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今、歴史についていろいろ調べているのですが、昭和の戦前期について教えてください。 昭和戦前期を日本のファシズムからの視点でまとめると、その形成から確立までにどのようなとくちょうがあるのでしょうか? あとドイツ・イタリアと比較するとどのような特徴があるのでしょうか? 教えてください。
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学校の宿題でしょうか? 基本的なことは教科書にかかれていますよね。 形成から確立までの特徴ということですが、1つは、ヒトラーやムッソリーニに相当する独裁者がいなかったことが挙げられるでしょう。陸軍内部の派閥対立、軍部と政党の対立、政党同士(民・政両党)の対立などがキーポイントになります。本当に対英米開戦を欲していた者はごく僅かであったにも関わらず、「総論賛成、各論反対」の状況で、対立勢力相互の足の引っ張り合いの中で、事態は悪化の一途を辿っていったわけです。そういう点で、ヒトラーやムッソリーニがそれなりに自らの信念に基づいて戦争へと導いていった独伊とは明らかに異なると言えるでしょう。 第2に、外交方針の一貫性の無さが挙げられるでしょうか。対ソ重視or宥和、南方進出の是非、独伊との連携強化の是非など、様々な場面での外交方針が二転三転しており、最終的に独伊以外全ての国を敵に回す結果となったことはご存知のとおりですね。 第3に、天皇が統帥権を、内閣が行政権をもつという特殊な支配体制が、内閣の十全な機能発揮を大きく阻害したということが言えるでしょう。代表的なものは、有名な「統帥権干犯問題」ですが、この他にも犬養~近衛あたりの諸内閣は状況の打開を模索する中で、統帥権の問題で随分と苦しめられています。 #2の方も書かれたように、日本の戦時体制がファシズムかどうかという点には疑問が残ります。辞書によれば「極右政党,軍部,官僚中の反動分子らによる政治独裁を目指し,自由主義,社会主義を排撃し,全体主義,軍国主義,ナショナリズムの高唱などを特色とする。」とあります。 日本の場合、大政翼賛会は一党独裁的な政治組織というよりは、官僚支配を徹底するための行政組織といった色彩が濃いですし、軍部独裁であったとはいえ、軍部の特定人物が絶対権力を長期間にわたり掌握したということもありません。何よりも天皇制を精神的支柱とした上からの再編であったという点で、独伊とは決定的に異なります。そういう意味で、「日本ファシズム」「天皇制ファシズム」などと呼ばれ、区別されます。 ちなみに#1のかたへ補足です。 近衛は公家出身で、軍人ではありません。 犬養の後継となった斎藤以降、小磯国昭までの間は軍人出身者が多いですが、その中で近衛・平沼は非軍人です。 犬養の暗殺は5.15事件で、2.26時の岡田首相は襲撃は受けたものの生き延びています。 朝鮮の植民地化は少なくとも1911年の日韓併合にまで遡ることができますので、昭和に入ってからのことではありあません。 いささか重箱の隅をつついているようでもありますが、気を悪くなさらないでくださいね m(__)m
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- GratefulDead
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日本のファシズムの形成から確立までは軍閥の歴史でもあります。 旧陸軍は明治の建軍以来、長州出身者が陸軍の主要ポストを占める長州閥が幅を利かせていました。が、1921年10月の「バーデンバーデンの密約」(永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次)以降、隆盛を極めていた長州閥は急速に衰退し、代わりに政治的イデオロギーを同じくする派閥(皇道派←小畑敏四郎、統制派←永田鉄山)が出現することとなります。日本のファシズムを考える場合、軍部がこのような政治的イデオロギーを持つということは重要な意味を持っています。 当時、欧米諸国では既に軍隊の文民統制は一般的でしたが、日本の場合は「統帥権の独立」が認められていました。「統帥権の独立」とは、政府と軍部が天皇の元に「並列」の関係で、軍部の行動に政府が口出しすることは出来ないことであり、このような政治システムの元に軍部が政治的な意思を持ち始めるということは、いわば国内に2つの政府が存在することを意味しています。 やがて軍部はその政治的意思を押し通すために、武力を背景としたテロリズム(3月事件、10月事件、満州事変、226事件、515事件)を多発させることで、やがて政府を飲み込んでいき、その結果に出来たものが日本のファシズムといえます。 日本のファシズムが憲法のシステム上の問題点から発生しているという点が、独伊のファシズムとの違いといえましょう。
