- 締切済み
人間は、成る様にしかならない。
自らの意思で自らの運命を変える、ということはあり得ると思いますか? 私は何度考えてもあり得ないと思いました。 どのような肉体で生まれきたか、どのような環境で育ってきたか。人生は結局、そのような「きっかけ」の結果に過ぎず、自分ではコントロールできず、従って「自らの意思の結果運命が変わった」というのはあり得ないと思うのです。 ある時一念発起し、自らの生き方を大きく変えることができたとしても、そのような意思を生じた「きっかけ」が必ずあったわけですから、自らの意思の結果というのはあり得ないと思うのです。
- みんなの回答 (23)
- 専門家の回答
みんなの回答
- hf_minami
- ベストアンサー率25% (37/148)
自分が「やろう」と決めたら変わります。 今のあなたもそうでしょ 「きっかけ」を作ったのは誰でしょう、今日会った「あの人」に会う事になったのは・・・ 全て、あなたが「やろうかやめよう」と決めて行動したからじゃあ無いですか? もし、誰かがあなたに「100万円あげよう」と言ってくれても、「もらおう」と思って手を出す行動を起こさない限りもらえないんじゃ無いですか? もらおうと決めて手を出すのもあなただし、やめようと思って断るのもあなたでしょ。 あなたが産まれたのもあなたの意思だし、あなたが今まで生きてきた事や会った人も全てあなたが決めた事や人なんです。 今から、思えば「あの時やっとけば良かった」って思うこと無いですか? でも、「やらなかった」から今の自分なんです。 あなたも、戻れるとしたらいつ頃の自分に戻りたい?って聞かれることって有るでしょ。 私は思うんです、戻りたくないって。 だって、戻って何かが少しでも変われば今の自分になれないんだもん。 今の状態が好きって事ではなく、今まで会った良い人と思える人も悪い人と思える人もそうだし、私に起こった良いことも悪いことも全て含めて今の私なんだから。 わたしもあなたも、生きている限りずっと「自分で決めて行動する」事をずっと続けていかないといけない。 だから、後から後悔しない選択と行動を選ばないとね。 自分で気付いていないだけで、あなたは今まで「自分で決めて行動」してきたんですよ。 だから、今の自分が有るんです。 自分を見つめなおす時間を作って・・・
仰る通りかもしれません。 言葉を変えると、運命の流れにのって実行できた、と言えば良いでしょうか… 日本語は難しく、ニュアンスの受け取り方で様々な考えができますね。
お礼
共感していただけましたか。 運命という言葉は曖昧で、使うべきでなかったかもしれません。 今改めて私の疑問を整理してみますと、質問の趣旨は、「人生のあり方を決める原因を遡ると何に行き着くのか?」になりますでしょうか。少なくとも、私は「人の意思」では有り得ないと思うのです。 やっぱり、質問の仕方が曖昧でまずかったですかね。 御回答誠にありがとうございました。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
人は、自分が思ったように生きていくことになります。 自分は変えることができると心の底から、自分のことを信じたとき変えることができます。 心の底から信じることができるのが「意志」で それは自分で持つか持たないかの選択になります。 変えられる自分を信じると、自らの意志を持って決めた人だけが大きく変えることができます。 あとはあきらめないを同時に持つことです。 そこらへんで売ってる本に書いてあったり、ネットでもよくそのような事が流れています。 多くの人は知ってて、大抵はそれを信じていません。 本当に信じて、信じてから最低でも10年毎日そのために行動していれば結果は出てきます。 信じることと、諦めずに続けることができるのは意志を強く持てる者のみ。 変えられると信じる、それができる自分を信じる。 行動を続ける。ぜったいにあきらめない。 その意志を貫くことが、多くの人には難しいでしょう。 意志を持った人は、行動に躊躇がありません。 できない理由を並べる人の中にいても、できる道を探しだします。 それがけっして楽ではないことだと分かっても、躊躇なく始めやり続けます。 変えられないと信じてる人は、そのように生きるのでそれがその人の生きる道になります。 どちらを信じたからといって、悪い訳ではないと思います。 誰しも好きな(選んだ)人生を歩くことができますから。 変えた人が分かるのは、きっかけなんて毎日ごまんとある。 それをその人がきっかけとして拾うか拾わないか。 拾わない人は、見逃すか見ても流してしまうだけです。 人は自分が思ったようにしか生きない。 それを「人生脚本」といいます。 大局から見ると一番不思議なことではありますが、多くの人は自分を信じるのが一番難しいようです。
