能を働いています。是は身体機能を司っている者としての機能です。 更に急ブレーキが必要な場合では『自我意識たる自分を抜きで』勝手に身体も心も支配しています。瞬きをする場合などが良い例です。自我意識が意思の力や、意識して瞬きをする場合では、かなりの時間が必要です。ですが目にゴミが入る場合では、その何倍ものスピードで瞬きが済んでいます。 このように人間の脳内では『自我意識単独で生きている』訳ではないにも拘らず、自我意識単独で『身体の機能』や『行動の自由』や『心の自由』が出来る者と勘違いする場合があります。 こういった勘違いをする事がない事から『天国』に一番近い存在が幼子としています。 人間の脳の機能の違いを簡単にウイキペデアの記事から載せてみます。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 左脳と右脳の機能分化が完成に近くなる場合を失楽園の契機としています。その理由は『幼子には心が、未だ一つのものとして働いているからです。』その印が、自分の裸を見られても恥ずかしいとさえ思わないことです。是は『心が未分化の為に』見ている自分しか脳内に存在していないからです。 人間に知恵が付いたために『神に背くようになった』と言う意味は、脳の機能分化の完成によって『心が二つの機能として別々に働くようになった』と言う意味です。 『心が見ている自分と見られている自分』と言う風に分裂した事によって、自分の裸を他人に見せる事が出来なくなった、と言う意味になります。 もっと具体的に書くなら『今までは自我意識と自分の生命維持装置たる右脳の意識は』共に一つのものとして、『何も疑う事無く協調出来ていましたが』思春期頃の脳の機能分化の完成によって『自分自身でさえ疑いの目を向けるようになった。』と言う言い方も出来るように思います。 その結果『自分は何者か、そうして自分は何処から来て何処に行くのか?』と、幼子とは全く違い思考をするようになります。 自分自身の生命維持機能を仏教では『仏性』キリスト教では『神』と形容しています。 神に背くと言う意味は『自分自身の生命維持機能に疑いを持つ』と言う意味があります。 生命維持機能には基本的に少し分けて説明する事が出来ます。ですが『大元は左脳VS右脳』の機能の違いのための仲違いですので、自我意識に掛かっている圧迫感『昔では原罪や業』と言う『漠然とした、何処から押し寄せているのか分からない、意識の根底からの不安感』はどの道感じられています。そうして区分けする内容も重なる部分が多々ある事を意味します。 只その仲違いや『意識同士の落差』によって『意識地獄の』強弱はあると思います。 命そのものを働かせている機能は『心に考えや感情を湧き上がらせています。』この者と仲違いする場合に『心を病む』と表現しています。 命そのものを働かせている機能は『身体全てに機能しています。』この者を疑う場合では、その疑った部分が、『機能障害を起したのではないのか』と言う疑いです。ですが脳も身体も検査した場合には異常が見つけられない場合が大部分です。機能的には正常と言う意味ですが、『意識地獄』の状態によって、自分の働きが発揮出来ないでいます。 命そのものを働かせている機能は『行動する分野においても機能しています。』この機能を働かせている者を疑う場合では『自分自身の行動に制限が掛かってしまいます。』自分で自分に行動制限を掛ける場合です。是が神経症の基本形です。吃音や書けいから、対人恐怖や社会不安障害等やパニック障害等です。 自分自身の生命の源との戦いを『意識の根底=脳梁の中』で感じていますので『一切皆苦』の状態を『意識がある時にはいつも感じている』と表現出来ます。 こういった障害の完治が悟りの効用です。悟っている最中の話を語っている動画を載せてみます。今までは『脳梁の中で戦っていましたので』心の中は大変にぎやかでしたが、意識の根底で出会う体験ですので、『新しい回路が構成されますので』二度と相争う事が無くなります。 出番争いをする必要が無くなった事から、脳内での争いに終止符が打たれた事を意味します。この心同士が争うことが無くなった状態を『涅槃』と形容しています。 キリスト教的な言い方をするなら、『神に会って和解する』です。その結果脳細胞に新しい回路構成が完成する事によって、『自我』が一方的にでしゃばる事が無くなる状態になります。それが『神の僕となる』です。 魂の救いとは、現実を幼子のように素直に受止めてゆく事を意味します。それは困難を肯定することでもあります。究極的な事は『死に対する受容です。』素直に受け入れる事が出来た時には『笑いながら死に行くことが出来ます。』 魂の救いとは『人生には救いなどなかった事』を受容する事です。受容れるまでの間『意識地獄』になっています。この動画でも同じです。自分の人生を諦めた瞬間から『右脳が自分を支配しています。』 全ての障害が完治する瞬間は『治す必要が無かった事を』受容(認めた)場合です。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