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- mai9999
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みなさんのご意見と同じと思いますが、政治の無責任体制が日本の特徴だと思います。 もう一つ、日本には天皇という現人神がいるファシズムであり、ドイツなどは、天皇がいないため?絶対的権威者としてヒットラーが存在したのかもです。 日本的ファシズムについては、丸山真男先生の現代政治の思想と行動(未来社)を参照されたらいいかと思います。とってもいい本です。読み応えありすぎですけど(笑)
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- teinen
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ひとつ挙げるとすれば,ドイツ・ファシズム政権のヒトラーも,イタリア・ファシズム政権のムッソリーニも共に政党政治家であったという所が,軍人によるものであった日本のファシズム政権との違いでしょう。
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- been
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軍部独裁色が最も強く見える東条内閣にスポットを当ててみます。 陸軍大将東条英機は、内閣総理大臣・陸軍大臣・参謀総長を兼務して戦争指導に任じました。首相(行政)、陸軍大臣(軍政)、参謀総長(軍令)を一手に握ったのですから、最強の軍人政治家=独裁者だったように見えます。しかし、実態はそうではありません。 当時(今も?)、わが国の政治は無責任体制にあったと思います。大日本帝国は立憲君主国ですから、立法は帝国議会、行政は内閣、軍令(統帥)は参謀本部(陸軍)・軍令部(海軍)などの諸機関に補佐させるとしても、国政の最終責任は天皇にあるはずです。しかし、実質的な国政運営は補佐機関が行い、天皇は、大抵の場合は報告を受けて頷くだけの存在でした。各補佐機関は、天皇に対する言い訳(報告)さえ成り立てば、あとは勝手に動いていたと思われます。例えば、国家の発展方向という最も基本的な国家戦略でさえ、陸軍(大陸指向)と海軍(太平洋志向)の方針はバラバラです。 平時はこれでも大きな支障はありませんでしたが、戦争となれば話しは別です。 統一した方針に基づいて全国力を傾注する必要がある総力戦であるにもかかわらず、内閣と軍部、陸軍と海軍の方針はバラバラ、本来これを束ねるべき天皇は実質的には飾り物、これでは戦争になりません。 この苦境を「人事」という小手先の技術で解決しようとしたのが東条内閣です。行政と軍政と軍令を一人の人間に委ねれば、一つの方針に基づいて政治と軍事が動くというわけです。軍人が独裁政治をするために主要なポストを独占したのではなく、戦争の遂行という目先の「仕事」を何とかやり遂げるために主要なポストを一人の人間に委ねたのです。これが軍事独裁といえるでしょうか? 「決定は一人の人間がする」というのはヒトラーの言葉です。ヒトラーは独裁者でした。ムッソリーニも然り。しかし、他の回答者も言うとおり、戦争当時、わが国には独裁者が存在しませんでした。それどころか、独裁の前提となるべき一貫した国家戦略さえありませんでした。特に陸・海軍の対立は根深く、「陸・海軍あい戦い、余力をもって米英にあたる」とまで言われたほどです。無責任、これが独・伊と比較したわが国の特徴でしょう。日本ファシズムという言葉には、実質的な内容がありません。 蛇足ですが、戦時下の天皇が国家戦略の大方針を決定したことが少なくとも一度だけありました。ポツダム宣言受け入れの聖断です。無能な政治家・軍人は、天皇の御前で国の将来を決する大問題について議論したものの責任ある結論を出せず、結局、国政の最終責任者である天皇に問題を丸投げしてしまったのです。