お礼
人生脚本ですか、初めて聞きました。 人の生き方の大部分は幼少期に既に決まっている、というような内容でしたが、結構衝撃的ですね。さらに詳しく調べてみたいと思います。ありがとうございました。 その他の点についてですが、 「変えられる」という強い意志を持ち、諦めない気持ちを持てるかどうかも、これまた「きっかけ」の結果なのではないかと私は思うのです。なので、自らの意思の結果(自らの選択の結果)、というのは有り得ないと思うのです。くどいようですが、そのように思います。 御回答誠にありがとうございました。
- kanakyu-
- ベストアンサー率30% (1916/6194)
「人事を尽くして、天命を待つ」という言葉が好きです。 自分でコントロールできる範囲と、できない範囲があります。 できる範囲のことをしたら、後悔はないのではないでしょうか。 自分の人生をコントロールしたいという欲は、わりとできる人の方が多いと思います。
お礼
私は、人生のすべてがコントロール不可能であると考えています。 「人事を尽くそう」という意思も、ある「きっかけ」から生じたものであるはずです。 例えば何らかきっかけにより、ある哲学や思想、価値観などを持つことになり、そのような意思行動に至った、とは考えられないでしょうか。 私のこの極端な考えも、道徳・倫理への懐疑というきっかけから生じたものだと考えています。何事も、何らかのきっかけの結果なのだと思うのです。 御回答誠にありがとうございました。
- busaikusugiru
- ベストアンサー率23% (61/262)
自分一人の意思行動だけで結果を出せる事においてだけ 変化を求める事が可能です。 それ以外はありえません。
お礼
自分一人の意思行動で結果を出せる事においても、 そのような行動をする意思を生じた「きっかけ」があったわけですから、やはり意思の結果の行動ではないと思うのです。「きっかけ」の結果だと思います。 例えば、「背中がかゆくなったので掻いた」という状況を想定します。背中を掻くという意思行動に至った理由は、背中にかゆみ(きっかけ)が生じ、掻こうという意思が生じたからです。やはり「きっかけ」から始まっています。いつかゆみが生じるかはコントロールできません。 御回答誠にありがとうございました。
- jamamono2
- ベストアンサー率25% (117/463)
質問者様が仰る通り一念発起だけで何かが変わる事は極めて難しいです。 過去、現在、未来が有り原因と結果が有ります。 誰もこの原則から逃れる事は出来ません。 問題は自分の運命が具体的に何を意味するか?…運命を自分の価値観や考え方、心の持ち方を変える事で僅かな変化を与えられるか?…その僅かな変化を維持持続出来るか?… もう1つ!…人間は1人では運命は変えらる可能性は極めて難しいですが他人の有力な激励や助力や色々な力によって運命に流された心を変化させられる可能性は1人よりは可能性が高い筈です。 変化をさせるのは運命その物より、それに流された心、価値観や考え方を変化させる事です。 例えば全く目が見えない人が居ます。 目が見えないのは運命で基本的には何とも出来ませんが盲人が1人では出来ない!と諦めなければ普通1人では駄目な事も他人の目を借りて、見える人と同じ事を出来る様に近付けて行く事は可能ですね。価値観が…諦めた!では論外で有り、心の持ち方、考え方を変えれば変わる可能性は有ると私は思いますよ。 運命だけを見るので無く、そうした事も見て全体的に判断しないと駄目だと私は思いますよ。
お礼
運命だけでなく、心の持ち方等、現実的なことにも目を向けなければならない、というのは大切ですね。 ただし、自らの意思で人生を変えた、というのはやはり有り得ないと思うのです。恐れ多くて人前ではあまり主張しませんが、私はそうとしか思えないのです。 世間では、認識しづらい「きっかけ」よりも「本人の意思」が重視されますが、わたしは前者のほうが遥かに重要だと思っています。「きっかけ」が無ければ「意思」も生じないわけですから。 御回答誠にありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 でも ただ 成るようになる。 というのは あきらめの気持ちとかすかなのぞみを残すということのほかには 意味がないですよね? もっとも 成せば成る と言っても 所詮すべてはその人の主観におさまることのようですが。 つまりは あまり決めつけないほうがよいのでは?
