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備前児島藩陣屋
備前国の児島郡に、岡山藩の支藩として児島藩(池田恒元領)というのが短期間存在したと聞きました。 実際の領地の大半は児島郡外であったそうですが、児島藩と名乗るので陣屋は児島郡内にあったのでしょうか? だとすれば、児島藩の陣屋は児島郡のどこにあったのでしょうか? 児島藩の存在自体知らなかったので、すごく気になっています。
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すいません、早とちりで間違ったことを回答してしまいました。 児島藩は池田恒元が慶安2年に立藩したものですね。 25000石ということになっていますが、実際の高は18239石。これは物成を7500石、免を3割として25000石の領地を設定して幕府に申請。実際は7500石の物成が得られるよう別途村を選んだ。その村々は、備前国内に16ケ村、備中国内に13ケ村となっています。 詳しくは「新修倉敷市史 第3巻」を参照してください。村の名前も石高も全部出ています。 陣屋のことはこの資料には見当たりません。わずか2年ほどしか存在しなかったので作る前に廃藩となったのではないでしょうか。 児島藩という名前の由来は「備前児島にて二万石をたまふ」と寛政重修諸家譜にあるのでこれによるらしいのですが、これに該当する村は2つしかありません。 余談ですが、岡山藩はのちに鴨方藩を作ります。知行高は25000石。藩内の新田を全部集めて作ったので本家の知行高は減っていません。児島藩設立の経緯を引き継いだ藩といってよいでしょう。
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- m-jiro
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児島藩は陣屋ではなく城でした。下津井城(しもつい・じょう)と呼ばれています。 とりあえずwikiを貼っておきますが、この名前でnetを検索するとたくさん出てきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%B4%A5%E4%BA%95%E5%9F%8E 築城時期は不明のようですが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃止ということになり、城主出羽守由成は寛永16年(1639)に天城に陣屋を作って移ります。 場所は瀬戸大橋から少し西。古い港町である下津井の背後の山上で、現在は公園になっています。
お礼
ありがとうございます。ただ、下津井城は岡山藩家老領(池田氏)の陣屋で、後に天城に移ったものです。私が質問しているのは児島藩の陣屋のことですので・・・
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 これですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%97%A9
お礼
ありがとうございます。しかし、これは池田恒元が児島藩の後に領有した藩であるので、渡しが質問しているのとは違います。ページ内に児島藩の記述がありますが、陣屋のことまでは説明がないですね。
お礼
なるほど、短期間であったために陣屋を造るいとまがなかったと可能性もあるのですね。 また児島藩の名前の由来も教えて頂き参考になりました。 ありがとうございました!