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備前地域の日蓮宗

師走のお忙しい時期に恐れ入ります。 岡山の備前地域に日蓮宗信者がなぜ多いのかということが気になっています。 もし、ご存知の方がいらっしゃったら、ご教示いただけましたら幸いに存じます。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.1

備前松田氏が日蓮宗の熱心な信奉者で、日蓮宗を保護し、他宗の寺院も強制的に日蓮宗に変えてしまったからです。備前松田氏は、富山城 (備前国)を拠点とした武家で大名とまではいわないまでも室町時代に勢力を持っていました。

okayamanonoufu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 備前松田氏というのは始めて聞きました。 勉強になりました。

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回答No.3

このような説明をしている方がおられます。  http://www.rrr.gr.jp/machitanbo/senoo_konjyaku.html (備中国都宇郡妹尾村) 昔この地方は、ほとんどが真言宗でしたが、戸川公の勢威と開祖の徳化によって寺も檀家も改宗させて、妹尾の村民全員が日蓮宗信者になったことから「妹尾千軒皆法華」といわれる基礎を築いたのです。真言宗などから日蓮宗へ改宗した者は、その年の年貢を納めなくなくてもよいとされ「未進法華」ともいわれました。(1600年頃のこと) http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/007-06edofmiginitiren.htm しかし、1665年日蓮宗不受不施派は禁制となり、池田光政の命令で1666年に法華宗の寺はなくなり、幕府は諸大名以下に対して、今後支配下の者に不受不施派の者があったら、受不施か他宗へ転宗させるように命令。 庭瀬・妹尾の信徒たちも平法華の身延派になったが、中には表向き他宗信徒に転向したかのよう寺請証文もとっておきながら、内心では不受不施派にとどまる「内信」となった者が多かったらしいです。もちろん発覚するときびしいおとがめを受け転宗の誓約書を取られるのだそうです。しかし、一方、不受不施派信仰の活動がうわさされても、天領であった当時の山田村には、備前・備中の藩役人が信者の偵察捜索に立ち入ることが難しく、倉敷代官所の役人は虚無僧姿などに変装して不受不施派を厳しく監視したそうです。 明治になって、不受不施派も法華宗として公然と信仰ができるようになったので、また宗徒が増えたようです。 キリスト教徒でも隠れキリシタンがいたくらいですから、弾圧や禁制があっても、信仰を継続する人は多かったのでしょう。 特に、日蓮宗、中でも不受不施派は、禁制の処分を受けるくらい信仰を第一とし、世俗の権力や権威を軽く扱う宗派ですから、一度信仰に入ったら、おいそれとは転向しないのでしょう。そのため、後々まで、その地域では日蓮宗がメインで続くのだと思います。 http://bizacademy.nikkei.co.jp/leader/resume4/article.aspx?id=MMACzs000013062012&page=1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E6%B4%BE

okayamanonoufu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 岡山には広く法華経が昔から広がっていたのですね。 勉強になりました。

  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.2

我々現在の日本人には宗教対立というのはピンとこないので、中東とかでイスラム教の宗派対立で殺し合いなんてニュースを見ても理解不能ですが、日本でも中世では宗教対立による殺し合いが行われていたようです。法華(日蓮)宗は特にアグレッシブな宗派で、実力のある僧侶が布教を担当した地域は、地域まるごと改宗なんてことがしばしばあったようです。 備前法華は大覚妙実(大覚大僧正)という僧侶によるとされており、数々の遺物や伝説も残されているようですね。 http://www.okayama-nichiren.com/bizenhokke.htm 蛇足ですが、この大覚妙実、後醍醐天皇のご落胤との伝承もあります。

okayamanonoufu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 歴史の中にはいろいろな背景があるものですね。 勉強になりました。

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