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「感情」と「感情表現」
例えば、「男は感情をあまり出さない」と言います。 しかし、「感情を出す・出さない」も「感情表現」の一つだとすると、「感情」はどのようなものなのでしょうか? また、語彙力が発達して感情的になり難い人は、「感情を出さない人」とは意味が違ってくると思います。 「感情を出さない人はストレスを抱え込む」という理屈を繋げる場合、「感情表現」というベクトルも共に考慮しなければ意義が得られません。 感情表現が豊かでも語彙力が乏しければ、返って周りに誤解を与える結果にもなり、別のストレスを生むからです。 それに、感情表現が本音より過剰だった場合は、返って負担になると思います。 怖いものや有名人を見た時、異常に騒ぐ女性がいますが、必要以上の感情を振舞っているように見えて滑稽です。 もしそれが「自分を演じる」「自分に酔う」という意味で騒いでいた場合、上辺だけの感情で振る舞い、本音を出さないという意味にも通じ、「感情を出す人」と意味が違ってきます。 ある同人漫画で「男性は感情を出さないので、自殺が多い」という言葉も目にしましたが、短絡的だと思うのは僕だけでしょうか? 「感情」という不安定な要素を含めて物事を論じる場合、考え方で結論が分散してしまいます。 哲学と言うには足らない疑問ですが、良かったらご回答下さい。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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moto_koukousei様 No.6-8でのご指摘ありがとうございます。 エキサイトのコメント欄は利用しずらいのですが、使い続けている関係上、そのままになっており、申し訳ございません。 本質的にNo.6-8のコメントは稚拙ブログへの直のコメントであって当然のものであり、誠に勝手ながら、本来的な位置(コメント欄)にも写しを取らせていただきました。もし、不都合があるようでしたらご指摘下さい。(6-8のコメントが何らかの理由で万一削除されないとも限らないため、事前に写しをとっておく必要を感じ、順序が逆になっております。その点につきましてはお詫び申し上げます) === さて、私の「知・情・意」の概念や、多重知能に対する見方が一般的ではなく、共通理解が得られないであろうことは、ご指摘の通りだと思います。(まだ、斜め読み段階ですが、とりあえず) しかしながら、「脳」という器官を通じてしか(知的にも、感覚的にも、感情的にも)認識しえないということは、共通理解が得られる事柄だと思っております。 「考えた・感じた・思った・やろう・いやだ」といったあらゆることがらについて、一端は「認識」することで「自我の統一」が保たれている(これも脳内での統合という働き)と思っています。 脳内活動として記述されうるもの全てを「認識する」ことで知覚し直すということ自体が「知的」だと表現しております。(大脳皮質レベルでの話) 知的な認識作業が、大脳皮質レベル(脳の表層)に限定される一方、情は、いわゆる旧皮質レベルからも発動しえますし、大脳皮質レベルからも発動している(脳の表層と脳幹・海馬・扁桃付近)とされています。 両者の関係が、脳表層で重なり合いながらも中心がずれているということが、情に関する事象を思索する上では、大切なんだろうと思っております。
- moto_koukousei
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http://jinen.exblog.jp/6119786/ を斜めに読み飛ばした感想の(3/3) 前頭前知能(The Intelligence prefrontal)の具体的な内容が、ここでは不明です。少なくとも、図のベン図?に、対人的知能と離れた位置で前頭前知能と描いたのでは一般の理解が得られないです。内省的知能と一部重なり大部分が別に存在するように前頭前知能を描くのも同様に一般の理解が得られないです。 [意:知:情]と分け、intelligence(知)を意と情の境に置いて切断面とこの図で表現したのでしょう。 > この図にて、実質的に[脳]は、[(脳)科学的に扱いうる切断面]そのものである。 > 「意」にしても「情」にしても、脳機能の一部機能である「知、特に、意思の疎通としての言語機能」を介在することで、共通の概念・構造として認識しうるわけである。 ※ 文意がわかりません。この図で切断面が脳ならば、意や情は脳の外にあり、脳が境になって意や情があるということを示すのでしょうか。 言語機能が介在しないと意や情は認識出来ないのであれば、動物か威嚇したり、甘えたり、服従・降参の意を示す、縄張りをマークする、恐怖の感情が群に広がる、集団で狩りをするなどの行為はどう理解するのでしょうか。 感情の大きさや種類を脳の外部から測定しようとする研究は、MIの知能や切断面を無視しているから不可能であるとお考えですか。 また、意や自我は社会や文化から直接的に影響されることがこの図ではわかりません。 自己の身体状況や運動、言動が情意に影響することもこの図ではわかりません。 必ずしもMIを経由して影響するとは言えません。知情意は脳機能の結果であるとし、その内部の関係は不問にしたとして、薬剤やホルモンバランスの影響なども大きいのです。また脳細胞に関わる構造的遺伝的電気化学的問題も大きいのです。 認知のスタイルが情や意に強く影響するということも、MIを知的切断面として説明するとわからなくなってしまいます。 知情意と知的切断面、情の扱いを含めて図にまとめたとのことですが、知情意の説明や理解の役に立たせるには妥当性の低いものに、私には思えます。
- moto_koukousei
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http://jinen.exblog.jp/6119786/ を斜めに読み飛ばした感想の(2/3) 4 http://jinen.exblog.jp/6119786/ > 「意識」だと認識されたり、「情」だと認識されうるものは、「脳」にて「知覚されるもの」であり、本来の「意識」や、本来の「情」ではない。 ※ 何を言っているのかがわかりません。この図に描かれている他者や社会、他者に対する情、自身に対する情、この描いた図を思い至ったものでさえも、脳で知覚したから描けたのでしょう。この図には描けなかった本来の情があるのでしょうか。狭義の情でも、広義の情でも、広義狭義不分明の情でも、それは、この図の中では本来の情ではないということでしょうか。図には描けない、脳に知覚されない本来の情があるのでしょうか。 > 多重「知能」という概念のすばらしいところは、そういった対象を「科学的に」処理可能なものとして「知能」というレイヤーを想定し(いや、限定し)ていることに尽きると思っている。 ※ Theory Multiple Intelligenceは、科学的に処理可能な概念を用意するのではなくて、子供を育てるときにスペクトラムアプローチをすることを提案したのではないでしょうか。それと、ガードナーは「知能」を問題にしているのではなくて、その人が所属することになるコミュニティや文化で高く評価される解決・達成能力です。英語のintelligenceをガードナーは自分流に定義して使っています。 下記のPDF(Theory Multiple Intelligence)のP7の中段にあります。 http://www.chaight.com/Wk%2011%20Gardner%20-%20Multiple%20Intelligences.pdf A word for intelligence in a society of these sailors would probably refer to that kind of navigational ability. Think of surgeons and engineers, hunters and fishermen, dancers and choreographers,athletes and athletic coaches, tribal chiefs and sorcerers. All of these defferent roles need to be taken into account if we accept the way I define intelligence - that is, as the ability to solve problems,or to fashion products,that are valued in one or more cultural or community settings. For the moment I am saying