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簡単な計算の答えに自信がありません。
簡単な計算、例えば「1+2」や「13-7」の答えに自信がありません。 答え自体は瞬時に出るのですが、本当にそれが答えなのか何度も確認してしまいます。 中学くらいまでは特に疑問も持たず、すいすいと解いていたのですが、高校くらいから「本当にそれが答えなのか?」とか「なんでそれが答えなのか」とか訳が分からない疑問に苛まれるようになりました。 計算は機械的にやるものだと分かってはいるのですが、どうしても答えに不安がつきまといます。 これは一体何なのでしょうか?どうすればこの苦しみから解放されるのでしょうか? 回答、よろしくお願いします。 学力とは関係ないと思ったので心理学のカテゴリーに入れました。
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- noname002
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No.4のかたへの分とあわせて御返事拝見しました。 >色々考えたことで解決の方向性みたいなものが見えたような気がしました。 当初、御質問本文から受けた印象ほどの苦痛はおありでないようですし、まずは良かったです。 >僕の場合は原因がなんとなく計算そのものの中にあるなというような感じ さすがに理系のかたらしいなと思いましたが、どうやら純粋に学問領域のなかでのお悩みなのですね。 No.4様への御返事で >そもそもはじめから計算とは確実なものではなかったのですね。 あなたがおっしゃっている通り「反復運動」だったのですね。 それではそもそも計算(数字も)とは一体何なのか、という疑問もわいてきてしまいました。 とのことですが 「数字」というのは単に文字としてのそれと事柄をあらわすそれとがありますよね。また単純な計算規則にとどまらず数学的思考つまり論理というものが非常に重視されるのではありませんか?どうも私には数学って一つの次元だけでは済まない世界のように見えます。(数学は、とにかく苦手で、本当のところ何も分からないのですけれど) 私自身、学生時代に公式丸暗記の強要が苦痛だったことを思い出します。しかし、公式の成り立ち具合だの根拠など気にしているようではダメで、直感的に受け入れられるくらいでこそという、その方面の識者の御意見を見かけたこともありますし No.6様の >母国語話者は文法を意識せずに語っています。国語訓練の必要上、後から文法が語られるだけ これは一応、文章をつくる仕事に関わってきた身としても頷けるものがあります。 日本における英語教育で、よく指摘されていた文法偏重のために、かえって会話力が上達しないということも思い起こしましたが、確かに助詞・助動詞などの誤った使用による違和感は、文法を意識してのものというよりは音楽における絶対/相対音感に似て、殆ど感覚的に判断しています。その感覚に、迷いが、あまりないのです。逆に、おかしいと感じる文章を読んだ場合も、文法的にどうこうという指摘を意識する前に、感覚的にどうしようもない違和感があります。こうした直感的な違和感が何からもたらされているのか私は、うまく説明できませんが、不思議なことに数学も、音楽と並べ関連付けて語られることが、よくあるようです。私が大好きな、かの広中平祐先生も「数学は芸術です」と言い切っていらっしゃいました。 そしてまた、理数系の人のほうが、なまじな文系の人よりも、よほど文章力のある人が多いと実感しています。これは論理能力が関係するもののようですね。それでも論理ブッ飛ばし的ハチャメチャ文章こそオモシロいのだという価値観もありますし、はたまたリクツ抜き芸術の最たる分野であるはずの音楽にさえ歴とした音楽理論というものがあるのですよね。 数学は単なる数の学問ではないという御意見も見かけましたし、結局のところ数学の本質に関わる領域でのお悩みということなのでしたら、やはり数学カテゴリーにて御質問を出されることをお勧めします。こちらのカテゴリーは、どちらかと言うと文系のかたの御回答が多いように見受けます。あちらのカテゴリーでは、適切にして深い数学的観点からの説明能力をお持ちのかたもいらっしゃることと思います。御検討くださいね。
- qsxdrfvgyh
