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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:うつくしさに打たれたきみは だれになるのか)

うつくしさに打たれたきみはだれになるのか

このQ&Aのポイント
  • 中国では無人の豆乳屋台が話題を呼んでいる。
  • 良心というのはほとんど公理として理屈や哲学的議論を抜きにして想定されているもの。
  • 美についての問いや真理についての問いを考える。

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noname#194996
noname#194996
回答No.8

ブラジュロンヌ様、お久しぶりです。 相変わらずの精力的なご活動に怠惰な小生は近寄ることもはばかられてまぶしいばかりです。が、今回は表題の美しさに思わずボタンを押してしまいました(恥;)。ただブラジュロンヌ様と会話したいというだけのせつな的な衝動ですが、何のアイデアがあるわけでもありません。これからひとつづつかんがえつつ行を埋めていこうと思いますが、どこまでいけますか…。 >【α】 この良心をめぐる善のお話というのは  (α‐1) 半ば生まれつきそなわった自然本性のなせるわざである。 これはその通りだろうと思います。生まれつきというのは、つまり進化論的システムによって人間が社会的存在になってから着々と遺伝子に積み重ねられてきた適者生存という記号の作用イコール自然本性(の一部)ということでしょう。もちろん人間はなおその面では発展途上にありますから、ここ数世紀は人間の個体によっては悪行として、いや獣的本能として発揮される場合もまだまだあるでしょうが。 >【β】 うつくしさに心が打たれるのは きみの自然本性においてか あるいはそれ以上の存在機能のようなものとしての自由意志によってか? >(β‐1) われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか? こういった問いを発されるときのブラジュロンヌ様の美しさはまた無類のものがあります。「わたし 」というものを信頼しきっておられるように思います。自由意志ということにおいても。 美というものに悪のわなを感じた小林秀雄の感覚を病的だというつもりはありませんが、私自身の経験からいって、美に圧倒されるとき、私という存在はどこにもなくて、ただひたすらに目があって、耳があって、しびれ、打ち震えつつひたすらそれらを記憶だけでもしようとしている貧しいこころがあるだけではないか、と後になって感じるわけですが、というと答えとしては(β-4)になるわけですが。確かに、一面においてはその圧倒している美というものに近づきたいとひたすら望み、それと同化したい(どうにかしたい)と願っている自己というものがあるようにも思えます。 >(β-6) それとも・むしろ その美を感じたとき(瞬間)にこそ われはわれにかえっていたのか? これもまた魅力的な考えです。世俗の思いに始終毒され、よごされ続けている自己が、美を感じているあいだだけ無辜の自分に立ち返っているというのは、それだけ美という神に相対的にちかづいている望ましい自分だという思いは貴重なのかもしれません。 >【γ】 では 真理とは何ぞや?  (γ-1) もし仮りにわれは真理を――つまりは われわれの言語習慣にしたがって言えば 神を――見たと言うとき 仮りにそうだとしたとき きみは 《わたし》があるか? 上記とくしくも内容が一致した思いですが、美と真理は必ずしも一致するものではないと私は思います。美には救いがありますが、真理はそれらよりもずっと厳しいものであろうと私は思います。 悲しいことに私の存在は私そのものであり私以外にはありえない有限のものです。真理とも美とも無関係なものであり、残念ながらあこがれ以外にそれらと関係性を持つことはできないでしょう。 > (γ‐7)は難解すぎて考える資格はないと考えます。 お粗末さまでした。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 悲しいことに私の存在は私そのものであり私以外にはありえない有限のものです。真理とも美とも無関係なものであり、残念ながらあこがれ以外にそれらと関係性を持つことはできないでしょう。  ☆ ここでの  ★ あこがれ  ☆ これでしょうかね? こたえは。  つまり――おっと こまあすさん こんばんは。ええ確かに しばらくですね。ご回答をありがとうございます。―― つまり  ★ (γ‐7)は難解すぎて考える資格はないと考えます。  ☆ とおっしゃる割りには ご回答をしっかりと寄せておられる。   ○ 真理や美との接点は われわれのそれらへの《あこがれ》である。  と。これは 深い内容を持つのではないかと考えます。わざとそうしているわけではないからです。        *  ○ (あこがれ【憧れ】:大野晋・古語辞典) ~~~~~   《アクガレの転》   1. ふらふらと行く。    ・五条の東へ~~れゆき給ふに(御伽草子・扇流し)   2. 気をもむ。    ・〔父が〕打たんともがく杖の下 母は~~れ〔娘ヲカバウ〕(近松・大経師・中)  ○ (あくがれ【憧れ】)~~~~~~   《所または事を意味する古語アクとカレ(離れ)との複合語。   心が何かにひかれて もともと居るべき所を離れてさまよう意。    後には 対象にひかれる心持ちを強調するようになり 現在のアコガレに転じる》   1. 本来いるはずの場所からふらふらと離れる。さまよい出る。    ・〔男ノ言葉ニ乗ッテ〕この山里を~~れ給ふな(源氏物語・椎本)    2. 離れる。    ・〔夫婦ノ〕御中も~~れて程経にけれど(源氏・真木柱)   3. (何かにさそわれて)心がからだから抜け出てゆく。宙にさまよう。    ・ 物思ふ人の魂は げに~~るるものになむありける(源氏・葵)   4. うわの空になる。    ・〔恥ヅカシサニ〕心も~~れにけり(源氏・東屋)   5. 浮かれる。    ・花に~~るる昔を思ひ出して(延慶本平家物語二・判官為平家追討)  ~~~~~~~~~~~~~~~~                                        すなわち  ○ あく‐かれ:心が何かにひかれて もともと居るべき所(=アク)を離れ(=カレ)てさまよう意  だと言います。だったら すでに《真理ないし美》なる庭に行ってさまよっている。のかも知れません。  次は 推測による議論です。  アクは 《わたし←わたくし》なる語に入っているのではないか。という空想です。    《わたくし》の語源による分析です。  ○ わ(倭:たぶん→和)  は マレーシャ・インドネシアなどが属するアウストロネシア(南島)語の 《 orang =人》が《ワ》という発音にちぢんで用いられたのではないかという空想を抱いています。そこから:  ○ わ‐つ‐あく: 人(=ワ)‐の(=ツ)‐場(=アク) > わたく > わたく‐し    ただし・あるいは 南島語族で《 aku 》は 《わたし》の意味の語でもある。  ○ わたくしの《し》:《それ‐が‐し / なに‐が‐し》のシ。《が》は《の=つ》(属格)。この《し》は 日‐向か‐し(=ひむがし=東)のシでもあり 《向き・方向》を表わす。その人を取り立ててその方向で指し示す。《こちらの方・どちら様》といったように。  なお 《つ》:《家(や)‐つ‐子》⇒《やつこ(奴)》。《ま(目)‐つ‐け(毛)》⇒《まつげ(睫毛)》。  です。        *  よって   ☆☆ (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか?  の答えは 《あくかれ⇒あこがれ》であると。        *  あとは われわれの経験をよく捉えて情況や事情を明らかにしてもらっています。お褒めの言葉までいただきました。すみません。  どうでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄から続きます。  こまあすさん 勝手ながら 次のように提案します。        *  ★☆ 《こまあす=ぶらじゅろんぬの定理》 ★☆    ――有限なる人間と無限なる真理との接点についての定理   または 《あこがれ≒けがれ》理論――  1. あこがれ(憧れ)の語の原義:《わたしの居るべき所から――あたかもたましいが ふらふらとさまようかのごとく――離れる》こと(大野晋)。  2. あこがれ < あくがれ < あく(場)‐かれ(離れ)  3. アクとは 《思わく》や《老いらく》の末尾に使われている -aku である。    4. ちなみにインドネシア語などで aku とは《わたし》のことである。  5. 日本語学で アクは 《( a )場・( b )事》の意とされる。  6. アクは ( a )《ワタシが 世界の内にあるそのバ》のことであり     また ( b )《この世界における経験法則などのコト》である。  7. そのアクを離れるとは どういうことか?    ( a )《このうつせみの我れからの離脱》・《脱自》。        ――《ケ(日常)‐カレ(離れ)》( * )を参照。    ( b )《有無や善悪や因果法則から自由な場に立つこと》。        ――《特異点》を参照。     * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~      ただし ケガレには       日常の元気から離れて《ケガレ(汚れ)》と呼ばれる場合と        日常の慣性から離れる非日常性なる《ハレ(晴れ)》と      のふたつの場合がある。      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  8. ケガレがもし《善悪の彼岸》を意味しうるハレとして むしろ《聖なるもの》と呼ばれるとすれば まさにアクガレはその意味で 真理で無限なる神との接点を成す。  《特異点》もおなじくそのようであろうか。(だれかくわしい人 おせーて!)。  9. アクガレの素は ブッダター(仏性)とも 神の霊(=息・息吹き・風:ルーアハ・プシュケー・アニマ・スピリトゥス)とも呼ばれる。          *  こまあすさん そして みなさん。追って見直しますが 吟味してくださるとさいわいです。

その他の回答 (14)

