• 締切済み

人間は、成る様にしかならない。

自らの意思で自らの運命を変える、ということはあり得ると思いますか? 私は何度考えてもあり得ないと思いました。 どのような肉体で生まれきたか、どのような環境で育ってきたか。人生は結局、そのような「きっかけ」の結果に過ぎず、自分ではコントロールできず、従って「自らの意思の結果運命が変わった」というのはあり得ないと思うのです。 ある時一念発起し、自らの生き方を大きく変えることができたとしても、そのような意思を生じた「きっかけ」が必ずあったわけですから、自らの意思の結果というのはあり得ないと思うのです。

みんなの回答

noname#189751
noname#189751
回答No.24

こうして こうすりゃ こうなるものと 知りつつ こうして こうなった という皮肉じみた言葉がありますが 人生なるようにしかならない、という言葉も、半ば諦めに似た場合に使われるのでしょう。 裏を返せば、思うように変えられる可能性もあった、ということだと思います。 紙一重で人生が変わってしまう不思議さですが 悪い方に変わってしまった時に、自分のせいではないよ、といった慰めの意味もあるようです。 私は運命は変えられると思いますよ。 いい方に変えてゆこうとするのが人間じゃないですか。 たとえ結果的に変えられなくても、その努力は無駄ではないと思います。 最初から、成る様にしかならない、というのは情けないというか、寂しいじゃありませんか。ね

noname#191845
質問者

お礼

自分にたいする戒めの気持ちを込めてです。 見たくないものからは目をそむけるのが人間だと思います。 それを変えることのできるのは、偶然のきっかけだと思います。 お返事が遅くなりすみませんでした

noname#191845
質問者

補足

皆様へ たくさんの御回答、ありがとうございます。お礼をしたいのですが、仕事が多忙なためだいぶ遅くなりそうです。必ず返答しますので、どうかご容赦ください。 同じ問題意識を持っておられる方が、予想外に多いことに驚きました。

回答No.23

 No.7です。   ○ 自由意志論  は    ○ 恩恵論  であるにほかなりません。かなしいかな 後者がまさっています。  《恩恵》という言葉がふるいとすれば 《自然史過程〔における結果の推移〕》ということだと見ます。  それでなおもふるい表現にしたがうならば   ○ 風は 気ままに吹く。  であり 恩恵の与え手なる神は ひとをえこひいきするという意味だと思われます。   ○ 神は あわれもうと思う者をあわれみ    いつくしもうと思う者をいつくしむ。  のだと。おそらく いかなる人でも いかなる知力をもってしても この恩恵主義に勝てる気遣いはないはずです。勝ったと思ったときは ぬか喜びだったとただちに分かるはずです。その勝ちは 長く続くことはないのだからです。  このことを別の角度から   ★ ある時一念発起し、自らの生き方を大きく変えることができたとしても、そのような意思を生じた「きっかけ」が必ずあったわけですから、自らの意思の結果というのはあり得ないと思うのです。  と言っておられるのかも分かりません。《きっかけ》とは わが意志行為のほかの大きく世界の自然史過程の要素要因であると考えられます。  問題は ではぎゃくに言って この自然史過程にわづかにでもささやかにでも わが意志行為は かかわっていないのか? と問えば それはそうではないとも答えられるでしょう。かかわっていると答えることになります。    自由意志のはたらく余地はあるのかも知れません。どうでしょう?    つまり 神によってえこひいきされればよいわけです。ちがいますか?    たぶん 神のこころにわがまったきすがたでしたがうというとき――すべては恩恵のもとにあると身も心も納得が行ったとき―― 恩恵と同じ《自由》に立つ。ことが出来るかも分かりません。  じっさい   ○ 恩恵は かえって人の自由意志を建てる。  とも聞きます。  では そのことが どうして実現していないのか?    最後のひとりが みづからも世界もなべて恩恵のもとにあるとおのが心において納得が行くようになるのは ほかの人びとが その最後のひとを自分の心において あぁ やつは だめだ 人間ぢゃないとうたがう気持ちが消え失せたときだという相関関係がある。からではないかと思われます。  かくて 永続革命になりましょうか? どうでしょうか。  (ちょっと 論理だけになったかも知れません)。

