- ベストアンサー
うつくしさに打たれたきみはだれになるのか
- 中国では無人の豆乳屋台が話題を呼んでいる。
- 良心というのはほとんど公理として理屈や哲学的議論を抜きにして想定されているもの。
- 美についての問いや真理についての問いを考える。
- みんなの回答 (15)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
ブラジュロンヌ様、お久しぶりです。 相変わらずの精力的なご活動に怠惰な小生は近寄ることもはばかられてまぶしいばかりです。が、今回は表題の美しさに思わずボタンを押してしまいました(恥;)。ただブラジュロンヌ様と会話したいというだけのせつな的な衝動ですが、何のアイデアがあるわけでもありません。これからひとつづつかんがえつつ行を埋めていこうと思いますが、どこまでいけますか…。 >【α】 この良心をめぐる善のお話というのは (α‐1) 半ば生まれつきそなわった自然本性のなせるわざである。 これはその通りだろうと思います。生まれつきというのは、つまり進化論的システムによって人間が社会的存在になってから着々と遺伝子に積み重ねられてきた適者生存という記号の作用イコール自然本性(の一部)ということでしょう。もちろん人間はなおその面では発展途上にありますから、ここ数世紀は人間の個体によっては悪行として、いや獣的本能として発揮される場合もまだまだあるでしょうが。 >【β】 うつくしさに心が打たれるのは きみの自然本性においてか あるいはそれ以上の存在機能のようなものとしての自由意志によってか? >(β‐1) われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか? こういった問いを発されるときのブラジュロンヌ様の美しさはまた無類のものがあります。「わたし 」というものを信頼しきっておられるように思います。自由意志ということにおいても。 美というものに悪のわなを感じた小林秀雄の感覚を病的だというつもりはありませんが、私自身の経験からいって、美に圧倒されるとき、私という存在はどこにもなくて、ただひたすらに目があって、耳があって、しびれ、打ち震えつつひたすらそれらを記憶だけでもしようとしている貧しいこころがあるだけではないか、と後になって感じるわけですが、というと答えとしては(β-4)になるわけですが。確かに、一面においてはその圧倒している美というものに近づきたいとひたすら望み、それと同化したい(どうにかしたい)と願っている自己というものがあるようにも思えます。 >(β-6) それとも・むしろ その美を感じたとき(瞬間)にこそ われはわれにかえっていたのか? これもまた魅力的な考えです。世俗の思いに始終毒され、よごされ続けている自己が、美を感じているあいだだけ無辜の自分に立ち返っているというのは、それだけ美という神に相対的にちかづいている望ましい自分だという思いは貴重なのかもしれません。 >【γ】 では 真理とは何ぞや? (γ-1) もし仮りにわれは真理を――つまりは われわれの言語習慣にしたがって言えば 神を――見たと言うとき 仮りにそうだとしたとき きみは 《わたし》があるか? 上記とくしくも内容が一致した思いですが、美と真理は必ずしも一致するものではないと私は思います。美には救いがありますが、真理はそれらよりもずっと厳しいものであろうと私は思います。 悲しいことに私の存在は私そのものであり私以外にはありえない有限のものです。真理とも美とも無関係なものであり、残念ながらあこがれ以外にそれらと関係性を持つことはできないでしょう。 > (γ‐7)は難解すぎて考える資格はないと考えます。 お粗末さまでした。
その他の回答 (14)
訂正します。 きみに付ける名前は まだ無い ↓ きみに付ける新しい名前は まだ無い
お礼
了解しました。
さてどうなんでしょう そろそろというか・・・ 変貌という素晴らしさと虚しさ そこには どんなに美しいものよりも 美しいのが青春 人それぞれの青春・・・ という見方もあるでしょうし 青臭い という墓標を建てなければならない見方もあります。 変貌という自らの体験において 自らが望む変貌を手にした者は いったいどれほどいたのでしょうか 気が付けば 人に名を呼ばれる自分がいるだけです。 あこがれを抱いた きみも 涙を流した きみも もういない 今のその自分を誰と名付けるのか? 名前という短い言葉を聞く中に その誰かはいます 名を呼ばれて気付く 今の自分がそうなのでしょう。 一瞬の内に現れた 見知らぬ自分 新しい時の訪れの使者との対面 きみ という名前だけが変わらない自分 きみは平然と装い 振る舞うけれど 私は知っている 他人でもない きみを知っている 変貌を遂げた きみを知っている あの時 きみの背中を叩いて送り出したのだから きみに付ける名前は まだ無い せめて きみ という名前で呼ぶことにしよう。 また、機会があったらお会いしましょう。 ありがとうございました。
お礼
72近傍さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 今回もわたしにはヒラメキがめぐまれず 残念です。 ★ 変貌という素晴らしさと虚しさ ★ 変貌を遂げた きみを知っている ☆ ここらあたりを掘り下げ得ればと思いますが いまひとつ鈍くしか反応がないみたいです。 あっ わかった。 ★ ~~~~~ 変貌という自らの体験において 自らが望む変貌を手にした者は いったいどれほどいたのでしょうか 気が付けば 人に名を呼ばれる自分がいるだけです。 ~~~~~~~ ☆ だからこそ 《あこがれ》と言うんだ。 同じ名の《わたし》がいつづけても いいわけだ。 大して変わり映えのしないわたしでありつづけても いいわけだ。 《あこがれ》なる心映えあるいは たましいの芽生え あるいは そのささやかなあゆみ がありつづけるなら。 なるほど。と いやに・そして妙に 納得。 つまり 《変貌》はどうしてもそれを遂げていなければいけないというものでもない。 つねに その推進力のもとにあゆんでいること・あゆみつづけること。これが 大事であるのかも?