nothing about whether there is one dimension, or more than one ,of intelligence; nothing about whether intelligence is inborn or developed. Instead I emphasize the ability to solve problems and to fashion products. In my work I seek the building blocks of the intelligences used by the aforementioned sailors and surgeons and sorcerers. MIでガードナーが定義するintelligenceを、日本語で知性とか知能と訳すのは誤解の元だと思います。論文の中でもintelligenceはそれぞれの分野でのabilityと説明されています。MIの理論では、社会で高く評価される能力とかスキルと理解する方が妥当だと思います。日本語で知能といえば、論理的に考える、計画を立てる、問題解決する、抽象的に考える、考えを把握する、言語機能、学習機能などさまざまな知的活動のことで、これを適当に意味拡張しては共通理解が困難になります。 ガードナーはintelligenceの内容や分野を限定せず、社会やコミュニティで高く評価される可能性のあるものであれば、その有用な機能を次々と認めるようです。子供が自分の特徴を活かし、自己の存在意義を高くし、生き生き活躍できるようにするという視点では大事なことと思います。 http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/affiliate/misawa/download/MISAWA_study1.pdf MI理論による10の知能 1 言語的知能(⇒能力):話し言葉・書き言葉への感受性、言語学習・運用能力など(作家や演説家、弁護士など) 2 論理数学的知能(⇒能力):問題を論理的に分析したり、数学的な操作をしたり、問題を科学的に究明する能力(数学者や科学者) 3 音楽的知能(⇒能力):リズムや音程・和音・音色の識別、音楽演奏や作曲・鑑賞のスキル(作曲家や演奏家) 4 身体運動的知能(⇒能力):体全体や身体部位を問題解決や創造のために使う能力(ダンサーや俳優、スポーツ選手、工芸家) 5 空間的知能(⇒能力):空間のパターンを認識して操作する能力(パイロットや画家、彫刻家、建築家、棋士) 6 対人的知能(⇒能力):他人の意図や動機・欲求を理解して、他人とうまくやっていく能力(外交販売員や教師、政治的指導者) 7 内省的知能(⇒能力):自分自身を理解して、自己の作業モデルを用いて自分の生活を統制する能力(精神分析家、宗教的指導者) 8 博物的知能(⇒能力):自然や人工物の種類を識別する能力(生物学者や環境・生物保護活動家) 9 霊的知能:宇宙の問題について考えることにたずさわる能力(最終状態 偉大な宗教指導者) 10 実存的知能(⇒能力):宇宙の深奥―無限大と無限小―に自らを位置付ける能力であり、それに関連して、人生の意義、死の意味、物理的・心理的な世界の究極の運命、人を愛したり芸術作品に没頭するなどの深遠な経験といった人間的な条件の実存的特徴との関係に自らを位置付ける能力 このMIは、元来は社会で高く評価されるために向上させた方が得な能力、高いと都合の良い能力やスキルという意味です。ある社会集団や文化で高い評価を得るために注目する視点です。個人の脳の内部の機能把握のツールでも、知情意に関する知的切断面でも、脳の中にあるいくつかのレイヤーを指しているのでもないと思います。
- moto_koukousei
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http://jinen.exblog.jp/6119786/ を斜めに読み飛ばした感想の(1/3) 1 http://jinen.exblog.jp/345889 > 「科学的・客観的に事物を見る」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという限定された条件を持ち込んでいる。ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できるぐらい極力最小」ないし「入れ替わるときに発生する影響度を確率的に予測可能な範囲」にとどめおくことで、観測可能であるときのみ、「科学的・客観的に見る」ことが可能だということを意味する。 すなわち「この私」と「その他」とは、決して切り離すことができないということである。 ※ ロジックがわかりません。観測者がA、B、Cと代わっても、観測結果に違いがでないという概念は、観測者A、B、Cが切り離せないということを意味しない。また前提ともしていない。 2 http://jinen.exblog.jp/3443915/ > 認識論的唯脳論はありえても。。。存在論的はありえない。。。「この私」の「この存在」とは、知的源泉への収縮などでは決してありえない。それは、必要条件であって、十分条件ではありえない。「この私」の「この存在」の十分条件とは、「この私」が総体(全体)から切り離されえない以上、総体(全体)そのものになる。もし、「この私」と「それ以外」との間に何がしかの境界を設定するのであれば、そこには、知的切断面による虚しい境界を感じざるを得ない。総体とは、個々を含む全体である。本来ならば、決して切断されえない総体ではあるが、「個々によって認識される過程」において知的切断を受けうる。個々にとって「認識論的唯脳論」的に知的切断された総体は、「総体」という記号でもってラベル付けされるがゆえ、「知的」に共有可能・交換可能(静的な総体)であるかのごとく錯覚してしまいうる。しかしながら、(認識以前の動的)総体は「かたりえぬもの」。。。 ※ 読んでも、何をどのように述べているのかがわかりません。概念としての総体、概念のとしての部分は、知的作業の結果で、どこが部分の境であるかは部分の概念の取り方で違うだけでしょう。何を総体としているのかは、内包(Intension)は共通でも、外延(Extension)が確定していないのだから明確にしようがないだけでしょう。http://jinen.exblog.jp/6119786/に >「その「概念図」に対して、上記のように「多義図形」としての重ね合わせを考えざるを得ないわけである。なぜならば、それぞれの人が、それぞれの思いで、自身の心を「わたしのこころ」として、認識しているわけであるから。。。」とありますが、思考者A、B、Cのそれぞれの思いが異なるだけでなく、一人の思考者に関しても、思考する案件毎あるいは場面毎に異なるイメージで境を作るから多義的でもあるのでしょう。総体・全体と述べる度に違う外延(Extension)を持ち込んでいるだけでしょう。外延(Extension)が不明確でも、総体や全体について語り且つ述べることが可能なのは、ご自身のなさっていることを振り返っても明らかでしょう。 3 http://jinen.exblog.jp/7250310/ ここでも、>「「広義の情的」なるものは、「知覚されえないもの、感じられえないもの」をも含んでいる。すなわち、知覚・感覚といった認識以前の「すべて」を含んでおり、切り離しえない「このわたし」と「そのあなた・そこにあるもの」と「その関係」といった繋がりを含んだ「総体」に相当しうる」と総体や広義の情的なるものについて述べています。広義の情的なるものと狭義の情的なるところの境が不明確あるいは多義的に認識されるとしても、広義の情的なるものに関しても、狭義の情的なるものに関しても述べて意見を交換することは可能です。もちろん、境を明確にしないと混乱を来す場合は多いです。広義/狭義の境、あるいは当面A氏が論じている境が明確でないと、共通認識が出来ないとは限りません。円の性質を論じるのに、円のサイズや円の内部の状況は不問でも問題ないのです。 > 「わたし」「私と家族」「私と職場」「家族と近隣」「家族と親戚」「地域と県」「県と国」「国と国」「地球と宇宙」といったように、「わたし」を中心とした境界は様々に設定しうるし、その想定された境界を越える繋がり(物理的なやり取り:状報交換ではなく、情的なやり取り:情報交換)があるからこそ、境界(知的切断面)の移動が可能になっているといえる。このことは、物理的なやり取りが全く想定不可能な世界の間、すなわち、たとえば「この世とあの世」といった仮想的な世界観に設定されうる境界(知的切断面)を越えて、「情」的なもの(思い)があるといった情態にも適応可能である。たとえそれが「情報交換不可能な一方的な思い」であったとしても、である。 ※ その通りです。そして境界が不明確のママであっても、討議や認識を共通にすることも可能です。