回答No.4

物事を認識する時に、その対象の階層現象的表面の感受、 ないし因果律の時空的連続性の刹那的な把握をベースとします。 そこから、階層現象を原理的に遡る=本質的に把握する事を 「真」とするならば、その対象の社会的効果の位置づけ(空間的 波及)として「善」が生じます。 そこにおいて「美」は、あくまで階層現象的表面に限定されて いるように思えます。 しかしそこには、認識プロセスの特質たる“過去の経験の総和 による感受への直感的印象の付与”において、その「表面」に 時間的連続性(記憶)が集約されているのです。 光や音などの先行感覚の、特定の刺激パターンに対して、 過去の充足経験における、五感の相関した刺激パターンの 総和が励起される事によって。 (ゆえに環境によって美的センスは異なる)

bragelonne
質問者

お礼

 ★ (ゆえに環境によって美的センスは異なる)  ☆ ぷしゅてっくすさん――あっ まづは ご回答をありがとうございます―― あなたは 環境の関数として存在するのですか?  美をめぐる経験にかんするかぎりでは そうなのですか?  これでお応えは済んだと思いますが すこし せっかくですから お話しましょう。  ぷしゅてっくすさん あなたは この経験世界を超えるということをお考えになったことはありませんか?  たとえば因果関係からまったく自由な――たぶん合っていると思いますが 特異点のような――存在ないし非存在をです。  ここでは 善についてはちょっぴり 美についてはかなりの程度で そして真理についてはぜんぶが もはやいま言った《超経験》の領域がかかわっていると想定されるそのことです。  モノの階層現象なる世界からまったく自由な《非経験の場》です。    これは 有限の能力を持ったわれわれ人間にも想像することが出来ます。また その限りで或る種の仕方で 議論や理論作成のために《想定する》ということも出来るはずなのです。  そういう観想のごとき思索をお持ちになったことはありませんか?  この質問は そういう前提が話をすすめるにあたって あります。      *  ★ ~~~~  物事を認識する時に、その対象の階層現象的表面の感受、  ないし因果律の時空的連続性の刹那的な把握をベースとします。  ~~~~~~  ☆ ほかにそのモノゴトをめぐる情況がありましょうし 歴史は《時空的連続性》として含まれるとすれば あとは じつはその認識する主体の問題があります。つまり 情況も この主体どうしの錯綜する構造的な関係だとすれば 要するに《認識するときに》は 人間の問題があります。  この人間は モノの階層現象なる総体であるというだけでは済まない。のではないか? という問いがひとつ出されましょう。  それにしても 何で  ★刹那的な〔把握〕  ☆ なのでしょう? 何度もあるいはじっと見続けて把握してもかまわないのではないのですか?  ★ そこから、階層現象を原理的に遡る=本質的に把握する事を「真」とするならば、  ☆ これは おそらく《真》というよりは ふつうに《事実認識》であり 《事実》というものでしょうね。認識が その事実と万人が認めることにおいて妥当だと捉えられたとき 《真》と言うのでしょう。  でもぎゃくにそのように真であるなら 事実と呼べばじゅうぶんだとも思われます。  けれども このように構成要素に仕分けて事実が認識されたとしても それは単に《モノ》の把握であるに過ぎない。それは おもに人間とのかかわりにおいてどういう意味があるか。この主体とのカラミを含めた課題についても知って初めて事実認識が 人間にとっての世界認識となります。  人間は 社会的動物であるからです。  あなたの言う《階層現象を原理的にさかのぼったところにおける本質的な把握》がそれだけで 人間にとってふさわしい認識であるとは限りません。  もっともそのことは 次の話に継がれてはいます。  ★ その対象の社会的効果の位置づけ(空間的波及)として「善」が生じます。  ☆ これは ただちに《善悪》判断が生じるとも限らないでしょう。