またしつこい じじいの登場です、お許しを とりあえずは味気ない話しでも並べてみましょうか 必要な感じもしますので・・・ >われに還る 感性が対象そのものになっている状態から、客観視の状態に戻ることでしょうか。 感性が二者同一の世界から、意識による分別の世界へと戻ってゆくようにも思えます。 感性がその扱いを意識に委ねた状態になってゆくのでしょう。 >打たれる 感覚を対象に向けさせるものは意識ですが 意識の統御を超えて、対象を介在とした感覚の集中や、感性の急激な拡大が起きてしまう、といった状態のように思います。 この場合、感性の急激な拡大といっても、それは増幅ではなく、対象に向けられている感覚に感性の働きが集中し注ぎ込まれた状態だと見た方がよさそうです。 意識の働きによらず、感性の有りように変化が生じてしまうという事は、或いは、意識下の働きや影響があるのかもしれません。 推し量ってみれば 対象による潜在意識への刺激によって、表層意識にかかわらず感性の急激な変化がもたらされる・・・という事になるのかもしれません。 また、上記のごとくだとするならば 感性全体の働きとは、通常の意識外の領域においても存在する・・・ということになるのでしょう。 当たり前のような気もしますが 打たれる・・・とはその証明なのかもしれませんね。 ・・・・・・・・・・ やはり延々と味気ない話しです。 心の仕組みを解き明かしても、なぜかつまらない感じです。 それもそのはずで、 ここには「感情」が登場していない 機械的、無機的で喜怒哀楽がまだない 役者がまだ舞台に登場していないみたいな感じです。 役者をすこし引っ張り出してみましょう あこがれ よろこび 笑い むなしさ かなしみ 涙 (いかり ねたみ さげすみ) これらの感情や、それに伴う自然な働き・変化を一言で言い表せば「人間性」というものなのでしょう。 この人間性への目覚めを、人が人になる、といった言い方もできると思います。 人としての自然な目覚めでしょうか よけいな概観ですが こういった人格的な変化は、十代後半から四十代頃にかけてでしょうか 個人差はあると思いますが 愛と 取の 燃え盛るような・・・というか ぜんぜん燃えないような言い方ではありますが・・・ まあ、何ですが 打たれた瞬間には変わらない 打たれた後にやってくるものが人を変えるような気がします 湧き上がってくるものというか、生命力の躍動・能動性というか それもひっくるめて人間性ですが 人が人に目覚めるような気がします。 あこがれも 涙もなくなって 俺は枯木か・・・ 年はとりたくないな お粗末・・・。
お礼
ほとんど72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ あこがれも 涙もなくなって 俺は枯木か・・・ 年はとりたくないな ~~~~~~ ☆ たしかにさすがに あこがれは 部分的になりますね。 あら探しをしてしまうし 何もあらではなくても 自分の感性の充実や満足とは違っているように見えて来る部分が多い。 涙は うれしいときに出ますね。 バイオリンのいい音色に感動したことがあります。 そうして 自分の文章を読んでも 言葉による表現と 美の感動とは どうも違うようにも思えて来て困りますね。 あなたは 一生懸命に表現しようとなさっていますが 失礼ながら自分の文章をかさねつつ読んでしまいました。 ★ ~~~~ まあ、何ですが 打たれた瞬間には変わらない 打たれた後にやってくるものが人を変えるような気がします 湧き上がってくるものというか、生命力の躍動・能動性というか それもひっくるめて人間性ですが 人が人に目覚めるような気がします。 ~~~~~~~ ☆ 分かるのですが じゅうぶん分かるのですが どうも絵なら絵 音楽なら音楽に接したときとは 違う。言葉は違う。ように感じます。 あるいは そのほうが・またはそのようで よいのかも分かりません。理屈で心の深いところの思いに突き当たるということもなきにしもあらずでしょうから。 ★ やはり延々と味気ない話しです。 ☆ という見方を聞いて なるほどと 妙に納得して反省しきり。(そういう表現は 卑下なのでしょうが 読者にその言葉そのものの意味内容を あなたの文章の可否を超えて 感じ取らせてしまいます)。 そうすると 言葉としては むしろ虚構のほうが 真実を伝えることが出来るのかも分かりません。味気が出ますでしょう。 そうして それには どういうわけか 恋愛の物語がその あこがれと かなしみと よろこびの旅路をたどらせてくれると言うべきでしょうか。 あなたには失礼かも知れませんが 受け取ってこう考えて来ると わが身の周りには停滞前線が張っているような。 どうなんでしょうか? ことばどおりに影響を受けやすいのかなぁ。
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
こんばんは、ブラジュロンヌさん。美しい日本語の問いに戸惑っていたのですが。 >うつくしさに打たれたきみは だれになるのか< この世界の時空間の一部では? >【α】 この良心をめぐる善のお話というのは (α‐1)(α‐2)とまとめ捉えてよいか?< 人間の感情における自己愛を 理性で行えたと観ていいと思います。 >β‐2) 《ある》なら そのワタシは おのれの一応自由になるところの自由意志であるか それとも 意志や意識以前の自然本性そのものであるか?< 自然本性における自己愛を最大限にする行為として 理性により自由意志が働いたと思います。 >(β-6) それとも・むしろ その美を感じたとき(瞬間)にこそ われはわれにかえっていたのか?< 五感における 感情の高鳴りが自然本性の美と結びついたのでしょう。 >γ-1) もし仮りにわれは真理を――つまりは われわれの言語習慣にしたがって言えば 神を――見たと言うとき 仮りにそうだとしたとき きみは 《わたし》があるか?< 人間の持つ感情による喜怒哀楽が 自然本性の美として一致した時 人は神の姿を観るのかもしれません?生命の根源=神が観えると思います。 >γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか?< 何時でも何処でも 人は生命の根源である神の輝き=光を媒体として他の生命や物への投射という姿で観ているのではないのでしょうか? >γ‐7) つまりは 《一切衆生 悉有仏性》なる命題は成るか? 《われわれの身と心はそれぞれ 神の霊のやどる神の宮である》なる命題は 成るか? < 感情における最大限の高揚状態での喜怒哀楽と自然本性が奏でる美との共鳴が生じた時 その命題を為すのかもしれません?