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- uso888
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>昭和戦前期を日本のファシズムからの視点でまとめると、その形成から確立までにどのようなとくちょうがあるのでしょうか? 特徴としては、金融恐慌とデフレ政策によって農村が疲弊したこと、勃興したばかりのブルジョア階級への怨嗟がバネになっていること、そして何より絶対天皇制への回帰を訴求していることが挙げられます。また、下克上的風潮で統制の効かなくなった軍部がこれを助長しています。 >あとドイツ・イタリアと比較するとどのような特徴があるのでしょうか? いずれも遅れて来た資本主義国ですし、米英仏中心のベルサイユ体制に反発している点では共通しています。 しかし、ドイツはナチス、イタリアはファシスト党という責任主体が明確であったのに対して、日本はもともと大日本帝国が、内閣、議会、政党、軍部、重臣のいずれも天皇に単独で責任を負う体制ではなかったために、ファシズムに染まって行った責任がどこにあるのか、いまひとつ判然としません。 一億総懺悔という発想が出てくる日本的風土が、天皇制ファシズムの根本的な特徴でしょう。
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- SCNK
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日本がファシズムであるということ自体、疑問ですね。 というのは、確かに国家総動員法が昭和13年に施行され、統制経済化しますが、多かれ少なかれ戦時中の国家は統制経済をやるものです。それを言うなら米英もファシズムになってしまいます。 政治的には、大政翼賛会ができるのは昭和15年です。ナチスやファッショ党のような強力な政権があるわけではありません。 せいぜい言えることは軍部を中心とした政権ができたことぐらいでしょう。しかし決して軍事独裁政権ではありません。それが証拠に近衛内閣なんかもあります。 世界に軍事政権の国家は沢山ありますけども、大概はクーデターにより政権を掌握してます。しかし日本では確かに5.15や2.26のような事件がありましたが、それ自体が政権掌握につながっていません。 むしろ陸軍内部の皇道派と統制派の対立です。かえってこれを鎮圧したことにより統制派が実権を握ります。 しかしだからと言って、陸軍統制派が全権力を掌握したわけではありません。言うまでもなく日本は天皇を頂点としていますが、天皇自身は立憲君主を主張して、政治に口出ししません。せいぜい御前会議で御下問があるだけです。 政府と陸軍、参謀本部と陸軍省、参謀本部と関東軍、陸軍と海軍、軍令部と連合艦隊、これらが個々に思想の統一もなく戦争遂行を、勝手にやって収集がつかなくなったというのが本当の所でしょう。 ほかの国を見るとどうでしょう。独伊はヒトラーやムッソリーニによる独裁体制です。ソ連もスターリンが絶対的な権力をもっていました。米国ですらルーズベルトが多くの特権をもって戦争指導をしてます。これと比べると誰が実力者が訳がわかりません。国府軍と共産軍が対立しつつも国共合作で手を握っていた支那にむしろ近いくらいです。
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- jyadoh
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当方、歴史家でもなければ社会科の先生でも無いので、あくまでも習った範囲で答えさせてもらいます。 まず、大正時代に入った頃は原敬首相を初め、民主化運動が起こり始めました。俗に言う大正デモクラシーです。しかし、犬養毅内閣の時、軍部が台頭し始め首相等が暗殺される事件(2.26事件)が起こり、この辺りから軍人による内閣が形成されました(近衛内閣から東條内閣)。 その後アジアを五国共存化させる大東亜共栄圏の看板をかかげ、中国、朝鮮を植民地化して行き、さらには海の向こう大国アメリカにはで喧嘩をふっかけて太平洋戦争へと発展して行きました。ドイツもポーランド侵攻によるドイツ帝国形成へと進んで行った点では同じかと思われます。ご承知のとおりアメリカ率いる連合軍にコテンパンにやられて現在に至るわけですが。
お礼
とても勉強になりました。 ありがとうございました。
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