kame_doronuma
質問者

補足

ジル・ボルト・テイラー博士すごいですね!動画見て驚きました こんなことが医学的にありえるなんて 動画の中でもたしかに涅槃(Nirvana)と言っていますね 観自在菩薩が言っていたのは、まさにこのことだったのでしょうか? >自分の人生を諦めた瞬間から『右脳が自分を支配しています。』 たしかにそのようですが、これはどう解釈すべきなのでしょうか? まるで左脳が悪さをしているようにも受け取れるのですが、しかし右脳だけではおそらく生きてはいけないですよね? そうなるとどうなのでしょうか? 涅槃状態をキープしたまま生活することというのは、現実的に可能なのでしょうか?

その他の回答 (22)

  • freulein
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回答No.12

無苦集滅道とは「苦を集め滅する道はない」とお読みになるのが正しいと考えます。 苦を含めて一切が空であると説いているのです。存在もしない苦を集めたり滅することは不可能です。苦しみも存在せず、苦しんだ私も存在せず、苦しみの痕跡も残ることはないのだとお考え下さい。 同様の論理は「無無明、亦無無明尽」にも認められますね。

kame_doronuma
質問者

補足

つまり悟りの境地に達すれば苦しみは無くなるから、苦集滅道も必要なくなるという意味ですよね しかしそうなると疑問に思うのは、ほんとにそんなことあるのかなあ?ということと、 なぜわざわざこんなことを言うのかという意図についてなんですよね

回答No.11

おはようございます。 ☆☆☆☆☆☆ No9さんのご意見、すなわち、 《無苦集滅道》の後に、《無苦集滅道尽》が省略されているのではないか、 について、この前後の部分のサンスクリット原文を調べてみました。 結論から言えば、サンスクリット原文を見るかぎり、 《無苦集滅道尽》というフレーズはありませんね。 なので、テキスト的には、省略はないということになります。 なのですが、これ以前の 「無無明 亦無無明尽。」 の部分に省略があることが判明しました。 サンスクリット原文、 「na vidya na avidya na vidya-ksayo na avidya-ksayo」 「明(知)も無い 明(知)のない(無明)も無い 明(知)が滅することも無い 無明がつきることも無い」 つまり、玄奘訳では「明(知)が無い」と「明(知)が滅することも無い」の部分が省略されています。 省略された理由は、《na vidya》を中国語に翻訳すると《無明(知)》、《na vidya-ksayo》は《無明(知)滅》となり、中国語に翻訳された部分はサンスクリット原文と意味が変わってしまい、誤解される恐れがあるからなのでしょう。 とはいえ、玄奘訳の《般若心経》は正確無比です。 むしろサンスクリットから現代の日本語に翻訳されたものの方が、不正確であったり、訳者の考えが混入していたりするほどですから。 有名なところですと、中村元・紀野一義訳《般若心経》の現代語訳は、チョッと××××という声がありますね~。結構、この訳に噛みつく人がいます。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ しかしわざわざ無苦集滅道と語る意図がいまいちわからない 悟りの境地に達してしまえば、もうつらい修行はしなくていいんですよ、 だからそれまでの辛抱ですよっていう、励ましの意味合いがあるのかな ~~~~~~ 《無苦集滅道》の一文は、確かに悩ましいですよね~。 これをどう解釈するか、非常に悩ましいです。 《苦集滅道》は声聞の教え。《無・苦集滅道》で、大乗の教えは、声聞の教え・小乗の教えより上であることを表明している 僕は、こうした考え方、嫌いですけれども、 このように解釈している専門家や日本の宗教家の人、結構、います。 確かに、他の大乗仏典には、こうした考え方を裏付ける記述や記載は、数多くあるのですけれども。。。。。。 質問者のおっしゃるように、「途中で修行にめげないために」みたいなことを、書いたお経も、僕の記憶によるとあるんですよ(例えば、八千頌(じゅ)般若経)。 「菩薩(大乗の修行者)が途中で大乗の修行を諦めないために、そのためにも、《空》を説くんだ」みたいなことが書いてあったりする。。。。。。 さらに進んで、大乗思想の大成者(?)とされる龍樹のように、 《煩悩即菩提》(煩悩がそのまま悟りなのよ)、 あるいは、 《生死即涅槃》(生死、すなわち、輪廻を繰り返すことが、そのまま涅槃なのよ) と考えることも可能なのかもしれません。 (空だっけね~、輪廻、生死、菩提に涅槃も。《空》や《縁起》、《相依性》という観点からすると、このいずれも差別・区別はないということになるので) 僕が思うに、頭でいくら《無苦集滅道》の意味を考えても、分からないと思いますよ。 《般若》の智慧というのは、概念的思考から一切離れたところで得られる、成立する《智慧》なので。そして、《般若》は、より完全な《お布施》をするために、必要なもの。そのために身につけるもの!! この《お布施》は、お寺さんやお坊さんにお金や何かを寄付することではないです。 自分が身につけた《教え》や《知識》を人に授けたり、困った人に食べ物などの物質的な援助をする、世のため人のために橋などを架けたりすることなどです。 そして、その前提になるのが、《空》の教えで~す。 難しいんですよ、《般若(心)経》!!