お礼
てふ_てふさん 久しぶりですね。こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 感情の高鳴り / 感情における最大限の高揚状態 ☆ というように《感情》の側面において 無限ないし神との接点が捉えられようとしていますね。 この点が ちょっと気がかりになったのですが。 つまり おそらく理性による計りごととして人為的な行為によって神を見るのではなくという意味で わかるように思うのですが かと言って 感性だと言ってしまってよいか? という疑問も じつは 持っています。 たぶん イメージなどのように感性にうったえて来る何か――神の予感としての何か――は そのイメージの時点では 感覚において受け留められるとしても そのさらに前の段階 それは おそらくヒラメキであって ヒラメキ自体においては まだ何も・つまり理性も感性もかかわっていないのではないか? とも推し測っているからです。 もっと みなさんからの見方考え方を受け取って さらに捉えて行きたいと思います。 ★ 何時でも何処でも 人は生命の根源である神の輝き=光を媒体として他の生命や物への投射という姿で観ているのではないのでしょうか? ☆ ちからづよいですね。 ここまででは いわゆるアコガレ これなどを持ち得たばあい そこに・その根底には たとえ恋愛のような事態であっても なにがしか神体験につうじるものがあるのではないかと見て来ております。 ★ 何時でも 何処でも ☆ は ちからづよいですね。 ★ ~~~~ >うつくしさに打たれたきみは だれになるのか< この世界の時空間の一部では? ~~~~~~ ☆ これは たぶん ちょっと ずるいでしょうね。なぜなら おそらくこの状態こそは いつでも・どこでも――気づくならば―― そうであると考えられるからです。 うつくしさに打たれたわたしは さきほどのアコガレの場合のように 人為的なコトをぜんぶ取っ払って生まれつきの状態において 神を受け留めているかも知れない。そのときのわたしは 普段のわたしであるのかどうか? あるいは ひょっとして 普段のわたしの中で ひときわ高いところで 神の光を受け留めている。のかも知れませんね。 つまり 《いつものわたし》ですっかりなくなるというわけでもない。しかも内において ひかりかがやくものがある。というような状態。でしょうかねぇ。 ありがとうございました。
こんばんはブラジュロンヌ様、ちょっと時間が空いてしまいました。 補足をいただいたものです。 先日の拙語を気に入っていただいたようでまことに光栄です。 「あこがれ理論」ですか…。 実は私も気に入っているものですが、ぶら様のように厳密な理論づけはなさけないことに学のない悲しさ、ただ感性だけで無責任な印象評論を唱えている根無し草ですから、それまでよ~、ですね。 100歳のもくぞ様によれば、無限ということには既にどこかで解がでているそうです。それがどこだったか、何か覚えにくい毛唐のなまえでしたので、これには立ち入らないことにします。 あこがれ 私が気にいっている例の幸せについての毛唐の詩。やまのあなた。これは炭鉱に働きに出ている夫を慕って書いたものではありません。幸せにあこがれて”ものにしよう”と色気を出して右往左往する市井の悲しい人々の姿を愛情込めてうたったものですが、この幸せと真理、そして美 とは一種の直列的近似性があるのではないかと私などは常づね思っています。つまり、世界一般に特異点はない、幸せは憧れの中あるいは途中にあるのであって、探しても見つかるはずはない。では憧れとは何か?幸せの実体なのか、あるいは虚像か? 大野晋さんも知ろうはずはないとおもいますが。 私のあなた だからでしょう。私とはちがいますが辛うじてなんらかの関係性を持つものではあり、その関係性そのものがいたって心細い、どんなつながりがあるのか、それともつながっていると私自身が独りよがりしているだけなのか? すくなくとも赤い一本の毛糸のような縷々たるもの、くもの糸のような弱弱しいものでしょう。稲垣タル穂が言った「滑って消え去る青い煙のようなもの」私たちはそういったもので極めて遠くにとらまえた(と感じたように思えた)わずかな真理の痕跡、あるいは美のほのかな印象を少しはあとからたどれるような確たる記憶の表象としてこつこつと自分のことばで再構築していくしかないのでしょうね。 申し訳ありません。極めて漠とした回答とはとてもいえない冥答になってしまいました。
お礼
こまあすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ やまのあなた。これは炭鉱に働きに出ている夫を慕って書いたものではありません。 ☆ サイワイさんという樵の人の名前でもない? でもこれも あこがれ理論なりと。 ★ 極めて遠くにとらまえた(と感じたように思えた)わずかな真理の痕跡、あるいは美のほのかな印象 それでは 今回も ことばから攻めてみます。 いきなりですが: ▼ (アルビーのインドネシア語教室:cinta『愛』sayang『愛』) ~~~~ http://www.geocities.jp/lakilaki_indonesia/kuliah/pemula/016.html 1. Aku suka kamu. 僕は君の事が好き。 2. Aku cinta kamu. 愛しているよ。 3. Aku sayang kamu. 君は、運命の人だ。(から、どんなことがあろうとも、君のコトは、絶対見捨てない) * ほかにも言い方はあるようです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1315645153 4. Aku cinta padamu. 5. Saya cinta kamu. 6. Saya cinta anda ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だそうです。アクとサヤがワタシ カム・パダム・アンダがキミ・アナタのようです。 スカが 好きだというのは愛嬌でしょうか。 チンタは 話し言葉(パーリ語)でチッタ( citta )と訛るサンスクリットの cinta =心 から来ているそうです。(もっとも われわれも 漢人の言葉も毛唐の言葉をも借用しているようですが)。 問題は あこがれ理論にとって (3)のサヤンのほうでしょうね。《運命の人だ》というときの つまりは ★ すくなくとも赤い一本の毛糸のような縷々たるもの ☆ で結ばれていると言うときの表現であるようですから。 ★ くもの糸のような弱弱しいもの・・・稲垣タル穂が言った「滑って消え去る青い煙のようなもの」 ☆ だとしても そちらのほうへ わがたましいがふらふらとさまよい出てゆく。ことがあるとしたらです。 