noname#191845
質問者

お礼

自然史過程に働きかけた意思もまた、きっかけから生じたもの出はないでしょうか。 恩恵が自由意思をたてる、というのはよくわかりませんね お返事が遅くなりすみませんでした

noname#194996
noname#194996
回答No.22

>ある時一念発起し、自らの生き方を大きく変えることができたとしても、そのような意思を生じた「きっかけ」が必ずあったわけですから、自らの意思の結果というのはあり得ない これをいいかえれば、人間は反射で行動する動物であり、0から内部の意思がむくむくと初動してなにごとかを行うという現象はない、したがって自らの意思で動くことはないということですね。 意思を変えるのも、動いている慣性動作をとちゅうで停止する、あるいは方向を変えるのも内部操作のみでは説明できず、必ず外部からの刺激があってその反射としてそういった加速度的な動きが可能になるということだと仰っているように思えます。 これは確かに一面の真理をついています。ただ、 意思というものをもう少し柔軟に考えれば、あらかじめ内部にこうしたいという意思の雷管、人工的な点火装置を構築しておくことで、外部からの刺激によってそれが爆発する、自分の格別な意思が現実に発火する、選択肢を偏向させることもできるというような考え方もあるのかもしれません。人間の反射行動は記憶や知能などもかかわってかなり複雑な様相を示す場合がありえます。

noname#191845
質問者

お礼

突き詰めると物理として人間を見るしかなくなりますね。 どこで線引きをすればよいかは難しいですね。 お返事が遅くなりすみませんでした

回答No.21

環境=与条件によってその後の展開は決められている、 という考えを「決定論」と言います。 では、その「与条件」は、把握する事ができるのでしょうか? 量子論において、そうした物質的確定性は、階層現象 (超弦(量子)>クォーク>素粒子>原子>分子といった)を 潜在化させて表面的に捉える事で、二次的に派生する事が 分かっています。 決定論的な立場では、物事の未来は本質的には決まって いて、ただ情報不足や分析力の不完全さによって、未来は 不確定になっているとされます。 これによれば、ある現象の起きる「確率」性とは、情報の 不足によって生じる、とされます。 しかし量子力学の不確定性原理において、そうした確定 性こそ二次的なものであり、存在の本質は確率的なもの である事が明らかとなりました。 ある粒子の未来の位置を決定するには、その粒子の現在 の位置と運動量を把握せねばなりませんが、その2つの 値の不確定性が相補的=一方を確定しようとするともう 一方が無限不確定性(=無)に発散してしまう、というのが 不確定性原理です。 その不確かさを、冒頭のような観察手段の不完全さに よるもの、と批判する一派もありましたが、たとえば2本 のスリットを通して向こうのスクリーンに電子を飛ばすと、 1個単位で電子を飛ばしても、痕跡の集まりがスクリーン に次第に描くのは、2本の帯ではなく干渉縞模様である 事により、決定論は息の根を止められました。 即ち、スクリーンに1つずつ消えていく電子が、それ以前に 消えていった電子の場所を覚えていて皆で協力しているか、 1個の電子が、2つのスリットをそれぞれ通った確率同士が 干渉しているか、だから。

noname#191845
質問者

お礼

科学的なものも、突き詰めれば信仰とかわりありません。 科学とは、決して断定しないことだと私は思います。 お返事が遅くなりすみませんでした

  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.20

お礼ありがとうございます。10です。 >私は、人生のすべてがコントロール不可能であると考えています。 わたしも、じつはそう思っています。自分でコントロールしていることなど何もないと。 また、同時に、人生の全ては、実は自分の思った通りになっている、ともおもいます。 一見矛盾しているように見えますが、 「自分」とは、「自分の願い」とは、どのレベルの話であるかによる違いです。 でも、言わなくてもあなたはきっとご存知ですね。

