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生きないということ
人生というもの、人間というものを考えれば考える程そこに答えはなく、あるのはただ霞のような己を知るというという落胆でした。 私は本当は己の事など何も知りたくはない、あるのはただ、この苦悩からの解放への欲求です。 しかし、人として生きている限り、それを実行するのは不可能だとも思います。 人間は欲がなければ生きられません、しかし、その欲が私を苦しめます。 そこで質問です。 生きないことと死ぬことを区別したいのです。何か方法はありますか? ご回答お待ちしています。
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質問者が選んだベストアンサー
幸・不幸は脳が作り出すものであって、たとえ鼻クソを飛ばす 事であっても、それを本当に欲しているならば、それは100% の喜びになるのです。 目的を真に信じられれば、欲の克服自体が新たな喜びを生む 事は、登山を例にすれば分かりやすいでしょう。 登山の目的は山頂ですが、それを楽に登る(たとえばヘリで) 事は充足感の増大にはつながりません。 むしろより高い山を、より大きな困難を克服する事で、より大き な充足感が得られるのです(これが生命の本質)。 最初の「己の事を知りたくない」というのと、「苦悩からの解放」 という事の因果関係は、明白ではありません。 己の知り方が中途半端だから、肉体に由来する欲に振り回さ れて苦悩する、というのが過去の覚者の教えではないですか? 無知によって救われる事はありません。 あなたの体の中には、生命40億年の進化によって蓄積された “生きる衝動”が存在するからです。 つねれば痛い、その事でさえあなたの体が生きようとしている 証しなのです。 それを無視して、生きる事が苦痛だと考えるのは、真の「己」を 知らないからです。 既に個人の生は、社会全体の順調な営為に依存しており、 社会生命化しているのに、肉体に付属した感覚器官によって 発生する意識は、低認識において自己中心的=短絡的利己 に陥り、それを他律的にコントロールする“馬車馬の目の前の ニンジン”として、お金や出世などが生まれたのです。 しかしその結果として、本質的に助け合っているはずの社会に おいて、人の意識は競い合い奪い合う、弱肉強食のジャングル と化してしまったのです。 そこにおいては、生命にとって本質的な喜びである生きる事 (社会生命としては助け合い=労働)が、お金をもらうために イヤイヤ行うものになってしまったのです。 認識の深まりによって社会生命的自覚化に至り、その自己 存在の本質に根ざして自律的に生きるならば、その意志は 社会に共有され、またその成果も共有される事によって、 全ての人が平等にして最大限の成果(生きる真の目的で ある精神的充足感において)を得る事ができるのです。
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- kanto-i
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生きない覚悟ができるなら、生きる覚悟の方が楽しいと思います。 苦悩の解放は、心理学でできると思いますよ。 哲学も心理学も、考えるのではなく使うことが苦悩の解放になります。 ただ、心理学の方が使いやすいですが。 難しくは無いけど、甘くは無い。 覚悟が必要だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私にとって生きるとは、自分を偽ることと同義になってしまっています。大変辛い覚悟です。 「哲学や心理学を考えるのではなく使う」ですか。なるほど、参考になりました。
- tsufujifuji
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貴方は何もかも知ってるんだ。何才?俺は、25の時しったんだ。愛ってなんだとか、孤独ってなんだとか、自分は無だとか、考えていたな。 生きないこと、貴方の言うとおり欲望を持たないこと。死ぬことは、もういいやってあきらめて死ぬこと。 お前、そこまで知ってて死ぬなよ。お前を必要とする女なんていくらでもいる。お願いだから救ってあげて。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私を苦しめている最大の欲求は、愛情への渇望です。別に不幸な生い立ちだったとは思っていません。 ただ、世の中に溢れている愛や恋等というものは、上辺の言葉や仕草で誤魔化し合い、お互いを貪り合うという悲しいものが多かったと感じています。 どんな些細なやり取りでも、心ない言葉や行動は愛情に飢えている私の心を深く傷つけました。 今、私をこの世につなぎ止めているのは、同じような苦しみを抱えている人達にそっと共感してあげることで、なにか少し救われたと心が感じているからです。 ただ、これも対処療法に過ぎないと感じています。 話がそれました。とにかく、こんな話題に付き合っていただき、ありがとうございました。
補足
私は27歳です。
- tsufujifuji
- ベストアンサー率15% (213/1332)
ねえ、男?女?まずそっからかな。
お礼
ありがとうございます
補足
男性です。 よろしくお願いします。
- t78abyrf9c
- ベストアンサー率47% (3029/6402)
質問者さんにとっての「欲」が何であって、「生きないこと」が何の意味を指すのかで、返答が違ってくると思うのですが・・・。 少なくとも、私の場合は「無欲」とまではいきませんが、世間一般的な「欲」からは、ある程度距離を置いてますし、世間一般や自分が考える「生きる」からは程遠い生活になってると感じてますので、その意味では、「死んでないけど、生きてもいない」格好になってると思ってます。 図らずも、この様な「生き方」を(結果的に)選択してしまうと、文字通り「世間を敵に回す」格好にもなりますので、それなりの「覚悟」みたいなものが必要になってくると思いますが・・・。 (なので、出来れば死んでしまいたいというのが本音でもあります。) ポイントとして、「世捨て人」的な生き方や、無理に世間に合わせようとしない生き方が、区別する上での一つの考え方になると思いますが。 「欲」と「(闇雲に)世間に合わせる」が直結してると、その分苦しみも強くなる気がします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 おっしゃる通り、「世捨て人」な生き方には自死の欲求が付きまといます。 私はその欲と決別したかったのです。 その意味で「生きないこと」とは「覚悟」なのだということを今、感じています。 大変参考になりました。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 遅れて申し訳ありませんでした。ここ数日色々自分なりに思い悩んで来ましたが、何となく方向性が出ましたので、また戻って参りました。 ご回答読ませていただきました。 確かに私は自分の感覚や感情を過信してしまう所があります。 そして無意識にもそれを認めたくないが故、物の見方や理屈に拘り、それによる葛藤が起こり、結局のところの自己認識不足ということかもしれません、これは、私にとって真の「己」を知る所の大きな壁だと感じました。 このようなところの認識を深めれば、欲望に生きるのではなく、生存するために生きないのでもなく、新たな、ここで言う山のようなものが見つかるのではないかと、やっと、やっと自分を納得させることができました。 本当に回答者の皆様には感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。