ここまで見ておいて ふたたび ★ 幸せにあこがれて”ものにしよう”と色気を出して右往左往する市井の悲しい人々の姿を愛情込めてうたったものですが ☆ に戻りましょうか。 まづ ここでの: ○ かなし(悲しい・哀しい・愛しい):自分の力ではとても及ばないと感じるせつなさを言う。 なる言葉に注目します。そして――例によって 大野晋に拠りますが―― これは ○ かね ~~~ 《他の動詞の連用形に付き それをしとげようとしても不可能・困難の意を表わす》 1. ・・・しようとしても力が及ばない。・・・しおおせない。 ・ 流るる涙とどみ~~つも(万葉集4160) 2. ・・・していることにたえられない。 ・ 思ひ~~ 妹がり行けば(拾遺物語224) ~~~~~~~~ ☆ という動詞から派生した形容詞だと言います。 重ねて言えば 《かねる》は 《赦しかねる》と言うと 《赦そうと思ってもどうにもしがたい》という意味になるごとく 《不可能・困難》の意を表わします。ここから 《悲し》は来たそうです。(二つの役を兼ねるの《兼ねる》とは 別のことばのようです)。 すなわち: ○ 行く∽ゆかし(そちらへ心が行きたい気持ちだ) ○ 痛む∽痛まし(心が痛む状態だ) ○ 頼む∽頼もし(頼みたい気持ちだ) ○ かねる∽かなし(おのれの力ではどうしようもないという思いだ。/ ただし 《愛し》とも書くように どうしようもないほど切ない つまり いとしい・かわいくてならぬの意をも兼ねていたようです)。 つまり 《かなし(愛し)》は――その夢がかなうなら よいのですが まづはその初めの起こりの時点では―― 《山のあなた》のごとく・高嶺の花のごとくあって しかもわがさだめのごとくにも思うという《サヤン sayang 》に通じるものがあるかも知れません。 韓国語では サランと言うそうですが。 どうも炭鉱夫のお話が頭に残って最後までちゃらんぽらんな囃子言葉が入って来たかと思いますが まづは これが あこがれ理論におけるかみさま・ほとけさまのお話になるかと思います。
《あこがれ》・・・ですか そうですね 《あこがれ》にもいろいろとあるでしょう。 青春のあこがれ 真理や美へのあこがれ 異性へのあこがれ 仕事へのあこがれ 遊びへのあこがれ・・・と あこがれとは、終わってはじめて知るようなものではないでしょうか やはり、青春という言葉が一番ふさわしいような感じがします。 夢多き青春の代名詞でしょうか ちょっとだけそんな世界を覗いてみましょうか・・・ ほろ苦い懐かしい世界ですが ニ度とこない青春へのあこがれを込めて・・・と恰好だけはすこし あこがれ あこがれという夢を手離した君に あこがれは戻ってはこない 走ることを忘れた君に あこがれは戻ってはこない 言葉を頼りに あこがれを取り戻そうとしても その声は届かない 遠くからやってくる雲に もう一度と呼びかけても 何も言わず通りすぎてゆく あこがれは嘘だったのか 冷たい風の中で 君はあこがれを振り返る 手と足はまだあるのに それを動かすものを失った君は いつか気付く あこがれは去ったのだと 君が知る夢は葬り去られたのだと 君ができるのは あこがれを失った悲しみを解き放つことだけ そうだ 悲しみを閉じ込めてはいけないのだと 泣けばいい 今いる時間から 次の時間まで 泣けばいい 誰も知らない悲しみが消えるまで 泣けばいい 君は空白のない人生はない と知る いつも あこがれがあった事を夢とも思わなかった あこがれは いつでも生まれてくるのだと思っていた さあ もういいだろう 行けよ ここへは帰ってくるな 君の背中を叩いてやろう 一つだけ聞いてもいいかな もし また別なあこがれに出会ったらどうするのか そうか その笑顔だけで十分だ 新しい時間に向かって歩む君に捧げよう 何も持たない君に捧げよう 小さな新しい あこがれを ・・・・・・・・・・・・・・ どうでしょう たまにはこんな青臭い世界も悪くはないでしょう 純粋無垢の泥沼というか、あがきというのかですが いずれにしても、 人が変わってゆくところに、あこがれがある、あった事は間違いないでしょう。 誰になるのかは、人それぞれ自分に聞いた方がよさそうです。 一方通行の話しで、また謝らなければならない感じですね。 それでは。
お礼
だいたい72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ 一つだけ聞いてもいいかな もし また別なあこがれに出会ったらどうするのか そうか その笑顔だけで十分だ ~~~~~~ ☆ たしかに ★ その笑顔だけで十分 ☆ でしょう。 ということは どうなるか? たとえば《あやまつなら われあり》と言われます。 あやまちに気づいたとき わたしは われに還る。われありだと。 もし仮りに あこがれが幻滅におわったとしたら? あるいは 幻滅ではなく もともとのしかるべき自分に還ったと言えるか? あるいは たとえ幻滅であったとしても そのほうが そうあるべき自分に戻ったのだと言えるだろうか? 重ねて言うならば あこがれが終わったとき ひとはわれに還るのか? もしあこがれの中にあったときが われがわれであった。と言えるのなら あこがれ理論は わが実存の道だと言えそうです。 そうでなければ ただのまったくの夢物語を追っていたということになります。 ★ ~~~~ 人が変わってゆくところに、あこがれがある、あった事は間違いないでしょう。 誰になるのかは、人それぞれ自分に聞いた方がよさそうです。 一方通行の話しで、また謝らなければならない感じですね。 ~~~~~~ ☆ まぁ 人それぞれだということに異論はないでしょうが どうにかして共通性をも見い出したい。 あこがれの対象は 人によってまちまちでも そのあこがれのありさまは わがたましいが求めるべきものを求めての巡礼の旅路なのであるか? それとも ただただそれは 何かにあやつられたかのごとく たましいがさまよい出てしまうことなのか? そこんところで 話がある程度はまとまるとよいのですが。 このふたつの内いづれにしても たましいが何かを追い求めているという要素は 誰にも共通であるとも言えます。 しかもこのたましいの現象は そのはじめのきっかけは 自分の意図や意志や理性で考えたことやによって起きるものではない。起きてからは 自分が熱心に追いかけたりときには放っておいたりするのだけれど その《起こり》は 自然のものだと考えられる。そして たましいの現象であり ひょっとすると ブッダター(仏性)にかかわるかも知れない。 まぁ ここまで先走ってみました。 ありがとうございました。
