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善人と善意とはどのようなことなのでしょうか?
私が考えるところの『善意』とは、ボランティア精神見返りを求めない気持ちなんですが・・・・最近考えさせられることがありまして、どうも『善意』とはそのようなものでない気運がかんじられるのです。 皆さんのお考えになられている『善意』とは、どのようなものなのでしょうか? もしお時間がございましたらお聞かせいただけませんでしょうか? あと、『善人』そうですね、『善意』なお気持ちを持っておられる方のされる行為や言動、すばらしいですね、人のために無償?でおこなえることはそんなことができるひとを善人とでも呼ぶんでしょうね。そうなんです、『善意』これまで私が考えてきたものとなんかちがう『善意』が存在するようなのでこんな質問をあげてご教授していただければと思いました。善意のかたちがもしかわっているのなら、善人と呼ばれるひともなんだか実は悪人だったりするのではなかろうかと考える次第です。 善意は無償なものと考える私の固定観念のようなものを立ち止まって考え直す意味でもお力をお貸しいただければありがたく思う次第です。
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- north073
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私のフィールドは主に「法律」なのですが、民法などで「善意」といえば「知らなかった」ということとほぼ同意になります。BさんがAさんの土地を正当な権原なくCさんに売った場合、Cさんがその土地をAさんの土地だと知らなければCさんは「善意者」と呼ばれます。 どうしてCさんのような人が法律では「善意」と呼ばれるようになったのか、正しいところは知らないのですが、私の想像(妄想?)では、ひょっとしたら「悪いこととは知らずに…」というのが「善意」だったのではないか、と思うのです。つまり、主観的なものですよね。「いやあ、私はいいと思ってやったのだけど」と。だから、法律の「善意」は、他人に迷惑をかけないことは前提としていないのです。 こういう殺伐とした世界でものを考えていると、いわゆる「善意」というのはひとりの世界にあるものであって、ふたり以上の世界では言葉だけになってしまうのではないかなあ、少なくとも期待したり見せつけたりするものではないだろう、と思うのです。「善人」というのは「善意」を持っている人というより「善い行い」をしている人だと思いますし、他人の「善意」というのも「善い行い」を通じて他人が推測するしかないものではないだろうか、とも思ったりして。 つまり、ひとりの世界の「善意」は、ふたり以上の世界では他の人にとって必ずしも「善意」と評価されるとは限らない、「迷惑」かもしれないし、「害悪」かもしれないのではないでしょうか。 それとも、ボランティアなどでいうところの「善意」というのは、ひょっとすると一つの社会的な暗黙の約束事につけられた名前なのかもしれません。 無償であることを行うことには、必ず高い社会的評価が与えられるのだ、という条件による約束事です。まあ、高い社会的評価を与えられないまでも、悪い評価になることはない、という約束かな。 だから、よく目にするのは、「善意でやったのに、なぜだめだというんだ!」という人々。 この場合、ひとりの世界では、それはきちんとした「善意」なのでしょう。ふたり以上の世界では、それは「低くない評価」との交換条件として認識されているのではないでしょうか。 ひとりの世界では「打算」であって、「評価」の交換条件を対外的に「善意」と言い換えているだけに過ぎないのかもしれませんけどね。 だから、その人の想いとは違って、本人の知らないところで、または、死んだ後で「ああ、あの人は「善意」の人だった」と言われるものこそが、ふたり以上の世界、つまり社会で通用する「善意」なのだと思います。 まとまりのない内容ですみません。littlekissさんのお考えも機会を見てお教えいただけるとうれしいです。 蛇足:littlekissさんの書き込みはじめ哲学カテゴリのみなさんの投稿楽しみに読んでいます。めげずに書き込み続けてくださいね。
- shibako74
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よく外国人の方に日本人は無意識のうちに善意を見せているという意味の ことを言われます。例えばごみを拾うとかそういう行為はふっと考える ことなくやってしまう人と、意識してやる人がいると思います。 私には無意識に善行を行う、という意識はだれしもあると思うのですが、 アメリカの哲学のクラスではどのような行為も自己満足のためにやる、と いうことを言っていました。ボランティアもやったら気分がいい、とか さまざまな理由でやるのかもしれないけど、結局自分が気分がいいからとの こと。ちょっとさみしい意見ですが、物質主義、個人主義の発想という感じ しますよね。ま、参考です。
お礼
ご意見参考にさせていただきます。ありがとうございます。
- PEPSI
- ベストアンサー率23% (441/1845)
僕のまわりの善人に限っていえば 善人といわれる人は「自分が善行をしている」とは意識していません。 「善いこと」をしようとして善行をするのでなく、 ごく自然なこととして善行をします。 意識して善行をする人と自然に善行をする人と どちらが偉いなんてことはありません。意識して善行をする人も偉いです。 例えば女子高生の間で去年はやった「善行を積み重ねて天国へ行く手帳」なんかは 下心のある善行かもしれませんがそれはそれでいいんじゃないかな。 「善いこと」「悪いこと」が「かっこいいこと」「かっこわるいこと」にそのままつながれば 世の中はもっと善人が増えるんだろうけれど。 「悪いやつ」がカッコ良かったりするからねえ。 「善悪」の基準も人それぞれだからね。 人に「偽善」といわれても自分の「正義」が正しいと思うならそれは「善行」だと思いますよ。