kame_doronuma
質問者

補足

>(空だっけね~、輪廻、生死、菩提に涅槃も。《空》や《縁起》、《相依性》という観点からすると、このいずれも差別・区別はないということになるので) ロジックとしてはそういうことになりそうなものですが、なんだか思考停止というか、あきらめの境地な気が... 「無苦集滅道」に目がいっていましたが、「無無明尽」や「亦無老死尽」も理解できてないです

noname#181697
noname#181697
回答No.10

最初は誰だってつきませんよ。カルト宗教が流行るのは、真贋の見分けがそれだけ難しいからです。騙されたくなかったら勉強あるのみ、信じるのは自分だけ!まあ、自灯明・法灯明って奴ですな。

kame_doronuma
質問者

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>自灯明・法灯明 ググってみました 「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよ」 しかし自らが頼りにならないから困るわけで...

noname#189751
noname#189751
回答No.9

読み方についてですが・・・ この言葉が出てくる前に 空の中においては 老死も無く、老死が尽きることも無い と書かれています。 無苦集滅道の後にも、無苦集滅道尽 と書かれているはずですが、省略されているのだと思います。 苦とその解決も無く、苦とその解決が尽きることも無い と、さらに深く読まれてはいかがでしょう。 空の中において、という体験的前提の基にです。 矛盾した表現を用いたのは、空の概念性の否定だと思います。 これ以上は矛盾した表現を用いる必要はない、ということから省略されたのでしょう。 般若智の体験内容の描写の一部と受け止めていいと思います。

kame_doronuma
質問者

補足

>般若智の体験内容の描写の一部 つまり悟りの境地に達すれば、無苦集滅道ということですね

noname#181697
noname#181697
回答No.8

悟りには四向四果という階梯があって、最上位の阿羅漢果に至る人は稀ですけど、初歩の悟りに至る人は、割と多いみたいですよ。ホームページを持っていたり、ブログをやっている人も居るので、探してみると面白いんじゃないかと。 東照寺の出口老師、甘露庵さん、阿部敏郎さん、雲黒斎さんのサイトなどから見ていくと幸せになれるかもですが、偽者もいっぱい居るので気をつけて下さい。

kame_doronuma
質問者

補足

ニセモノとホンモノの区別がつかない...

noname#181697
noname#181697
回答No.7

NO.3です。 苦しみには必ず原因が存在し、必ず滅する方法もある。苦しんでいる最中だったり、あまりに煩悩が深いと、なかなかそうは思えなかったりするけれど、迷いが深ければ、それだけ悟りも大きくなるとも言われています。 気の持ちようで解決する簡単な問題もあれば、存在としての人間や、心の本質まで見極めなければ解決しない難題もありますよ。何にせよ、涅槃は生きている間に到達するものです。ってか、死後に涅槃に至った所で、何の救いにもなりませんし。

kame_doronuma
質問者

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涅槃に至った人というのはいるのでしょうか? 現代でもいますでしょうか?