noname#191845
質問者

お礼

すみませんが、よくわかりません。 人は見たくないものに目をそむけ生きます。 それを変えることができるのは偶然だけです。 お返事が遅くなりすみませんでした。

回答No.19

「人間は、成る様にしかならない。」とは、「人間は、成る様になる」という命題を含んでおりますよ。

noname#191845
質問者

お礼

すみませんが、もう少し説明をお願いします。回答の趣旨が理解できません。 よろしくお願いします。

  • paraspor
  • ベストアンサー率26% (4/15)
回答No.18

同感です。 私は私自身の自由意志の力を非常に小さく見ています。 私を操っているものは、私の理性ではなく、煩悩(すなわち無意識)です。 私の心の中に煩悩があるのではなく、煩悩こそが私の本体で、理性はそこについた小さな窓に過ぎません。 アウグスティヌスをはじめ、自由意志の力を小さく評価した哲人は多くいます。 しかし自由意志の力の感じ方はひとりひとり違うようです。 自由意志の強い人と弱い人がいるのかもしれません。 そもそも人は一人一人見た目も知力も物の感じ方も何から何まで違います。 それを「普遍的な人間」を想定して一般論で語ろうというのが間違いの元ではないでしょうか。

noname#191845
質問者

お礼

確かに、人それぞれの感性の差を無視して一般論で語ろうとするのは、正しい姿勢ではありませんね。 自由意思の強弱以前に、私はそもそも存在しないのではと思うのです。あくまで私の考え方に過ぎませんけどね。 御回答誠にありがとうございました。

回答No.17

>自らの意思で自らの運命を変える、ということはあり得ると思いますか?  運命を変えるどころが、運命そのものを作っているのが自分です。  その運命を選んでいるのが自分です。見て聞いて触り経験しそういう運命であるとしているのは自分です。    変わるのは自分です。自動的に運命が変わるということです。  自分を見たらいい。それこそが運命でしょ。  行きつくところ、世界は自分の中にしかないことに是非気づいてほしいものです。

noname#191845
質問者

お礼

自らの意思で運命は変えられるということですね。 世界は自分のなかにある、とはどういう考えなのでしょうか。 御回答誠にありがとうございました。

  • foosun
  • ベストアンサー率12% (13/104)
回答No.15

その通りでしょう。 そして私たちは、運命の中であがく事に喜びを見出すのだ!

noname#191845
質問者

お礼

運命の中であがくことに喜びを見いだす。その真意は分かりませんが、そのように積極的に考えることも出来るのですね。 御回答誠にありがとうございました。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.14

>自らの意思で自らの運命を変える、ということはあり得ると思いますか? あり得ます。 多くの人が、そうしています。 仏教では、『運命』とは呼ばず『宿命』と呼びますが、転換する事は出来ます。 『神などの外的要因によって、運命は定められている』なんていうのは、ただ単にその宗教的概念に捉われているだけのはなしです。

noname#191845
質問者

お礼

私は「信じる」のではなく、どちらかというと科学的・検証的に考えて、タイトルのような考えに至りました。 考えれば考えるほど、自分の意思は自分が引き起こしたものではなく、外的要因によるものだという思いが強くなっていきました。 回答者様は、自分の意思で運命は変えられるというお考えをお持ちですが、 確かに自分の意思で行動をおこし、人生の何かを変えることはできると思います。しかし、その意思はなぜ生じたかという疑問は沸きませんでしたか?結局、何らかの「きっかけ」が無ければ意思は生じることがなく、行動も起きず、人生も変わらないはずです。 その「きっかけ」がいつ自分のもとにやって来るかは、まさに神のみぞ知るということだと思います。それが運命なのではとも思います。 御回答誠にありがとうございました。

関連するQ&A