お礼
無意識的でも意識的でもよい行為につながれば、『all ok!』結果よければすべてよし!ってことなのかなぁ~?自己満足が自分の内だけでのものならそれはそれでいいんじゃないかともおもいます。しかし、この自己満足が自己の内に留まっているものならいま私が疑問に感じるようなこともないのでしょ-。自己の範囲を飛び越えて他者に何かを強いたり要求することにつながっていくことへ疑問にかんじています。無意識的「そんなつもりはない」これは、あるいみ自問自答でもあります。他者を考えると同時にそっくりそのまま自分にその言葉が投げ返されます。
善意=ボランティア精神で私はいいと思いますが・・・ ところでどんな人間にも善意も悪意も有ると思います。 わたしは理性では善意的に生きようと思っていますが、 だいたいにおいて私は気分のいいときは善意に満ちていて、 (他人にも幸せを分けたい、自分が幸せなので多少傷ついても気にならない) 気分の悪いときには悪意に満ちていると思います。 (他人にも不幸を分けたい、ちょっとしたことが気に障る) では、自分の機嫌の悪いときでも人にやさしくできるのが真の善人? しかしそれは「理性的」とどう違うのか・・・? そんなところが今の私の考えです。 変な解答ですみません。
お礼
お返事するのに一日経ってしまいました。質問をあげたもののなかなか時間がとれなくてやっと、いま少しここを覗ける時間が持てました。 わたしも、人の内面には天使(良い面)と悪魔(よくない面)がともに棲んでいると思っていますし、もっとちがったまだ気づいてはいない面もたくさんもちあわせているにちがいないとおもっています。不思議なことにある問題が持ち上がるとこころのなかにいろんな思いが存在するはずなのに・・・気になる事柄に反応したある一個のこころの一面が強く前面に押し現れてきます。そうすると、他にも持ち合わせているであろうこころの多面な部分を覆いかぶせてしまい見せない・見ない・気づかない・わすれてしまうといったこころのマジックに陥ってしまいます。ちょうどいまが、そんな心境になっています。そう、私の中にも天使と悪魔は棲んでいます。
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お礼
削除に関していただいた管理者よりのメ-ルに記載されていた言葉がひっかかっています。それと、サイトの中で管理者が会員へ向けた言葉にもひっかかっています。それがあいまって、頭の中でこんがらがっているといったのが、この質問をあげた理由です。こんがらがった頭を整理するには、なにかきいてみたらちょっとはほぐれるかなぁ~と。。。。 ル-ル改正を近々されるそうです。 *質問者が頂いた回答を否定することを禁止します。仮に期待とは違う回答が来たとしても回答者の善意を否定することは認めません。感謝する気持ちで対応してください。回答があまりにも勘違いであるならばコメントは避けてください。 との一文に引っかかっちゃいました。 また、おりにふれ数々の場面でここは、善意で成り立っているサイトであると、おっしゃられています。質問者は回答者に対して感謝の気持ちを忘れないで下さい。と、おっしゃられます。また、ある場面では、締め切っていない質問への促進メ-ルを導入したいと考えています。締め切り忘れている方や機能を理解していない方を中心に締め切り忘れが相当減ってくると思います。 『回答があまりに勘違いであるならば、コメントは避けてください?』 もし、自分の考えていることをとんでもなく違う方向に解釈されて話を持っていかれた場合、『コメントを避ける=何もいわない?』もし、その勘違いした方へ訂正の意思表示をしないでいたらそのまま思わぬ方向へ話が(私の疑問点)すりかわってしまうことだって十分に考えられますよね。私は小説の中の主人公ではありません。ちゃんとこころをもっています。文字のやりとりですが、もらった言葉に喜んだり傷ついたりします。ネットの中ですが人格はあります。自分の意思は相手にちゃんと伝えたいです。 善意で成り立っているサイト・・・・よくよくここを眺めていると回答したのに返事もしない、ポイントもつけない、さまざまな想いをこめておっしゃられているなぁ~と・・・返事もこないといわれる方の中には、わたしの回答が役に立ったんだろうか?その有無が気になる。質問者が困っていたそのことが気になる。オレがせっかく回答してやったのに・・・。それは、さまざまな想いからお礼文がないことへの不満として現れています。回答することが、自己の満足の内にとどまっているぶんにはそんなふうにおもうこともあるんだ。と、しかし、それはよくないんじゃないか-と言い始めているのをみていると見返りを欲しているように感じます。私の考えている『善意』とは別物にみえてきました。ポイント制を設置することで、確かに回答意欲を沸き立たせる方も中にはいらっしゃることでしょうし、アクセス数の増加にもつながることでしょう-。逆にポイント制があるばかりに相手に自己の内にとどまる自己満足ではなしに自己を飛び越え相手に何かを要求する気持ちやねたみといった感情を植え付けているようにさえ感じます。サイトが高らかに謳いあげている『善意』にとても不信に感じていました。どうせなら、私利私欲で成り立っているサイトですとでも提言してもらえれば・・・・いくらかこんなにも悩まずにすみます。 『善意』が自己を飛び越えて相手になにか要求することにつながった場合も『善意』なのでしょうか?型を作ってしまう・・・・型にはめる必要があるのか・・・・疑問です?補足要求でクリックしたつもりがお礼の方を間違ってクリックしました。お時間があれば、もう少し聞かせてください。