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伝わって、理解していただけたようなので、安心しました。 本当に、伝えることは難しいと思います。 ところで、 >それではそもそも計算(数字も)とは一体何なのか という追加質問なので、以下のとおり考えてみました。 数学の証明問題を解く場合は、論理展開の仕方を含めてほとんど言い回しが決まっていて、数学は暗記科目だと言った者もいました。また、一般的には、人間世界とは無関係な真理の世界に規則があって、それを利用して計算ができると考えられてきました。計算や数学の訓練体験からは、規則適用、規則万能、規則至上主義のような印象が形成されています。 それに反し、人間がいて、慣習として計算が有用だったので、計算規則を知ることができたのだという考え方は、なかなか受け入れられないものでしょう。しかし、「初めに規則ありき」は錯覚だと気付くような鋭い感覚があると、規則の適用に違和感を抱いたわけです。 計算規則は訓練上、必要だっただけで、単純な計算を実践するだけならば計算結果はすぐでます。訓練なしでも、一桁の単純な計算では計算規則を意識せずに計算できます。おはじきで数えていたはずです。その時は、計算規則を意識していないはずです。 母国語話者は文法を意識せずに語っています。国語訓練の必要上、後から文法が語られるだけです。母国語を使いこなすように簡単な計算をしていたはずです。「話す」も「計算する」も人間の自然な能力です。桁数が増えたときに訓練上、計算規則を見つけ出し、利用したはずなのです。簡単な計算体験の積み重ねの後に、計算規則は作られたことが分かります。 ゆえに、「初めに規則ありき」は、間違いなのです。
- noname002
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>高校くらいから~訳が分からない疑問に苛まれるようになりました >私は理系で、大学受験は乗り切ったのですが とのことですが、大学進学に伴う受験勉強等の疲労が溜まったまま、いまだに抜けていないといったような自覚は、おありでないでしょうか。 御質問を拝見して私が真っ先に思い浮かべたのは「ゲシュタルト崩壊」ということですが (御参考までに http://park6.wakwak.com/~psychol/psychology/gstalt.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6) 他の御回答者がたへのお礼文で >確認してはいるものの、何か自分が不安に思ってるところとは違うような気がする >質問の主旨は「計算の際に検算、逆算をしないと気がすまなくなり、なおかつ、してもその不安感が一向に晴れないのはなぜか?そして、どうすればよいのか?」ということ と仰っておられるのを拝見し、飽くまで私見に過ぎませんが、いわゆる強迫神経症→「強迫性障害」の疑いがあるかのように思いました。 ↓「強迫性障害」に関する参考URL http://www.osaka.med.or.jp/health/family/51/51.html http://www.ocd-net.jp/whats/index.html http://www.koyoclinic.com/kyouhaku.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E8%BF%AB%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3 こうしたことは私自身、多少経験してきておりますし家族や同僚などにも何人か思い当たる人はいます。それほど珍しいことでもないように思います。 かつての勤務先での同僚は、おそらく本人の自覚は希薄だったようですが、いっしょに仕事を担当している後輩社員であった私自身に弊害が及んでくるほどでしたので、正直「なんなんだろうなぁ、この人は…」と困惑することも多々ありましたが、本人自身は自分の、そうした性癖に、とくに疑問や葛藤を感じているふうでもなく、むしろ生真面目で几帳面な性格ならではの特長とすら受け止めているふしさえ感じられましたので、この人の場合、正確には、「強迫性障害」に関する参考URL3つめに挙げたサイトのなかで説明されている (1)森田正馬が「意思薄弱性格」と言った、強迫行為をすることに対して葛藤や内省のない性格をベースとする強迫神経症 (2)精神分裂病などの脳の機能障害をベースとする強迫観念や強迫行為 (3)強迫観念を打ち消すために、他人に対して(主として家族などの親しい人達に)強迫行為を強制するような人格障害の人達 のうちのどれかに該当していたのだろうかな?と思っています。 