感覚的なよいわるい あるいは 好き嫌いといった判定が下されることはあってもです。  言いかえると 社会的な場における位置づけにおいて 特に価値・効用などの評価が与えられます。  まだ 善は生じません。  効用をどう活用するかにおいて いろいろな方法が考えられて来ます。その方案についてその中身のどれそれが よいかわるいかと問うたとき 善だ悪だという判断が生じます。  つまりは ここまで回りくどい分析をして来ましたが そのことをまとめて言えば  ○ 無人販売の屋台から豆乳を飲んで そのあと 飲み逃げをしようかどうしようかという良心との問答が繰り広げられるとき 善悪の問題が生じる。  ということになります。この良心なる善には 自然本性のチカラがはたらいているのか? それとも むしろ理性による思考としての人為的なチカラがその善悪判断を果たしているのか? といったことをまづ問うている。という問いです。  つまり いちいち《階層現象を原理的にさかのぼり ものごとの本質を把握する》ことをしなくても こういう話と問答は ふつうの人間なら出来るのです。わかりましたか?        *  さて美のもんだいです。  ★ そこにおいて「美」は、あくまで階層現象的表面に限定されているように思えます。  ☆ 《うわっつら》だけを見ることもありましょうし それだけでも美しいと感じることもありましょう。あるいはすでに むしろその《刹那》においてだけでも ものごとの本質を見抜く慧眼を持つ人もいるかも知れない。   《限定されている》かどうかは さまざまでしょう。ただし ふつうはまづ見てくれを見て判断することが確かに多いでしょう。  ★ しかしそこには、認識プロセスの特質たる“過去の経験の総和による感受への直感的印象の付与”において、  ☆ これは ただのうわっつらを見て反応する場合から ただちにその中身の何たるかを見抜きしかるべき反応をあたえる場合までのいろんな場合が含まれましょうが  要するに《そのものを見てそれがどうであるかをも見る》ということです。その一瞬に もちろんその人の過去の精神の軌跡のすべてが総動員されて おのれの自己表出としての評価をかたちづくる。わけです。  すなわち おっしゃるように  ★ その「表面」に時間的連続性(記憶)が集約されているのです。    ★ ~~~~~  光や音などの先行感覚の、特定の刺激パターンに対して、  過去の充足経験における、五感の相関した刺激パターンの  総和が励起される事によって。  ~~~~~~~~  ☆ つまり このことは あたりまえです。知覚する感性も悟性も理性もあるいは 精神の奥なる知恵をも総動員して そのものを《見る》。  それは 《外なる刺激パターンとそれを受け取る内なる刺激パターンとの応答》だけには限られません。刺激の励起のみによって わが心の判断がかたちづくられるものではありません。  初めに提起した《主体》の問題です。    仮りにおのれの自由意志なる判断するチカラが発揮され得なかったとしても 人間はそのように自由意志の未実現なる状態を不本意とする判断をも持つ。そういった過去の経歴を加味して(あるいはすでに捨ててしまって) 総合的な判定・評価をおこないます。  ゆえに  ★ (ゆえに環境によって美的センスは異なる)  ☆ という一面だけを どうして取り出すのか? という物言いになります。       *  あとは 《おまけ》の部分についての課題です。  ところが 《真理=神》については けっきょくこのような《わたし》の総合的な存在史にもとづく人為的な判断が まったくはたらかないかたちで 人は受け留めることに成っているのではないか? と問うています。  人為を超えた何ものかが ワタシをその心の窓あたりにおとづれてノックする。これは 非経験の経験ではないか?  ノックするものは まぼろしである。霊である。それを受け容れるのは 人間たるわたしであるからには それは経験行為である。  ゆえに 《非経験の場を わが心に受け容れるという経験行為》であるようだと。  このように問うています。どうでしょう?

