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「天才」は教育可能か否か?
古来より天才は教育可能か否かという論争がありました。 現代を生きる皆さんはこの問題についてどうお考えでしょうか? また「教育されてない天才」(勉強の成績が悪かったなど) について有名な古今東西の有名人や著名人などもご紹介いただけると と嬉しいです。
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質問者が選んだベストアンサー
私は「教育」というものは環境の一部だと思います。 人間は本来能動的に環境に対して、生まれたときより「意味」を求め自分のなかで「説明」を行い、生きていくものだと思うので、「教育」というより「学習」という言葉のほうが好きです。 その環境の中で、人間は自ら「意味」と「説明」を行う中で、既存の意味と説明の枠を超えようとします。 つまり人間が環境を変えていくのと同様なことを行おうとします。 そしてそれが、環境の一部となることで、その人間を「天才」と呼んだのではないでしょうか? いわゆる「天才」が育った環境の属性を分析し、その属性の要素を含んだ「教育」という名の環境を作ることで「天才」が生まれる可能性を追求することで、可能かどうかという判断をすると思います。 つまり結論としては「可能」ということだと思います。 哲学としての回答なのかどうか自信ありません。 参考になれば。
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天才の本質は一種の適応障害だ。 ”足り無き”が用意される。 本人は生き延びる為に必死で不足を充足しようとする。 天に賦与された才、与えられた不足がその人の天才を生むメカニズムだ。 何らかの目的もしくは使命をもって明確に意識的、人為的、教育的にある適応障害が造りだされた場合、また先天のものであったとしても教育可能かどうかなどの議論ではなく、使命として適切な時期に適切な教育はなされていかなければならない。 美智子皇后は”橋をかける”という本の中で古事記や日本書紀における愛と犠牲、痛みを伴う愛についてふれ、漠然とした不安を感じながらも、複雑さに耐え、人がそれぞれ自分の人生を受け入れ、生き、やがて一人ひとりが共通のふるさとである地球で、平和の道具となっていくことを願うかたちで締めくくられる。
質問者様、はじめまして。 やりとりは初めてなのですが、以前から勇名は拝見しておりました。もう脱退されていたのかなぁと思ってましたが、ずいぶん久しぶりの復帰ですね。 下の方への補足を拝見していて分かりましたが、天才と言っても、タイプがあるんですね。 欧米の天才なんかは、すごい英才教育ですよね。あれからすると、天才をつくるためには教育がいるのかなとも思いますが、いくら教育しても、ちょっと賢いだけで凡庸なのが普通だと言われたらそういう気もします(汗) 我が子を、エジソンに。 あの母親もえらい教育ママゴンでしたね。で、絶対息子を否定しないわけですね。天才を作ったことになるのかどうか分からないですが、天才の可能性を否定しないのは大事かもしれませんね。日本の母親だと、学校の先生に「出来の悪い子ですみませんですぅ」とか謝ってしまって、子供にも指導しちゃうんじゃないだろうか。そしたら、もうエジソンは無理そうですね。常識がつぶしてまった感じですね。 我が子を空海に。 日本を代表する天才。 どう考えても、無理でしょう。教育は不可能。 と、思ったら、空海自身は、修行によって天才になったと伝えられていますね。虚空蔵菩薩求聞持法経という経に基づいて、虚空蔵菩薩の呪文を100万回唱えて、修行した結果、何でも暗記するようになったとか。 アヤスイ・・。 でも、これ、瀬戸内寂聴さんも紹介されていて、編集者さんが、この行法を完成してかえってきたら、それまで普通の人だったのに、すごい天才になってんだそうです。天才になるんだけど、瀬戸内産の話では、浮世離れして、この世的な雰囲気ではなくなるので、もう編集者できなくなってしまうんですって(笑)。お子様に呪文を唱えさせて受験を乗り切りたいところですが、天才になったお子様は、突き抜けてるのでもう東大なんかどうでもよくなるそうです^^。 これだと作る方法があることにはなりますね。 ちなみに幻覚も出たりして、失敗すると大変みたいです。もっとも、どのみち空海は幼少時期からかなり天才であったことは間違いないようです。
- corpus