「強迫性障害」の場合に最も困るのは、その行為がバカげているとは分かっている分かっちゃいるけどヤメラレナイのが我ながら苦しい、程度が酷くなると日常生活にも支障が及んでくるし、周囲の人たちまで巻き込んで迷惑をかけることになりかねない、そうなれば申し訳ないは人望もなくしかねないはで、ますます先行き不安が募る。。。 私自身が軽減のために意識して心がけてきたのは、その不合理と分かっている行動をすることによるデメリットを直視すること、です。 たとえば、これは、いまでも時に起きることなのですが、外出するときに水道やガスを止めたか戸締りを確かにしたか、したはずなのだけれど、なぜか急に自信がなくなってしまって、つい戻って確認し直してしまう。時間がないときは焦ります。確認するために戻ると遅刻が免れない場合には、「ダイジョウブ!!」と自らに強く言い聞かせながら心を鬼にして出かけていくこともあります。一時は、これ以上ひどくなるようだと、水道○ガス○戸締り○…というふうに記入するためのメモを用意しなければならないかと覚悟しました。 その代わりと言ってはヘンかもしれませんが、確かにチャンとやった、ということが分かっていて、それを自分に言い聞かせながら心を鬼にして出かけた日は、帰宅してから、「ほーら、やっぱりダイジョウブだったでしょ!!」と、これまた自分に言って聞かせます。そういう、いわば「実績」を積み上げていきます。「ムダなことをしなくて良かったのだ」という。 但し、確かにやったダイジョウブだと言い切れないアヤフヤさが拭いきれない場合は、やはり戻ります。万が一の場合、取り返しがつきませんから。 また別の面では、ムダだと分かっていても、それをすることに致命的支障が出ない限り、それをすることを敢えて自分に許可することもあります。 そこで御質問者様の場合です。 お悩みは「簡単な計算の答え」の確認だけですね? その確認をやるとやらないとで、どういったメリットとデメリットがあるでしょうか? おそらく、そうではないからこそ悩んでいらっしゃるとは思いますが、確認をやらなかった場合のデメリットは致命的なものですか? どうも、代替行為とでも言いましょうか御自身の内面的な何らかの不安感、不全感が、「計算の答え」を確認することへと、すり替えられているように思われます。 >答え自体は瞬時に出る と仰いますから、脳の疲労自体は、それほどでもなさそうに思います。私などは、もともと哀れな計算能力しか持ち合わせておりませんが鬱病のさなかには自分で呆れるほど、簡単な計算もできませんでしたし、いまでも疲れが溜まってくると同様の状態になります。 理系のかた(学生さんでいらっしゃるのでしょうか)ということですので、下記の過去質問は御興味を持たれるかも、ということで一応、御参考までに挙げさせていただきました。 数学カテゴリー『1+1=2の証明って?』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa217225.html
- qsxdrfvgyh
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>ちょっと書かれている内容が難しくて全部を理解してはいないかもしれません。はっきり理解できれば不安感も無くなるかもしれません。 もしよろしければ参考URLや書籍など紹介して頂けたらと思います。 伝えることの難しさをいつも感じています。参考URLは、探してみましたがいいものが見つかりませんでした。書籍は、ウィトゲンシュタインの「確実性の問題」を解説してあるものがいいと思いましたが、どれがいいのか良く分かりません。講談社現代文庫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』P372中ほどの「規則を通じて学んだのではなく、計算することを学ぶことによって(規則を)学んだのだ」という部分の前後を数ページ読んでいただけたら、参考になると思います。最適かどうかは保証できません。 >もしも理解できても、実際の計算の際に不安感を取り除けなかったらどうすればよろしいでしょうか?私は理系で、大学受験は乗り切ったのですが、今後の人生に若干の不安を覚えます。 苦しみから逃げようとすると苦しむので、苦しみと一体になれば苦しまなくなると思います。つまり、計算規則を今回も今回も何度でも学ぶ作業をするのだと納得してしまうのです。結果的に、規則どおりなっていることを毎回確認して安心することの反復的な蓄積が盤石な地盤となると思います。
お礼