>符号になじめない 失礼ながらBさんらしいと感じました。 符号という無機的なものに、人間的なものを凝縮することはできない 或いは、人間を符号化することは誤っている・・・という感触をお持ちなのでしょうか? 確かに、その味気無さを、私は疎外感と表現してみました。 私が私ではない・・・という思いを自らが知る、知らされるというか、一種の絶望感みたいなものだと思います。 でも、人間とはそうした自己喪失感を経て成長してゆくのではないでしょうか むしろ喪失感こそが人を成長させる、といってもいいような気がします。 失ってこそ見い出せるものがある、というか、知り得るものがあるように思えるのですが・・。 符号化については、意識下の自然な働きであるというように私は解釈しています。 その働きは、自己喪失感の中で自覚されてくるように思えるのですが そうした事もまた自然な事として扱っていいように思います。 極端な言い方をすれば、ですが 自己崩壊といいますか、自己否定的な状況の中で見えてくるもの、浮かび上がってくるものとは 全てがよそよそしく、距離感をもって感じられる、ただの存在であるという非現実的な光景です。 全てが、ただの無機的な符号の羅列にすぎないという眺めです。 こうした一種の絶望感といいますか、疎外感は実際に味わってみなければ分からない・・と思います。 声の無いサイレント映画のような世界、といえば分かりやすいでしょうか。 もちろん、そこには美しさなどまったく無いように感じられます。 今まで美しいと思っていたものは、ただ冷たくそこにあるだけです。 ですが・・・人間とは不思議なものですね 生きている不思議さは、それだけでは終わらない モノクロのサイレント映画が、現実という鮮やかな彩りに満ちた世界をわずかに見せてくれる時があるのです。 既存の美意識が凍結された中で垣間見えてくるもの 感覚が閉ざされてゆくような世界、暗い心のなかの窓に差し込んでくるもの それは、何気ないものが放つ一瞬の華やかさ、暖かさといったものです。 その華やかさ、彩りは、美しさというよりも、暖かさ優しさといったほうがいいようです。 そういった感覚は、おおむね一般的にですが「花」に見ることが多いように感じます。 「花」はそうした意味で優しさの象徴にふさわしいのでしょう。 花に限らず、植物全般や、動物のペットなども同様の優しさや癒しをもたらしてくれるものだと思います。 ちょっと暗い話しが続いてしまいましたが 美しさに打たれる・・・という設定が、どういった状況を指すのかによって違ってくると思います。 感じ取るということ、感じ方が違ってくるように思います。 感性が置かれた状況の違いによって、美しさとは何を指すのかも違ってくるのではないでしょうか。 体験的には、思い出してみればですが 私にも、花が本当に優しく微笑んで見えたことがあります。 それは、今時分咲いている石蕗の花でした。 自分に向かって優しく微笑んでいるように見えました。 石蕗の花は、菊にくらべれば品格は落ちますが 私にとっては心を鎮めるというのか、深い優しさに満ちているように感じられたものです。 こうした状況における自己変化といったものは ごく短時間の受動的な出来事であることから、意識されないままであるようです。 しかし、意識下においてはどうなっているのか 閉ざされた心が開くというところに 美しさが感性そのものに対する影響を同時にもつ、という事のようにも思えます。 はっきりとは分かりませんが 少なくとも感性的把握の拡大が多少はもたらされているのだと思います。 その事を客観的に、決定的な変化であり違いである、ということもできるのでしょうが 私には一慨にそうはいえない感じがします。 大きくみれば、心の成長ではあるのでしょう しかし、ごく自然で当然なことであり、一人間における大きな変化ではない、という見方が妥当のように思います。 きみが きみであることに変わりはないのでしょう。 現実から符号的な非現実へ、そしてまた現実へと戻ってくるという精神の旅は 人間として自然なものである、といった感じがします。 美しさとは、その導き手なのかもしれません。 そんな感じがします。
お礼
約72さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづ こまあすさんの 《あこがれ》理論 これは どうですか? あんがいよさそうに思うのですが。つまり 生まれつきのチカラがそうさせるというところがよさそうです。わざと意図的にという要素は ほとんどない。《たましいが ふらふらとさまよい出る》というんですけど。 ★ ~~~~ 符号という無機的なものに、人間的なものを凝縮することはできない 或いは、人間を符号化することは誤っている・・・という感触をお持ちなのでしょうか? ~~~~~~ ☆ いえ。その前に どういうふうにして符号化するのかといった過程もまだつかめていないというのが 正直なところです。評価の前の段階です。 ★★(回答No.6) 私という存在を情報として見る時に、「私」という符号が生じてしまうようです。 ☆ うっかりしていましたが 《私》も符号なのですね。 言葉なら ふつう一般にも言語記号と言いますから めづらしくもないわけです。 ★ ~~~~~ 確かに、その味気無さを、私は疎外感と表現してみました。 私が私ではない・・・という思いを自らが知る、知らされるというか、一種の絶望感みたいなものだと思います。 でも、人間とはそうした自己喪失感を経て成長してゆくのではないでしょうか ~~~~~~~~ ☆ これは ごもっともだと思います。 ですから 同じ疎外感の地点から 別の筋道をとおって 次のような質問をすでにしています。 【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4958074.html すなわち 《ぶらじゅ野ろんぬ》といった姓名は 《わたし》という固有名詞に代わる代名詞であるのではないか? というものです。 逆説的に《わたし》のほうが 自己に固有だという見方です。なぜなら 他人が呼ぶときに《〈私〉という情報》にかんして 《私》とは呼ばないからです。だれだれさんとか あるいは職務上の地位などで呼んだりしますから。 つまり 自己が自己のことを呼ぶとき《わたし》と呼ぶなら それが むしろ一次的な呼び名である。 一人ひとりにとってそれぞれ――けっきょく同じ言葉なのですが――固有のものである。とも見られなくない。というようにです。 ★ ~~~~~~~ もちろん、そこには美しさなどまったく無いように感じられます。 今まで美しいと思っていたものは、ただ冷たくそこにあるだけです。 ですが・・・人間とは不思議なものですね 生きている不思議さは、それだけでは終わらない モノクロのサイレント映画が、現実という鮮やかな彩りに満ちた世界をわずかに見せてくれる時があるのです。 ~~~~~~~~ ☆ これは まったくそのとおりだと思います。 《もののあはれを知る》 あるいは 例の《わび・さび》です。 ものがなしさの極みにおいて《わびしい》思いをあじわい これを重ねて体験しつづけたときには わが心は《錆び》ついてしまいます。そこから それでも泉の水のごとく湧き上がるものがある。 ★ ~~~~~ モノクロのサイレント映画が、現実という鮮やかな彩りに満ちた世界をわずかに見せてくれる時があるのです。 既存の美意識が凍結された中で垣間見えてくるもの 感覚が閉ざされてゆくような世界、暗い心のなかの窓に差し込んでくるもの それは、何気ないものが放つ一瞬の華やかさ、暖かさといったものです。 ~~~~~~~ ☆ わたしは 次の《あかるい》お話にさらに物言いをつけてみましょう。 ★ ~~~~~ そういった感覚は、おおむね一般的にですが「花」に見ることが多いように感じます。 「花」はそうした意味で優しさの象徴にふさわしいのでしょう。 花に限らず、植物全般や、動物のペットなども同様の優しさや癒しをもたらしてくれるものだと思います。 ~~~~~~~ ☆ たぶん あわれなすずめ また雑草 あるいは要するに侘びしく寂しい極致の絵柄にこそ ブッダターなる秘められたチカラはハタラキを見せる。のではないか? むろん わび・さびまで行かなければならないわけではありません。うつくしさは うつくしさです。 ★ 石蕗 ☆ つわぶき ですか。菊科で 花は黄色が基調でしょうか。そう知りました。 ★ 感性が置かれた状況の違いによって、美しさとは何を指すのかも違ってくるのではないでしょうか。 ☆ ええ。もちろんですとも。そして そこから例の共通性を取り出そうという魂胆です。 美の体験 それは 人それぞれですし 同じ一人のひとにとっても そのときの状態や情況で違って来るかも知れません。 しかも たとえばアコガレというかたちで たましいが惹かれるということがあるのかも知れません。 ふらふらと いまの自分の状態からさまよい出て 何かもとめるものに行き当たるというような。 そしてそれは 必ずしも人為的なこととして起こるのではないであろう。このような議論を出来るだけ共通性のあるかたちで おこなってみたい。のでした。 すなわち こうです。 ★ ~~~~ こうした状況における自己変化といったものは ごく短時間の受動的な出来事であることから、≫意識されないままである≪ようです。 しかし、意識下においてはどうなっているのか ≫閉ざされた心が開く≪というところに 美しさが感性そのものに対する影響を同時にもつ、という事のようにも思えます。 ~~~~~~ ☆ あるいは ★ 感性的把握の拡大が もたらされているのだと ☆ なのでしょうね。 しかもさらには こうおっしゃっていますね。 ★ ~~~~ 大きくみれば、心の成長ではあるのでしょう しかし、ごく自然で当然なことであり、一人間における大きな変化ではない、という見方が妥当のように思います。 きみが きみであることに変わりはないのでしょう。 ~~~~~~ ☆ でも あれでしょう? 《あたらしいわれ》に成っているのではないですか? あたらしく大きなわれとなって帰って来たのではないでしょうか? あるいは 同じわれでも 中身が清浄心として深まった。と言うべきでしょうか? ★ ~~~~ 現実から符号的な非現実へ、そしてまた現実へと戻ってくるという精神の旅は 人間として自然なものである、といった感じがします。 美しさとは、その導き手なのかもしれません。 そんな感じがします。 ~~~~~~ ☆ これを言いかえるなら 符号・記号としてのワタシのその奥なる心の庭を見得るか? にかかっているということかも分かりません。 それには 心がきよめられねばならなかった。《こころのきよい人はさいわいなり。神を見る》。 またまた カッコウをつけました。対抗心がつよくはたらくようです。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
この質問の根本は「わたし」とは何?という事かと思います。 人間のようには自身を“意識・自覚”出来ないであろう動物たちの生命活動を、肉体的生理的欲求によると言い切った場合、その動物たちの「わたし」と、肉体的生理的欲求だけの生命活動とは言えない人間の「わたし」が同じであるのか、同じではないのか。 あるいは、「わたし」とは“意識上”のどこまでの事? 善悪とか美醜を感じるのは「わたし」?、それとも「わたし」が身に着けている衣服でしかない? たぶん「わたし」の範囲を模索することで「自然本姓」を明らかにしてみたいという試みかと思います。 根本、心根、核、なんて考え始めると「わたし」って実在するんだろうかという疑問さえ湧いてきます。 「わたし」は作り上げられたもの?
お礼
わいわいえいとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづかんたんなところで: ★ 人間のようには自身を“意識・自覚”出来ないであろう動物たちの生命活動を、肉体的生理的欲求によると言い切った場合、 ☆ けっきょく動物には 歴史がないということではないでしょうか? 親子の情などがあったとしても おそらく次の世代だとか過去の世代だとかの意識も知覚もないのではないか。 ★ この質問の根本は「わたし」とは何?という事かと思います。 ☆ 哲学が存在論に帰着するように と言ってしまえば それまでなんですが おっしゃるとおりだと思います。 そしてこの問いでは 影の焦点は ☆☆ (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか? ☆ にあると思います。ちょっとあまりにも抽象的なのですが そうだと思います。 ★ たぶん「わたし」の範囲を模索することで「自然本姓」を明らかにしてみたいという試みかと思います。 ☆ とつながるでしょうし また けっきょくこの自然本性が ○ 生まれつきのチカラとそのハタラキ(霊だとか仏性とかを言おうとしています) ○ 特に意志行為のようにはっきりと人為の問題としてのチカラとそのハタラキ とに分かれると見て 先の《無限との接点》としては この《生まれつきのチカラ》のほうを 何とか経験思想のことばで(つまり ふだんの生活ことばで分かるように)捉えたい。こういう魂胆です。 ★ ~~~~~~~ 根本、心根、核、なんて考え始めると「わたし」って実在するんだろうかという疑問さえ湧いてきます。 「わたし」は作り上げられたもの? ~~~~~~~~ ☆ このあたりの思索を もっともっとこねくりからかして 結果を得てみて発表してください。 つまり ほとんど誰もが現在進行中なのだと見ます。