お礼
仰る通り、あきらめ等の意味も含んでいるでしょう。 また、「責任」や「罪」という概念について考えさせてくれるという点でも意味があると考えています。 本人の意思の結果というものがあり得ないのであれば、「責任」も「罪」も存在しないのではないか、ということです。 御回答誠にありがとうございました。
>自らの意思で自らの運命を変える、ということはあり得ると思いますか? 私も無いと思いますね。 私に言わせれば、人生は行き先の分からない列車に乗ってみる車窓の風景のようなもんです。 自分でできるのはせいぜい別の列車に乗り換えることくらい。 その列車だってどこ行くのか分からないんですから、全て出たとこ勝負ですよ。 それに、私一人では何にもできませんしね。 今ある自分は、全て回りの人の支えがあってこそです。 また、運命の神様に導かれたとしか思えないこともたくさんあります。 あなたにとって「自らの意思で自らの運命を変える、ということはあり得ると思いますか?」という質問にどういう意味があるのか分かりませんが、そんなことを考えるのは時間の無駄です。 あなたは運命に導かれているだけなのですから、あなたの好きなように生きるのが、人生を有意義に過ごすコツだと思います。
お礼
テレビニュースなどで、凶悪犯罪の容疑者として取り上げられるのを目にする度、 「ああ、この人は、成るべくしてこのような人生になってしまったのだな」と思うのです。 大抵の人は指差して非難するだけでしょう。しかし、誰もが彼と同じ境遇に生まれ育てば彼と同じく犯罪者としての人生を歩む可能性だってあると思うのです。そのように考えれば、冷静さを欠いた場合を除けば、とても他人を非難することは出来ないと思います。 そのような矛盾感を払拭することが出来ないのです。
例えるなら、人生とは川の流れに翻弄される、一枚の葉っぱみたいなもの。普通に生きてたら、運命に流されるがままで終わってしまう。 葉っぱが川の流れを変える事は出来無い様に、運命そのものを変える事は出来無いけれど、常軌を逸した努力の果てに、流れから逸脱したイレギュラーな存在になる事はある。 物事は必ずしも、決まった通りになるとは限らない。だが、抗う事なくして、何かが変わるという事もない。チャンスを自力で造る事は出来なくても、チャンスをものにする為に努力する事は出来る。可能性とは、そういうもの。
お礼
すみません、補足です。私の質問の書き方が間違っておりました。質問文冒頭で「運命」と書きましたが、正しくは「人生」です。「人生(の境遇)を自らの意思で変えられるか?」というのが質問の趣旨です。なので、運命と言う単語については拘りはありませんのでご了承ください。申し訳ありませんでした。 以上を踏まえての以下回答になります。 運命の支配が及ばない範囲の中で、自らの境遇を変えることはできるということでしょうか。しかし、そのような強い意思を生じたのは、何らかの「きっかけ」があったからではないでしょうか。それは自らの意思で作り出せるものではないと思うのです。 なので、自らの意思の結果というのは有り得ないと思うわけです。 御回答誠にありがとうございました。
運命などないと思います! 自分が努力し、頭を使い、周りに感謝してこそ人間的に成長し成功をおさめれます。 生まれつきの才能の差などがありますがそれは前世の罪からのジレンマでしょう。 それでも諦めず、希望を持ち続けて、全てのものに優しく愛を持って接し、どんなに辛くても笑顔でいれば道は開けると思います。
お礼
運命というものが無ければ、確かに罪というものも存在すると思います。 あらゆる行動が、本人の意思の結果であり責任であると考えれば。 私は罪は存在しないと思います。運命は存在すると思いますから。 もちろん、回答者様のお考えも尊重いたします。私は何でも突き詰めて悲観的に考えてしまいやすいので、そこがダメなんですよね。 御回答誠にありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。 なぜ今の自分があるのかと考えてみると、やはり「自分の意思」ではなく、「きっかけ」だと思うのです。 私もこれまで様々な決断を下しながら生きてきたとは思いますが、その決断を下した理由は何だと問われると、やはり「きっかけ」だと思うのです。 良い決断に踏み切れたのは、良いきっかけに恵まれたため。悪い決断を下してしまったのは悪いきっかけに遭遇してしまったため。ただ単にそれだけなのだと思うのです。 お考え尊重いたします。ご回答をいただき、改めて自分を見つめ直してみたいと思いました。御回答誠にありがとうございました。