たまには異なった認識のまま合意したと思い、認識が同じだと誤解することもあります。境界が同じでも、留意の重要優先度や問題意識が異なれば、討議や認識は一致することがないことも多いです。 > 「狭義の情的」なものの代表としては、情および情動を表すさまざまな単語・言葉をはじめ、知的所与を交錯させて完成された(あるいは未完の)芸術作品と呼ばれる一連のものが相当しうる。ようするに、記号化されることで、他者と共感可能(感情の交換が可能)なものとして、扱いうるものになる。このように、記号化可能だとされたとたん、当該「情的」なるものが、「知的概念」と相同なものとして扱いうることになりうる。すなわち、この段階にて、「情的なもの」は、「狭義の情的」として捕らえうるわけである。 ※ 何を述べているのかがわかりません。「喜・怒・哀・楽・不安・期待」の言葉や文芸絵画音楽映画演劇などの作品でも、その個々の内容が何であるのかは十人が百通り、千通りの理解をします。共通理解、感情の共有が出来たと思っても事実は異なることが多いです。実態として不安と期待がない交ぜの状態はあります。喜びと悲しみが同時に起きていることも多いです。人為的作品にすれば一意に記号化出来るというものではないです。自然の猛威といわれる過激なシーンに直面した場合(人為的に記号化してなくとも)、その場の多数のものが共通の感情を懐いたという共通認識をすることは多いです。(実際は一つの共通感情ではないので、共通認識したと思うのも間違いです。対象が記号でも、自然現象でも、社会現象でも、同じです) 記号化されたために狭義の情的なものになったのではなく、同じ場面にいたので同じ狭義の感情を懐いたはずだと思うのでしょう。
- moto_koukousei
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用語を整理して、それぞれについて検討を深めると良いと思います。 このママでは、わかりにくいし、思考が混乱しているように私には思えます。 感情の種類:どのような感情があるのか http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%83%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 感情の認知:どのようなことで感情があることがわかるのか 不安、困惑、快/不快、嬉しい/悲しい、騒ぎたい/静かにしたい、余裕がある/焦る、 現実に経験した結果で感情が直接に起きるとは限らずに、自分が創り出している感情もあるのではないか 期待意欲/やる気の消失、興奮/無気力、尊敬/侮蔑、親愛/敬遠、晴れがましい/恥ずかしい、甘えたい/敬遠したい、好奇心、[試験前、試合前の緊張、叱られる前の萎縮、ホラーを見る前の不安の高まり、好きなアイドルが出て来る前の興奮、思い出したり想像することでの興奮やうっとり、悲しみや恐怖の感情 自分と他人の感情:他人の感情をどのように認知するのか 見た目の形や聞こえ方とは別に、想像と類推で感情を推し量っていることはないか 感情は人間だけに起きるのか、他の動物にも起きるのか そもそも、感情、心、気分などの関係は。知識や経験、想像力や知性との関係は。 http://www.agr.hokudai.ac.jp/macro/kawamori.pdf 「感情は、何かの受身対応で起こるもの」とは限らないです。 > [知的な言動を含む)何らかの言動に伴って、後から感情が生み出されるということもあるでしょう。 目標を持って何かをしている場合進めば進むほど、意欲ややる気が高まる、昂揚してくるということもあります。同じことに遭遇しても、目標を持って進んでいるときと、漫然としているときでは、強く影響される/まったく気がつかないということもあります。ある場面で、気付き感情が生じる/気づきもしない/違うように感じる別の感情を生じるという差は、それまでの経験、観察力、脳の総合的認知にも強く関係します。 パニック障害、うつ、引っ込み思案の傾向、ひがみなどの治療で、認知のことを強く問題にするのは、感情は何かで引き起こされるものとは言い切れないことが認識されているからです。 「本音とは無関係に‘笑う’行為に伴って‘楽しい’という感情が発露する」ことがあるのも確かです。それで、行為や行動を重視する心のケアの方法が重視もされています。 「言語能力が認められない状態でも、感情は起きる」と思った方が良いです。 