回答遅くなり申し訳ありません。 ここでのやりとりをヒントに数日考えた結果、計算を「イメージ」ではなく「慣例」として行うという風に考えたら納得できました。 そもそもはじめから計算とは確実なものではなかったのですね。 あなたがおっしゃっている通り「反復運動」だったのですね。 それではそもそも計算(数字も)とは一体何なのか、という疑問もわいてきてしまいました。 これについてはまたしばらく考えてみるつもりです。 なので、回答をもし頂けたとしてもすぐには返事ができないかもしれません。 それでも書いて頂けるなら、やはり回答はあると助かるのでお願いします。 本当に回答ありがとうございました。
- qsxdrfvgyh
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普通の発想では、計算規則が先にあって、規則を適用した結果、計算ができると考えますが、ウィトゲンシュタインは、規則を適用した結果が一致していて、恒常的であるから、計算規則が成り立っていると考えました。 誰がやっても、何度も同じになる反復運動によって固まったものが規則として見えてくるという考えです。 ですから、「規則に従って、機械的に計算する」という規則至上主義のような従来の発想の間違いを質問者様は、本能的に感じ取って、違和感を覚えていると推察します。 計算規則は、人類の長い反復行動を通じて、「自然史的に」形成されてきたという言い方をウィトゲンシュタインはしています。あなたの計算は、今までの他の人と同様に、自然史的な確認の一部となっていて、規則を固める事例になっているし、又は組み込まれてもいるとも言える状態です。計算を通じて計算規則を確認しているからこそ、これでいいのかと思ってしまうのでしょう。 計算の本質を見抜いていると思われ、基本的に、感覚が鋭いと思います。直感的に正しいので、悩む必要はないと思います。
お礼
回答ありがとうございました。 なるほどなあ、と思いました。 ちょっと書かれている内容が難しくて全部を理解してはいないかもしれません。 はっきり理解できれば不安感も無くなるかもしれません。 もしよろしければ参考URLや書籍など紹介して頂けたらと思います。 また、もしも理解できても、実際の計算の際に不安感を取り除けなかったらどうすればよろしいでしょうか?私は理系で、大学受験は乗り切ったのですが、今後の人生に若干の不安を覚えます。 ですので、もしよろしければ再度の回答をお願いします。
検算、逆算をすればよいと思います、 1に2を足すと3 検算で3から2を引くと1で 「1+2」は3が正解です。 これが1に2を足して4になると 検算で4から2を引くと2となり 1ではないので間違いとなります。
お礼
回答ありがとうございます。 質問の主旨が伝わりにくかったようで、申し訳ありません。 質問の主旨は、「計算の際に検算、逆算をしないと気がすまなくなり、なおかつ、してもその不安感が一向に晴れないのはなぜか?そして、どうすればよいのか?」ということでした。 回答、本当にありがとうございました。
- precog
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確信を支えているものが薄くなっているからじゃないですかね。 昔は、機械的にではなく、理性で考えて確認しながら計算していたものが、機械的に計算するようになって確信を構成する要素が記憶から消えて行ってるのでは? 算数に限らず、次の段階に進んだときは良くあることですよ。自分が習った道程を再度確認してみれば補強できると思います。 俗に言う「基本に戻れ」ってやつですね。
お礼
回答ありがとうございます。 基本に戻るということは、指で数えるとかそういうレベルまで戻るということですか? 答えを確認する際に無意識にそのレベルまで戻っているかもしれませんが、その方法では2桁、3桁の計算はできません。 また、多分その方法で確認してはいるものの、何か自分が不安に思ってるところとは違うような気がするのです。
お礼
色々な可能性を提示してくださって、ありがとうございました。 回答を拝見して数日考えたり調べたりした結果、多分どれにもあまり当てはまらないなと感じました。 不安感なんかはまあ色々ありますけど、その時々によって容易に変わりますし、 強迫性障害の中の不完全恐怖症かなとも思いましたが、僕の場合は原因がなんとなく計算そのものの中にあるなというような感じがあったので、それでもないなと思いました。 でも当てはまらなかったけど、色々考えたことで解決の方向性みたいなものが見えたような気がしました。 解決はNo.4の方に一応書いたので、そちらを見て頂ければと思います。 回答、ありがとうございました。