回答No.6

 こんにちは。  ▼ (般若心経) 照見五薀皆空  ☆ と言うのですから この《空》について解説しているはずです。  またすでに さとりにかんするものとして苦集滅道の四諦という説も出されています。  では 空とは何か?  ここで問題は 言葉で規定したなら その何らかの概念によって内容が定まるというところにあるかと考えます。  《空》と規定したなら その空という意味内容がつきまといます。  シューナターつまり空っぽだとかゼロだとか言うのですから では 色・心(受想行識)は もはやゼロかというツッコミが入ります。    《苦集滅道》と規定したなら この苦なり集なりの概念についてそれぞれいちいち内容が定まります。  さとりの方程式が 無明から明知への逆観としてさだまったなら それでよいのか? と。  いやいや 《空》とは そんなものではない。  ▲ 無苦集滅道  ☆ だと言った。のだと考えられます。  言いかえると さとりの中身は変わらなくて ことばによる表現の問題に帰着するものと思われます。  色即是空と言ったあと 空即是色とも言いかえているのも 同じく表現のもんだいだと見られます。

kame_doronuma
質問者

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すいません 自分には内容が理解できませんでした

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.5

>苦しみから逃れる方法などないと言っているように思えるのですが それでいいんじゃないですか、苦しみなくす方法などありますか。。?  苦を持っている事が悟り 苦楽を超えたのが悟りでしょ

kame_doronuma
質問者

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そのへんお釈迦様、というか観自在菩薩はどういう意図があって、こんなことを言ったのだろうか? と疑問に思った次第なのです

noname#189751
noname#189751
回答No.4

悟りの境地においては 苦しみも無く、苦しみを制する道も無い という解釈でいいように思います。 ただし、解釈とは概念であって、体験という境地そのものではありません。 般若の智慧の体験において、という前提条件のクリアーが必要されると思います。

kame_doronuma
質問者

補足

やはりそういう意味なのですね

noname#181697
noname#181697
回答No.3

これは「法空(ほっくう)」についての教えです。要するに、苦集滅道(四諦)という真理ですら、苦を因にして成り立つものであって、法にもまた実体は無いという事です。とは言え、こういう話だけでは、まず理解できっこ無いので、例を挙げて説明する事にします。 例えば、嫌いな人が側にいると、いやーな気持ちになりますよね?これは仏教で言う四苦八苦の一つ「怨憎会苦」と呼ばれる苦しみですけど、これが自分の思い込みや先入観が原因で生じたものである場合は、誤解が解ければ「怨憎会苦」からは開放されます。 相手は何も変ってないのに、自分の心の在り方一つで、苦しんだり、楽になったりする。それは相手に「苦」という実体が備わっている訳では無いからです。 苦は苦として独立単体で存在している訳ではなく、飽くまでも因縁によって生じる実体無きものと悟れば、苦しみからは救われる。そもそも苦が認識されなければ集滅道もまた成り立たない訳ですから、四諦という仏法真理にも実体は無いという事になります。これを「法空」と言っている訳です。 真の悟りの境地である「涅槃」の立場からしてみれば、人だろうが法だろうが、全ては縁起して成り立つ実体の無いものに映る。まあ、人無我・法無我なんて言ったりもするんですけど、大体こんなもんだと思って頂ければ、それで十分です。

kame_doronuma
質問者

補足

「涅槃」というのは、生きながらにして到達しうるものなのでしょうか? それとも死後の世界の話なのかな? 現実的には、苦しみというのは気の持ちようではどうにもならないように思うんですよね 考え方を変えてみるというのも大事だとは思うんですけど

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