小説家、脚本家、演技者は、積極的に感情表現することが出来ます。 感情表出、感情表現は言語だけでやるとは限りません。 感情表現、感情表出を観察しなくても、感情を推定することは出来ます。 感情は表現され、表出されるとは限りません。 恐怖を感じるとき、同時に脈がはやくなり、口が渇き、手に汗を握ることがあるとしても、口内の渇き、発汗、脈も瞳孔もほとんど変化しないこともあります。 他の感情に関しても同様です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%83%85#.E8.87.B3.E8.BF.91.E8.A6.81.E5.9B.A0-.E6.84.9F.E6.83.85.E3.81.AE.E8.84.B3.E7.A7.91.E5.AD.A6 感情とは何かを単純簡明に規定することは出来ません。多くの感情に関してそれがどのようにして発生するのかもよくはわかりません。 しかし「感情という言葉は共通認識になるもの」です。喜怒哀楽だけでなく感情を表す言葉はほぼ共通のイメージを形成するものと推定して問題ないです。 胸が痛む、断腸の思い、血湧き肉躍る、胸をおどらせる、嬉しい、喜びに浸る、楽しい、腹が立つ、はらわたが煮えくり返える、頭に血が上る、むかつく、苦々しい、にくにくしい、辛い、悲しい、寂しい、憤る、恐ろしい、驚く、逃げ出したい、興味津々、何としてもものにしたい(成功欲、物欲、勝利欲)、飽きる、、、、言葉をまだ知らないとしてもそうした感情を理解出来るので、言葉を覚えるとほぼ正確に感情に関するコミュニケーションが他人との間で可能になります。 「一人で本を読んでいたり、ゲームをしていたり、風呂に入って鼻歌を歌っているときなど、他者とのコミュニケーションが行われていないときにも感情の発露は行われ続けている。本質的には‘感情を出す’というのは、相手の有無に関わらず、本音の有無に関わらず、また、理解される・されないに関わらず、‘自身や相手や空想の対象や周囲に対する情を何らかの表現方法で表出させる’ということになる」と思います。 誰が、どの程度感情表出をするのかをある程度の人数で調査し分析するのはかなり困難です。 「男は感情を表出しないので、自殺が多いという概念がある」とは知りませんでした。 一般的に自殺が多いのは、高齢、健康問題、貧困、無職、近親の喪失などとされています。 http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/sougou/taisaku/kentokai_5/pdf/s-3.pdf http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-07-002.html うつなどの精神障害は感情を表出しない結果ではないでしょう。別に原因があると見た方が妥当でしょう。 http://www.men-joy.jp/archives/52596 http://d.hatena.ne.jp/sutare/20080617/p1 自殺企図者は、自殺非企図者よりも感情表出が少ないという見解を知りません。 感情表出が際立って目立つ人物がどのようにいるのかを経験的に述べることは可能です。その場合、感情表出が現れ易い場面とか、感情表出に関するその社会の文化も考慮に入れる必要があります。協議、討議、交渉、検討、審議、決定、通知などの場面や共同行為をする場面で場にそぐわない個人的な感情表現は文化的にも好ましくないとされるでしょう。そのような場面での印象が多い人と、私的な生活場面や飲み屋での印象が強い人とが混在していると、経験の対象者を男女や年齢、職業、地域、人種などのプロフィールで分けても、感情表出が際立って目立つ人物がどのようにいるのかに関して妥当な見解にはならないでしょう。 客商売をする人はやさしく温和で、冷淡な感情を持ったり、激しやすい人はいないというのは、経験の局在が作り出すイメージでしょう。 「情を押さえ込んだ知的な言動が、逆に相手の感情を揺さぶることもある」し、感情的な言動が相手の感情を激させることもあるし、こちらが感情的になった結果相手が理性的に戻っていく場合もあり、情を押さえ込んだ知的な言動が相手を理性的にすることもあります。 一方の言動のスタイルが相手方に決まった感情を生じさせたり冷静さを保持したりと単純には決まりません。相手方の経験、知識、性格や意識のあり方、健康や疲労状態や二者の役割関係なども大きく影響します。