回答No.3

No2の訂正。 直線や点は無定義語の部類ですね。 最も基本的な公理に先立つこれらの概念は、無定義語。 定義はできない。 で、数学の定義は、公理の言い換えや公理の帰結です。 訂正ヨロシクです。

bragelonne
質問者

お礼

 了解しました。  ただし 無定義語というその例が 直線や点について いまひとつ分かりにくかったのではありますが。

回答No.2

こんばんはです。 今回は、哲学と言うよりも、わたしの理系的一面を前面に出しました(ポリポリ)。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  ★ 山菜 / 畑の作物  ☆ というのが どこから出て来たのかに迷いました。 ~~~~~~ これは、わたしの実体験です。 実家は田舎なので、よく山菜泥棒を目にします。 《山菜、とるべからず》と言った看板が出ているのに、それを目にしているのに、都会から来た観光客などが《山菜泥棒》を平気でする。年配の、いかにも善良そうな人が平気で山菜を泥棒する。 ウチの田舎では、別に山菜を採取・販売するのを生業としている人がいるワケではないので、その姿を目にしても、地元の人間は誰も注意はしませんけれども。注意をしたところで、「自然に生えているものだ。採ってどこが悪い」あるいは「みんなやっている、なぜ、私だけを注意するのか」と開き直られるのがオチです。 ウチの田舎には、海もあるのですけれども、サザエなどを採ったりする観光客などもいます。密漁者には、十万円だったかな、ほどの罰金が課せられ、警察に通報されますといった立看板があるのにです。地元の漁師さんたちも、「折角の旅行。その楽しい旅の思い出の一つになれば」と、一つ、二つ、サザエなどをとったところで見て見ぬふりをしていますけれども。 こういう事情があるのですよ。 山菜やサザエといった天然資源を無断で採るという発想の根源にあるのは、「天然資源は誰のものでもない」といった考え方でしょう。ある意味で、これは正しい。ロックの言うように、私的財産とは労働の成果であるという考え方が背景にあるからでしょう。 この利害調整に、《自然本性》は役に立つのか、という問の投げ掛けです。 日本人、畑の作物を盗まないでしょう。でも、山菜やサザエは平気で採ったりする(笑い)。 ウチの田舎には雪割草が数多く自生していたのですけれども、ほとんど絶滅状態ですよ。雪割草の愛好家などが、変わった雪割草を根こそぎ持って行き、な~んも残っていない。───買うと高い。高いものだと、一株で数万、十万を越えることも珍しくない───「良識や良心は、目先の欲がからむと、ちょっとアテにできないな」と思ったりもしたもので。 ~~~~~~  これは命題ではなく、公理や定義に分類するべきであると考える。  ~~~~~~~~~~  ☆ あぁ。そういう見方をなさるのですか。  いえ 《定義》ならそれを証明しなければならないと考えます。《公理》なら 仕方がないでしょうが。  いえ。つまり 無神論のばあい これをなかなか公理とは認めないでしょう。ですから 定義の証明といった手続きでなくとも 公理を設定するときの何らかの説明があるといいと思います。そういう議論を問うていたと思います。 ~~~~~~ 数学においては、《定義》は公理みたいなモノなのですよ。 公理を組み立てる前に、使用する用語を定義しないと始まらない。 なので、最も基本的な公理の前の定義語は、証明ができない。 ヒルベルト主義という奴ですよ。 「直線をネコと呼ぶかどうかは、慣習的なものでしかない。別に直線をネコと呼んでも、構わない」みたいな発想です。 ~~~~~~  ☆ つまりここでは 《仏性》や《神の霊》 これが《無限なるもの》です。  なぜなら もし《仏性》や《神の霊》についてわたしが命題として扱った判断が 公理だとしたら この《無限ないし 無限なるもの》についても 公理に近いかたちで共通の理解に立てると考えるからです。 ~~~~~~ 《自然本性》ではなく、むしろ、これが出発点になるべきだという考えです。 そうでなければ、《善》は相対的なものになってしまうのではないか、というわけです。 そして、《仏性》や《神の霊》は、「証明されるものではなく、アプリオリに認めるべきもの」というよりも、それを信じるかどうかという個々人の立場、信仰に還元されるべきだという考えです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  依然として微妙なところで議論がすすんでいるように思います。  ★ ~~~~  山菜やサザエといった天然資源を無断で採るという発想の根源にあるのは、「天然資源は誰のものでもない」といった考え方でしょう。ある意味で、これは正しい。ロックの言うように、私的財産とは労働の成果であるという考え方が背景にあるからでしょう。  この利害調整に、《自然本性》は役に立つのか、という問の投げ掛けです。  ~~~~~~  ☆ 自然本性は 身と心であり そのように生まれつきそなわった能力などぜんぶを言います。  知覚・悟性・理性。記憶と知解と意志なるみっつの行為能力。  意志行為としての判断力。これが 《利害調整》にあたるはずです。  ★ 「良識や良心は、目先の欲がからむと、ちょっとアテにできないな」と思ったりもしたもので。  ☆ それは そうでしょうけれど その《アテに出来る場合と出来ない場合》のふたつを取り上げることができる。ということは 善悪観としては 一方で良心がはたらくときは ほとんどそのハタラキを始めることについて意識をしていないほど自然のチカラであるように思われるということ。他方では 良心に逆らう場合には これは そういう〔負の〕自由意志がはたらいている。そうして この後者のばあいには 自然のチカラではなく むしろそれに逆らって人為的であると見られる。  こういう分析をしたわけです。  というのも 美を感じる場合には 人為的な部分よりも自然のチカラのほうが その割り合いの度合いとして さらに大きいと言おうとしている途中だからです。  そのあとさらに真理なる神をもし見たと言う場合には もうほとんど全部 自然のチカラによるのではないかと 議論を運ぼうとしているわけです。  神に接したという体験〔があるなら〕は 人為的なものではないであろう。という見通しを持って問うているということになります。    ★★(回答No.1) ~~~~~~~   ☆ (γ‐7) つまりは 《一切衆生 悉有仏性》なる命題は成るか? 《われわれの身と心はそれぞれ 神の霊のやどる神の宮である》なる命題は 成るか?  これは命題ではなく、公理や定義に分類するべきであると考える。  ~~~~~~~~~~  ☆ でもこの場合は いわゆる無神論からは 公理とは認められないというクレームがつきませんか? つくと思っているのですが。  やはり証明ないし 想定するにあたっての説明が必要ではないかと思います。その問い求めをどのようにすすめればよいか。これが 問いです。  ★ ~~~~  そして、《仏性》や《神の霊》は、「証明されるものではなく、アプリオリに認めるべきもの」というよりも、それを信じるかどうかという個々人の立場、信仰に還元されるべきだという考えです。  ~~~~~   ☆ 公理に据えるのでしたら あとは《信仰》とは どういう状態か または行為か? という問いに成り代わりますが。それは 《非思考の庭がわが心になる》ことだとか 《心の伸び あるいは 明け》だというふうにもひとつの答えを持っていますが 善あるいは美の体験との関連において 真理の体験をつうじて その体験の中身においては どういう《自然性と人為性》とがはたらくのか? こういった問いになっています。