>うつくしさに打たれたきみは だれになるのか 答えにはならないかもしれませんが 手許にあるメモを参考として提出しましょう。 「私」についての自問自答です。 私という符号 私という符号は一つである それは「私」と呼ぶ符号が一つのものを指すからである 私を置いて「私」という符号は存在しない では、私が居なくなった時に 「私」という符号はどこに行くのであろうか 「私」という符号の亡霊は、もはや私ではない 主の無い家は朽ちてゆくのみである 私が生きているうちにのみ 「私」という符号があるのならば 私は「私」という符号を背負ってゆかねばならない 誰か、この符号を変えてはくれまいか? ・・・・・・・・・・・・・・ 私という存在を情報として見る時に、「私」という符号が生じてしまうようです。 つまり疎外感に他ならない 私に、生きるという能動性の血が流れる時に、、「私」という符号的な他者は消滅してしまうようです その時 私は「私」を背負ってはいない 他者において「私」が存在しうるのです では、他者が知る「私」とは 私における能動性に付けられた名前なのです 私には、もはや「私」という名前は無い 他者が、それ以外の能動性を感知して名付くところに共有性があるようです つまり、他者において、私とは明らかな情報となった この存在感のある情報をもたらしたものとは、私における能動性という不可解なものです つまり、私の内に流れる血に他ならない さて、この流れる血はどこから来るのか? これが分からなければ、 私 についての本当の答えが出ない と思えるのだが・・・。 気が付いたら、自分宛の質問が届いていたので、答えてみた そんな感じのメモです。 読み返してみると かなり幼稚な感じです。 たいした事でもないのに くどくどと 説明という、死んだ文章になっているからです。 これがまあ、整理がついて洗練されれば別でしょうが・・・ 何か拾っていただければ幸いです。 うつくしさに打たれたきみは だれになるのか きみであることに 変わりはない うつくしさを創りあげたきみは だれになるのか 人が呼ぶ きみになる
お礼
ほぼ72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 符号 ☆ まだなじまないですね わたしのばあい。しるし と言えば何となく分かるような気もしますが。 そうですね。おっしゃっていること これをわたしの言葉に翻訳すれば おそらく ○ 意志。また 心つもりや その内容からして 嫌いという負の愛をふくめた広義の《愛》。 のことかなと思いました。 つまりは ★ ~~~~ うつくしさに打たれたきみは だれになるのか きみであることに 変わりはない ~~~~~~ ☆ というときの《変わらないわれ》は 何であるかというと おおむね《意志》であるのではないかと。 すなわち わたしたちの人間という存在は 生きる動態として そもそもその中核は 意志行為である。 過去のあらゆる意志行為の軌跡あるいはそれらの蓄積 これが 存在としてわれをかたちづくっている。その中核となっている。と思われるからです。 ★ ~~~~ うつくしさを創りあげたきみは だれになるのか 人が呼ぶ きみになる ~~~~~ ☆ これも あんがいと言いますか その立て役者は わが意志である。こう思うからです。 意志行為を 人との関係という視点から見れば 互いに関わり合う関係とまさにそこで意志を実践するその正負の向きが チカラをともなってヱクトルのようになって かたちづくられている。このチカラをともなった正負の向きというのが 好き嫌いや愛情と憎悪や 親交と敵対などなどの人間関係であるかと思われます。 ところが・ところが そのような人知でありその行為としての人為 これは 意志がいかに中核として重要であったとした場合にも さらに問題は――人間という心的現象においては――別のところにも ひそんでいる。ひそんでいた。のである。 それが 愛憎に区分されるだけではなく おそらく主観的なコトであろうけれど 良い悪いの区別もあるということ。 言いかえると いくら愛情をそそいだとしても それが身内や友好関係にある者に対してであったとすれば それは良いことであるが まだ人間の愛としてはあさい。 敵対する者に対しても愛情をそそいで初めて 意志ないし愛がたたえられる。 そしてこれは 善だと捉えられる。 そして この善として――主観によるものだが――見るときには しかも・おそらく 意志行為といった人為の問題だけではないであろう。こう この質問では見たことを意味しています。 意志行為のほかに 生まれつきの自然本性のなせるわざも含まれるのではないか? 善という行為をとらえるときの見方においてはです。 だとすれば じつは 美という問題もある。 作品として美を創作するという側面もむろんあるわけですが これを鑑賞するというとき では 意志行為としての判断あるいは判断力だけで決まるか? おそらくそうではなく 人為のほかに生まれつきの自然本性の或る部分が関与するところもあるのではないか? うつくしさに心が打たれるのは おのれの意志を超えた生来のチカラがはたらく。のではないか? と話をつないで来て あとは 真理の問題になります。 仏性がやどるというのは 生まれつきであろうし それがはたらくというのも おそらく人為としての自由意志ひとりのチカラでは無理であろう。と見た。というような問いかけであり 問い求めになっています。 ★ ~~~~ 私という存在を情報として見る時に、「私」という符号が生じてしまうようです。 つまり疎外感に他ならない ~~~~~ ☆ ともし言うのなら この疎外から自由なわたしを模索したい。この疎外からわれに立ち返りたい。 そのときの手段は・また道は 愛憎のからみあう広義の愛としての意志行為 これは きわめて重要な存在の動態にとっての中核ではあるが それでもその中核をも超えて ときにははたらくチカラがある。 善をおもう心の底の心であるとか うつくしさに打たれるどこか知らずはたらいたわが心の芯のようなチカラ あるいはそして 真理に触れるといったときの心のみなもと。 この存在の隠れた奥底のチカラ これにのぞみをつなぎたい。 そしてこれらは 現実であり得るか? という問いになっています。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
βの問は、Wikiを参照にすると、絶世の美女と性交しその膣の中で精液を放出し、オーガズムを迎えているときであってもまたオーガズムは、喜びを感じ、ゆだねるという心理的な経験であり、その時、心はもっぱら自分の個人的な体験だけに向けられているものであるらしい。 オーガズムは不随意もしくは自律的な大脳辺縁系により支配されており、性器と肛門を取り囲む下部骨盤筋群の高速な筋収縮のサイクルを伴う。オーガズムの間には脳波のパターンにはっきりとした変化が現れ、このことはオーガズムの反応における辺縁系の重要性を示している。男性と女性の脳はオーガズムの間には類似した変化を見せ、脳活動のスキャンは大脳皮質の大部分での一時的な代謝活動の低下と辺縁系での代謝活動の無変化もしくは増大を示す。 男性においては、オーガズムは一般的に射精へと至り、オーガズム後しばらくは再びオーガズムに到達できない不応期がある。不応期にはしばしばリラックス感が伴い、これは神経ホルモンであるオキシトシンとプロラクチンの放出によるものとされている。女性はオーガズムを比較的長時間維持することができ、オーガズム直後の性的刺激により再度オーガズムに戻ることができる。 オーガズムに入ったらわたしはいるがわたしのコントロールは効かないな。 γの問はわたし以外の子供という存在が誕生する。