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ゴールを設定してそのゴールにたどり着くようにするのが教育であるとしたならば、その教育によって育てられるのは教育制度に従順な子供たちだけでしょう。天才がその中に含まれているとは思えません。教育から脱落した人間が天才である場合はあるでしょう。 ただ天才に必要な集中力を養わせておくことはできるでしょう。ただ集中力があっても何に活用するかまでは決められないでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 【天才】生まれつき、普通の人にはまねの出来ない、すぐれた才能を持っている人~新明解国語辞典 の定義に則るのなら、確かに教育=模倣であり、才能はそこからの逸脱がきっかけとなるかもしれず、また萌芽の条件かもしれませんね。 18世紀に天才について論じたジョゼフ・アディスンという最初の天才論者は天才には2種類あって(1)規則を活用する天才(例:俳句に季語を入れる)、(2)規則に捉われない天才(創意の才能)(例:俳句に季語を入れない)。 どちらも偉大な才能だが、彼は特に創意の才能を重視しています。 「創意」とは際限なく存在する先人たちの作品から、模倣ではない起源としての価値をもった作品をつくりだす才能といっています。 つまり天才の独創性とは「起源」=「origin/オリジン」⇒「originality」/オリジナリティ)というわけです。 それならばとうてい教育という模倣では育たない能力というわけですよね。
補足
cyuubu-nさん、はじめまして。 >勇名 いやいやお恥ずかしい限りです。このサイトは1年ぶりですね。そんなものでこちらこそよろしくお願いします。 空海のお話はとても興味深いです。つまり教育できるということになりますよね。 私見ですが、天才ってそれほど特殊な存在ではないと思うんです。潜在意識をフル活用すれば誰でも天才になれるのではないかと。だから瀬戸内さんのその行法というのは教育というよりも、潜在意識にアクセスしている状態のではないかと思うのです。99%使われていないといわれている潜在意識(神の領域に近接している)からイデアの世界の構造物を表現できるのが天才だと思うのです。 その表現の形が音楽や絵や文章を書くことだったりするわけですね。その領域(イデア)からの「啓示」に使われるのが右脳で、潜在意識にアクセスするスイッチ(左脳が使われているときオフになる)だと思うのです。 天才はここが人よりも開放的になっているから(左脳が使われにくいから)、支離滅裂だったり、自分の得意分野(使命)に不得手だったり(たとえば天才に顕著な驚異的なほど学校の勉強ができなかったというエピソード)、変人、いわゆる「狂人」だったりするのかなと。 だからすべての者は天才の萌芽をもっていると思うのですが、突出した状態であるだけで凡人は天才を「天才」と称するとき+αの部分を指しているのではないかと考えます。 イギリス18世紀の天才論争で天才は教育不可という考えは「ロマン主義」というのだそうですが(対する可という考えは「新古典主義」)、ロマン主義は「想像力」を天才の要素のひとつとしています。この想像力も右脳が司るもの。 >幻覚も出たりして、失敗すると大変みたいです。 でしょうね。イメージの世界ですから。麻薬と同じ作用なのでしょうね。しばし天才は麻薬の力を借りますし。 人の意識はそうした無意識と背中合わせですけれど、理性(左脳)がかろうじて抑えているのでしょうね。私も酒を飲みすぎると無意識の底恐ろしいパワーを感じざるを得ません(苦笑)。 >絶対息子を否定しないわけですね。 エジソンのママは肯定し続けたからこそエジソンはエジソンになりえたのでしょうね(心理学的にも褒めれば育つというピグマリオン効果もありますし)。 ということは「天才は教育で作られる」のも真実なのかもしれません。ただ「新古典主義」は「理想・秩序・調和・正確さ・法則性・規則性」が天才教育においては必要だというのです。これは正に現代日本の教育(制度)の特徴です。ということは我国は天才教育をしているようで逆行する方法をとっているのではないかと思います。秩序と法則性というベルトコンベアに乗せられて量産される「秀才」の方が多く育つのではないでしょうか。 何においてもそうですが・・・生きるということにおいては「自由」が基本で最重要のことなのではないかと思います。 参考になりました、ありがとうございました(お礼欄にて長文になってしまいましたのでこちらに書かせていただきました)。