回答No.1

☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  中国ではいま、無人の豆乳屋台が話題を呼んでいる。  もともと有人の屋台だったものが無人化してから約10か月が経過したが、こうした商売では必ず起こりそうな“未払い”や“飲み逃げ”といった問題は、これまでほとんど発生していないそうだ。  ・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ ということで もし《良心》や《良識》を善と呼んでよいなら これは 《善》を主題とする美談であるかと思います。  そしておそらくこの良心は――つまり良心というのは 《自由》と同じようにほとんど公理として理屈や哲学的議論を抜きにして想定されているものと思われるのですが―― そのハタラキが発揮されるときには あまりそれを発揮してやろうといった意志を意図的に持とうとして 現われるものではない。  ただし その良心に逆らって何かをしようと思うときには 良心ははっきりと意識されて来る。 ~~~~~~ 山菜を盗む人はどうなるのであろうか? 山菜を盗む多くの人は、無料○○で”未払い”や”飲み逃げ“をしない人である。畑の作物を盗んで食べない人である。 なのに、何故、このようなことが起きるのか。 むしろ、これらのことは、《自然本性》が生得的に備わっていないことの例証になるではないだろうか。 ~~~~~~ (α‐1) 半ば生まれつきそなわった自然本性のなせるわざである。 (α‐2) と同時に それとともに半ばその自然本性にもとづきつつもその心にも逆らう別の心を持ち得てそれを働かせる人間の自由意志や心つもりのやはり為せるわざである。 ~~~~~~ これは何も述べていないのと同じである。 自然本性から反すること、その逸脱行為は、それに反する自由意志の選択・選好としているのだから。 その出発点である自然本性がいかなるものであるのかがまったく定義されていない。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  そこでむしろ問いたいのは 《美》についてのもんだいです。 ~~~~~~ 議論の出発点である《美》についてまったく触れられていない。 《美》は、あたかもイデアの如く、自然に内在すると言いたいのか。 あるいは、《普遍的美》が存在すると言いたいのであろうか。 まず、議論の出発点において、そのことを明確にしなければならない。 《普遍的美》、おそらく、それは存在しないであろう。 《美》は、生物学的遺伝的要素、文化・環境的要素、個人の経験的要素などが複雑に絡み合って、後天的に形成されるものである。 誰もがピカソの絵を見て、そこに美を感じとるわけではない、ことからもそのことは明らかである。 もちろん、黄金比のように、それを有したものに人間は美を感じるのは事実である。しかし、これらは自然に内在する一つの規則性に過ぎず、それを美しいと感じるのはまったく生物学的な要請にすぎない───そう感じることが単に生存に適していたにすぎない───と考えられる。 と同時に、人間は自然に反する新たな《美》を創造することができる。芸術活動とは、そのような自然本性に反する美を新たに創造することでもある。むしろ、このことに重点を置くべきではなかろうか。 ~~~~~~ (β‐1) われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか? ~~~~~~ 《うつくしさに打たれる》という言葉に、「《わたし》はない」ということが含意されている。 しかし、それはあくまで表層意識における《わたし》である。EsやSuper Egoは深層意識下で存在し続けている。 ~~~~~~  (β‐2) 《ある》なら そのワタシは おのれの一応自由になるところの自由意志であるか それとも 意志や意識以前の自然本性そのものであるか?  (β‐3) つまり《あなた(他者)》はあるか? 他者あるいはワタシを《わたし》は見留めているか?  (β-4) それとも その一瞬《わたし》は ないか? ~~~~~~ これらは、一種の判断停止・エポケーの状態だと考えられる。その意味において、意識表層においては、《わたし》と《あなた》の認識は消滅していると考えられる。 ~~~~~~  (β-6) それとも・むしろ その美を感じたとき(瞬間)にこそ われはわれにかえっていたのか? ~~~~~~ ただ思考が一時的に停止している状態にすぎないものと考えられる。 「われは《われ》」の《われ》がEsやSuper Egoと呼ばれるものであるとすれば、答えはNOである。 その経験がEsやSuper Egoなどに影響を与えることは十分に考えうるが、今回提出されたモノは、あくまで意識表層での事象にすぎない。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  【γ】 では 真理とは何ぞや?  (γ-1) もし仮りにわれは真理を――つまりは われわれの言語習慣にしたがって言えば 神を――見たと言うとき 仮りにそうだとしたとき きみは 《わたし》があるか? ~~~~~~ 真理を神と言い換えているにすぎない。 あまりにアウグスティヌス的な解釈である。 ~~~~~~  (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか? ~~~~~~ 《無限なるもの》の《無限》の定義がなされていない。 たとえば、A={x∈R|0≦x≦1} で定義される閉区間Aは、有限の長さ1を有するが、xの個数は無限個である。 有限と無限とは必ずしも相反する概念ではない。 まずは、《有限》と《無限》の定義を提示することが肝要であると考える。 でないと、議論が始まらない。 ~~~~~~  (γ‐7) つまりは 《一切衆生 悉有仏性》なる命題は成るか? 《われわれの身と心はそれぞれ 神の霊のやどる神の宮である》なる命題は 成るか? ~~~~~~ これは命題ではなく、公理や定義に分類するべきであると考える。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ 山菜 / 畑の作物  ☆ というのが どこから出て来たのかに迷いました。  しかも  ★ 山菜を盗む多くの人は、無料○○で”未払い”や”飲み逃げ“をしない人である。畑の作物を盗んで食べない人である。  ☆ ん? ということであたまをしぼって考えました。  こうでしょうか?    ○ 豆乳などの無人販売では 飲み逃げも未払いもほとんどないが 大豆やきくらげなどの作物そのものは盗む人が多い。だから 無人販売における現象は 現実全体の一面であるに過ぎない。  と。中国では そのような実態がありましょうか? 知らないでこの記事をひとつの事例に引いて来たのですが 要するに 盗む・盗まない 料金を払う・払わないのいづれにしても そのときには《良心あるいはそれに触れるときの呵責》の問題が起きる。という例示になるとは思って挙げました。  そうだとして  ★ ~~~~  なのに、何故、このようなことが起きるのか。  むしろ、これらのことは、《自然本性》が生得的に備わっていないことの例証になるではないだろうか。  ~~~~~~  ☆ さきほど言ったかたちで《良心》についての例示にはならないということでしょうか?   つまり良心を持ち合わせていない人間も じんるいの中にはいる。ということでしょうか?  それは どうなんでしょう? そういうふうには思っていなかったです。どうなんでしょうか。  ★ ~~~~~~~~    ☆ ~~~~~~~~~~~~~   (α‐1) 半ば生まれつきそなわった自然本性のなせるわざである。   (α‐2) と同時に それとともに半ばその自然本性にもとづきつつもその心にも逆らう別の心を持ち得てそれを働かせる人間の自由意志や心つもりのやはり為せるわざである。    ~~~~~~~~~~~~~~~  これは何も述べていないのと同じである。  自然本性から反すること、その逸脱行為は、それに反する自由意志の選択・選好としているのだから。  その出発点である自然本性がいかなるものであるのかがまったく定義されていない。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 《自然本性》そのものについては定義をまだしていません。ただしそのうちの《良心》については 定義以前だというかたちでですが おこなっています。  そうして この(α‐1・2)にかんしては この《良心に従うそして逆らう》のふたつの意志行為を取り上げています。   ☆☆ 自然本性にもとづきつつもその心に逆らう別の心を持ち得て  と言っています。これでよいと思いますが。  ★ ~~~~~  議論の出発点である《美》についてまったく触れられていない。  《美》は、あたかもイデアの如く、自然に内在すると言いたいのか。  あるいは、《普遍的美》が存在すると言いたいのであろうか。  まず、議論の出発点において、そのことを明確にしなければならない。  ~~~~~~  ☆ これは 次のような手続きによります。すなわち ことばがすでに持たれ用いられているといった言語習慣を前提として話を始めるのと同じように 美に打たれるという経験を初めに前提しているという意味です。そのそれぞれの経験にもとづき 共通の要素を問い求めつつ話をすすめて行こうという段取りです。  ★ ~~~~~~~  《普遍的美》、おそらく、それは存在しないであろう。  《美》は、生物学的遺伝的要素、文化・環境的要素、個人の経験的要素などが複雑に絡み合って、後天的に形成されるものである。  ~~~~~~~~~  ☆ この問いと説明内容にかかわらず 初めに《おれは しかじかの美に打たれた》という経験を前提において話をすすめようという魂胆です。  ★ と同時に、人間は自然に反する新たな《美》を創造することができる。芸術活動とは、そのような自然本性に反する美を新たに創造することでもある。むしろ、このことに重点を置くべきではなかろうか。  ☆ この点も ここでは脇に措いておいてあります。あくまで焦点は おのが美の体験です。  もしそのような個別の経験から始めるのなら 議論は共通項に欠けるであろうということであるなら・つまりそのことが明らかになったのなら そこで問い求めは ストップします。やめるか または 問い方を変えて出直します。  (β)の問いについて:  ★ ~~~~~  《うつくしさに打たれる》という言葉に、「《わたし》はない」ということが含意されている。  しかし、それはあくまで表層意識における《わたし》である。EsやSuper Egoは深層意識下で存在し続けている。  ★ ~~~~~  これらは、一種の判断停止・エポケーの状態だと考えられる。その意味において、意識表層においては、《わたし》と《あなた》の認識は消滅していると考えられる。  ~~~~~~  ☆ これらのご回答は 微妙ですね。完全に《ない》のではない。ということですね。  しかも・ところが  ★ 「われは《われ》」の《われ》がEsやSuper Egoと呼ばれるものであるとすれば、答えはNOである。  ☆ とも見られている。あったのは 《〈われ〉ではない何か》だったのでしょうか?  ★ ~~~~~~~~   ☆ (β-6) それとも・むしろ その美を感じたとき(瞬間)にこそ われはわれにかえっていたのか?  ただ思考が一時的に停止している状態にすぎないものと考えられる。  「われは《われ》」の《われ》がEsやSuper Egoと呼ばれるものであるとすれば、答えはNOである。  その経験がEsやSuper Egoなどに影響を与えることは十分に考えうるが、今回提出されたモノは、あくまで意識表層での事象にすぎない。   ~~~~~~~~~  ☆ ここも 微妙ですね。  いえ こうしましょう。つまり早い話として 次のように定義しましょう。  ○ (美の定義の一端) 《うつくしさに打たれた》というとき それは 心がその身とともにすでに全体として何ものかに惹き連れられていく状態を言う。  と。《わたし》の内部の部品要素の分析も確認もお呼びでないという状態を言うとしてみます。  その意味では 《意識表層での事象》だとは見ず また  ★ 思考が一時的に停止している状態にすぎないものと考えられる。  ☆ という見方とも一線を画したい。こう考えます。なぜなら《思考がもし停止している》としても そのことを自分が願って意志行為としてそうしたのではない。からです。  ★ ~~~~~  (γ-1) ・・・  真理を神と言い換えているにすぎない。  あまりにアウグスティヌス的な解釈である。  ~~~~~~~   ☆ これもですね。美の体験よりもまれだと考えますが 仮りにです 仮りに《神を見た》という体験を持ったなら(あるいは 仮想的に持ったと想像したなら)という前提で話をすすめたい。こう考えます。  どうしても それでは話が暗礁に乗り上げたなら それまでとする。という進め方です。  ★ ~~~~~~~   ☆ (γ‐7) つまりは 《一切衆生 悉有仏性》なる命題は成るか? 《われわれの身と心はそれぞれ 神の霊のやどる神の宮である》なる命題は 成るか?  これは命題ではなく、公理や定義に分類するべきであると考える。  ~~~~~~~~~~  ☆ あぁ。そういう見方をなさるのですか。  いえ 《定義》ならそれを証明しなければならないと考えます。《公理》なら 仕方がないでしょうが。  いえ。つまり 無神論のばあい これをなかなか公理とは認めないでしょう。ですから 定義の証明といった手続きでなくとも 公理を設定するときの何らかの説明があるといいと思います。そういう議論を問うていたと思います。  でも この(γ‐7)が公理であるとさえ見る立ち場でしたら 次のご議論は腑に落ちません。  ★ ~~~~~~~~~~   ☆ (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか?  《無限なるもの》の《無限》の定義がなされていない。  ~~~~~~~~~~~  ☆ つまりここでは 《仏性》や《神の霊》 これが《無限なるもの》です。  なぜなら もし《仏性》や《神の霊》についてわたしが命題として扱った判断が 公理だとしたら この《無限ないし 無限なるもの》についても 公理に近いかたちで共通の理解に立てると考えるからです。  もし仏性や神の霊が 経験事象であるなら それをわざわざ公理として定義して立てる必要もなく 実際に検証してみることが出来るはずだからです。  なぜならつまり良心ないし善のもんだい あるいは美の問題を扱ってきて そのあと真理を持ち出しているのですから そこで《無限》を出したなら 真理と同じ次元のものとして受け取ることが語られていましょう。あるいはたとえば  ★ 《普遍的美》、おそらく、それは存在しないであろう。  ☆ といったかたちでの《真理ないし無限》を明らかにする問題も一緒に生じているはずだと考えられるからです。《仏性》や《神の霊》も その同じたぐいの問題だと捉えてよいでしょうから。