子の言動に親が、生徒の言動に教師が、患者の言動に看護師が、客の言動に商売人が、庶民の言動に政治家が、社員の言動に上司が対するとき、妻の言動に夫が対するとき、感情表出にも差が出ますが、それ以前に感情の出現そのものが違います。 > 本質的には「情」は、[仮想的・空想的なものを含む)対象となるものへの「[方向性を持つ)動的な思い」だと思っています。 なんともコメントが難しいです。 情に脆い、情が移る、情におぼれる、情に絆される、情が強い、強情、情に厚い、情が薄い、情操、情緒、情趣、情況、情勢、情欲、情話、情愛、情人、人情、、、 ~~~~~~~~~~~~~ > ストレスとの関係について言えば、~~~、ストレスが発散するということも、、、 あまりストレスのことに触れたくないです。ストレスの用語は、「ストレスを受ける/ストレスが溜まる/ストレスが発散される/ストレスが解消される、、、」など便利に使われますが、何を具体的に言っているのかも明確でないです。 おかしくなる、変調を来す原因をめ明示できないときに、「疲れ・不安・懸念」という代わりに「ストレス」とカタカナで格好をつけた感じです。睡眠、休養、食事、酒、歓談、レジャー、旅行、スポーツや趣味、それでもだめなら、医薬品などの力、精神神経科の力を借りてというのも似ています。前向きに受け留め積極的になれば、能力を向上させれば多くの問題が解決に向かうのも似ています。 知的能力の向上が一番有効なことが多いですが、身体的能力でも、対人関係を円滑にする能力をアップすることでも、事態は改善します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://jinen.exblog.jp/6119786/ に関しては、別の回答欄で私の感想を書きます。
- 来生 自然(@k_jinen)
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まず、「感情という言葉がどうして共通認識になりうるか?」といったとき、理性的・知的・論理的な方向とは異なる方向だという認識が働いているのではないでしょうか? 「こころの働き」は切り分けることができませんが、そういった方向性という概念で捉えるなら、知的方向性、情的方向性が一般論的には逆方向的な概念として捉えられがちだということです。「男性は感情を出さないので、自殺が多い」というのも、そう言った概念が背景にあるように思われます。 本質的には「情」は、(仮想的・空想的なものを含む)対象となるものへの「(方向性を持つ)動的な思い」だと思っています。 人間である限り、情は知的な言動にもついて回りますし、情に対する後付的な論理武装ということも行われるでしょう。情を押さえ込んだ知的な言動が、逆に相手の感情を揺さぶることもあるでしょう。この場合に「感情を出さないというのも感情表現だ」と仰ることに該当するかもしれません。相互に影響し合いながら、コミュニケーションというものが進行するのだと思います。相手方が「この人は感情を表に出す人だ」と思う場合には、そういったコミュニケーションがスムーズに働いていて、そのコミュニケーション自体への感情の織り込まれ具合と起伏の程度から感じ取られるのではないでしょうか? 「感情を出す・出さない人」というのは、こういったコミュニケーションに基づいて相手方が判断することでしょうが、一人で本を読んでいたり、ゲームをしていたり、風呂に入って鼻歌を歌っているときなど、他者とのコミュニケーションが行われていないときにも感情の発露は行われ続けているでしょう。 本質的には「感情を出す」というのは、相手の有無に関わらず、本音の有無に関わらず、また、理解される・されないに関わらず、「自身や相手や空想の対象や周囲に対する情を何らかの表現方法で表出させる」ということになるでしょう。 ストレスとの関係について言えば、たとえば、本音とは無関係に「笑う」という行為をするなら、その行為に伴って「楽しい」という感情が発露し、ストレスが発散するということも言われていますから、(知的な言動を含む)何らかの言動に伴って、後から感情が生み出されるということもあるでしょう。 ※「情」や「意」といったものも「知能」(知)として捉える多重知能という概念もあるようです。 よければ稚拙ブログを参照願います。 http://jinen.exblog.jp/6119786/