お礼
うきよとんぼ氏よ やっちゃってくれちゃって。 まづは ご回答をありがとうございます。 《わたし》の存続の中で《わたし》の思うままには行動し得ない。ってことですかね? で その美〔の感覚〕は 一時的なものなのですね? ○ 本初仏 というものの話を聞いたのですが どうなんですかねぇ。《アーディブッダ》あるいは《法身普賢》とも。 さらに展開して ☆☆ (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか? ☆ もし ★ γ の問はわたし以外の子供という存在が誕生する。 ☆ ということなら 真理なる霊によってみごもった神の子? おあとがよろしいようで。
- 1
- 2
お礼
★ 悲しいことに私の存在は私そのものであり私以外にはありえない有限のものです。真理とも美とも無関係なものであり、残念ながらあこがれ以外にそれらと関係性を持つことはできないでしょう。 ☆ ここでの ★ あこがれ ☆ これでしょうかね? こたえは。 つまり――おっと こまあすさん こんばんは。ええ確かに しばらくですね。ご回答をありがとうございます。―― つまり ★ (γ‐7)は難解すぎて考える資格はないと考えます。 ☆ とおっしゃる割りには ご回答をしっかりと寄せておられる。 ○ 真理や美との接点は われわれのそれらへの《あこがれ》である。 と。これは 深い内容を持つのではないかと考えます。わざとそうしているわけではないからです。 * ○ (あこがれ【憧れ】:大野晋・古語辞典) ~~~~~ 《アクガレの転》 1. ふらふらと行く。 ・五条の東へ~~れゆき給ふに(御伽草子・扇流し) 2. 気をもむ。 ・〔父が〕打たんともがく杖の下 母は~~れ〔娘ヲカバウ〕(近松・大経師・中) ○ (あくがれ【憧れ】)~~~~~~ 《所または事を意味する古語アクとカレ(離れ)との複合語。 心が何かにひかれて もともと居るべき所を離れてさまよう意。 後には 対象にひかれる心持ちを強調するようになり 現在のアコガレに転じる》 1. 本来いるはずの場所からふらふらと離れる。さまよい出る。 ・〔男ノ言葉ニ乗ッテ〕この山里を~~れ給ふな(源氏物語・椎本) 2. 離れる。 ・〔夫婦ノ〕御中も~~れて程経にけれど(源氏・真木柱) 3. (何かにさそわれて)心がからだから抜け出てゆく。宙にさまよう。 ・ 物思ふ人の魂は げに~~るるものになむありける(源氏・葵) 4. うわの空になる。 ・〔恥ヅカシサニ〕心も~~れにけり(源氏・東屋) 5. 浮かれる。 ・花に~~るる昔を思ひ出して(延慶本平家物語二・判官為平家追討) ~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち ○ あく‐かれ:心が何かにひかれて もともと居るべき所(=アク)を離れ(=カレ)てさまよう意 だと言います。だったら すでに《真理ないし美》なる庭に行ってさまよっている。のかも知れません。 次は 推測による議論です。 アクは 《わたし←わたくし》なる語に入っているのではないか。という空想です。 《わたくし》の語源による分析です。 ○ わ(倭:たぶん→和) は マレーシャ・インドネシアなどが属するアウストロネシア(南島)語の 《 orang =人》が《ワ》という発音にちぢんで用いられたのではないかという空想を抱いています。そこから: ○ わ‐つ‐あく: 人(=ワ)‐の(=ツ)‐場(=アク) > わたく > わたく‐し ただし・あるいは 南島語族で《 aku 》は 《わたし》の意味の語でもある。 ○ わたくしの《し》:《それ‐が‐し / なに‐が‐し》のシ。《が》は《の=つ》(属格)。この《し》は 日‐向か‐し(=ひむがし=東)のシでもあり 《向き・方向》を表わす。その人を取り立ててその方向で指し示す。《こちらの方・どちら様》といったように。 なお 《つ》:《家(や)‐つ‐子》⇒《やつこ(奴)》。《ま(目)‐つ‐け(毛)》⇒《まつげ(睫毛)》。 です。 * よって ☆☆ (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか? の答えは 《あくかれ⇒あこがれ》であると。 * あとは われわれの経験をよく捉えて情況や事情を明らかにしてもらっています。お褒めの言葉までいただきました。すみません。 どうでしょうか?
補足
お礼欄から続きます。 こまあすさん 勝手ながら 次のように提案します。 * ★☆ 《こまあす=ぶらじゅろんぬの定理》 ★☆ ――有限なる人間と無限なる真理との接点についての定理 または 《あこがれ≒けがれ》理論―― 1. あこがれ(憧れ)の語の原義:《わたしの居るべき所から――あたかもたましいが ふらふらとさまようかのごとく――離れる》こと(大野晋)。 2. あこがれ < あくがれ < あく(場)‐かれ(離れ) 3. アクとは 《思わく》や《老いらく》の末尾に使われている -aku である。 4. ちなみにインドネシア語などで aku とは《わたし》のことである。 5. 日本語学で アクは 《( a )場・( b )事》の意とされる。 6. アクは ( a )《ワタシが 世界の内にあるそのバ》のことであり また ( b )《この世界における経験法則などのコト》である。 7. そのアクを離れるとは どういうことか? ( a )《このうつせみの我れからの離脱》・《脱自》。 ――《ケ(日常)‐カレ(離れ)》( * )を参照。 ( b )《有無や善悪や因果法則から自由な場に立つこと》。 ――《特異点》を参照。 * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただし ケガレには 日常の元気から離れて《ケガレ(汚れ)》と呼ばれる場合と 日常の慣性から離れる非日常性なる《ハレ(晴れ)》と のふたつの場合がある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8. ケガレがもし《善悪の彼岸》を意味しうるハレとして むしろ《聖なるもの》と呼ばれるとすれば まさにアクガレはその意味で 真理で無限なる神との接点を成す。 《特異点》もおなじくそのようであろうか。(だれかくわしい人 おせーて!)。 9. アクガレの素は ブッダター(仏性)とも 神の霊(=息・息吹き・風:ルーアハ・プシュケー・アニマ・スピリトゥス)とも呼ばれる。 * こまあすさん そして みなさん。追って見直しますが 吟味してくださるとさいわいです。