感情:喜怒哀楽 ですね。 >男は感情をあまり出さない。 確かにそういわれます。ある受身の環境下において、女性ほどその生理的影響、反応を表面に顕わさないということだと理解しています。 暑いときも我慢して「暑い、あつーい」とか言わず、肉親が死んだときも声を上げて泣かず、ぐっとこらえる。こんないめーじですね。 >、「感情を出す・出さない」も「感情表現」の一つだとすると、「感情」はどのようなものなのでしょうか 感情を出す→ そのとおり感情を表に出すことで、体内に起きた生理反応を素直に表現するということです。 感情を出さない → 完全に出さないのは表現とはいえません。表現ではありません。ここでは感情は表れません。 ある環境下での感情を出さない表現というものがあるとすれば、演出家は必ずわずかでも何らかの変化を演者に求めます。ぴくり、と目の下をうごかすとか、ですね。ここで感情表現が達成されます。感情とは人間の内部の葛藤、あるいは皮膚下の動きですからそれ自身は他人の目には見えないのです。 >語彙力が発達して感情的になり難い人 理性が勝った人という意味ならある程度抑えられますからその通りですね。単なる語彙力が発達しただけの人は、感情を言葉で饒舌に表現する傾向がありますので、感情的になり難いとは一概に言えません。 >「感情を出さない人」とは意味が違ってくると思います。 上記の意味ならそうかもしれません。 A>「感情を出さない人はストレスを抱え込む」という理屈を繋げる場合、「感情表現」というベクトルも共に考慮しなければ意義が得られません。 意味がわかりません。解釈は下記します。 >感情表現が豊かでも語彙力が乏しければ 心あまりて言葉足らずということでしょうか?感情表現には様々あります。たとえば言葉の代わりに絵を書いて感情表現に変える人も存在します。そういった表現方法がわからない、あるいはそれだけでは満足できないひとはたとえばゴッホのように最終的にはストレスで自殺するということにもなるでしょう。 >怖いものや有名人を見た時、異常に騒ぐ女性がいますが 一種の 躁 という病的状態だと思います。からさわぎです。 >同人漫画で「男性は感情を出さないので、自殺が多い」という言葉も目にしましたが、短絡的だと思うのは僕だけでしょうか? これがご質問の本体でしょうか。A でのフレーズですが、 短絡的というか、もう少し説明が要るかもしれません。感情というのは先にも書きましたが、何かの受身対応で起こるもので、反応動作としてそのエネルギー分を吐き出さなければ、ストレスとして体内にたまっていくという性質のもののようです。たまったストレスが神経症を引き起こすと考えればいいのではないでしょうか。
- NemurinekoNya
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もちろん、性差として期待された役割を果たす(いわゆるジェンダー)もあるのだけれど、 男と女では、脳の構造からして違うんだから、しょうがないんじゃないの。 第一、女性が、男とまったく同じ仕草や感情表出をしたら、つまんないよ。 ~~~~~ もしそれが「自分を演じる」「自分に酔う」という意味で騒いでいた場合、上辺だけの感情で振る舞い、本音を出さないという意味にも通じ、「感情を出す人」と意味が違ってきます。 ~~~~~ たとえ上辺だけではあっても、「行為」は人格や感情形成において大きな影響力をもつと考えます。その行為が繰り返されて習慣性を獲得したのならば、それは、単にその習慣性の存在を表層意識が気づかないだけでしょう。無意識にその行為を行っているわけです。感情は、意識の表層部分と深層部分から形成されているわけですから、質問者のように、意識の表層部分だけを取り上げて議論をするというのは、片手落ちのような気がします。
整理しましょう。 感情。自分の気持ちです。 でも、これ個人差かなりあります。 一の刺激で十感じる人も居るし、悟りきった方なら逆も有りかもです。 前半部分は、ここの話しだと思います。 誰もが同じ感じ方ではありません。 因みに、語彙力の有無と感情的になるならないは、無関係でしょう。 感情表現。感じている事を面に出す事です。 これも、個人差かなりあります。 下手な人は、色々溜め込みます。 上手な人は、羨ましがられるのかな? ま、一般論ですが、一般論の何が気に入らないのか、整理して話して戴かないと、ちと困ります。
お礼
う~~~ん。 考えて文章を構成・整理しませんでした。 混乱させてしまったらすみません。 感情表現を芸術の面に昇華させる人も、僅かながらいるのですね。 勉強になりました。