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家康の行為は武士道精神に反しないのですか?

家康は約束を破って、大坂城の内堀まで埋めてしまいましたが、 武士道精神に反するのではないのですか? 江戸時代、批判する人はいなかったのですか。

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  • Streseman
  • ベストアンサー率24% (131/542)
回答No.5

>>そもそも約束した相手が違う この部分が解からないのですが。 家康と淀の間の約束ではないのですか? 違います。そもそも淀殿は和議の経緯において署名認証をそもそもしてませんし、 家康は裏方で徳川は、秀忠が大阪の陣の総責任者 約束は、秀頼・秀忠 の署名。 家泰が反故にしても問題はない そもそも 約束した内容も、内堀については埋める予定 ”堀を埋める”という和議で内堀は埋めないなんて約束はない 後世の豊臣方の言い訳であり、醜態であろう

Mutu100
質問者

お礼

もう小学生の頃から、家康は外堀だけを埋める約束を破って内堀まで埋めてしまった、と思っていました。 そう本に書いてありましたから。

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その他の回答 (7)

  • toshineko
  • ベストアンサー率44% (258/575)
回答No.8

「家康の行為は武士道に反するか」 江戸時代後期から明治に掛けての武士道精神から言えば、義に反する行為といえるでしょう。 臣下においても、主君が義に反する行為を行ったのですから、あくまでも主君の非を説き、 その言が入れられないときは、己の血をもって誠を示さなければならないはずです。 しかし家康も、その臣下も、豊臣恩顧の諸将でさえも誰も非を責めていません。 つまりその当時は武士道なんてものはなかったのです。 当時の武士の考え方としての常識は、おおよそこの言葉で集約されるかもしれません。 「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本である」 (朝倉宗滴話記より)

参考URL:
http://www.meigen100.com/source/1811280733/1.php
Mutu100
質問者

お礼

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  • blackhill
  • ベストアンサー率35% (585/1658)
回答No.7

 武士道と町人道を比べて、ネットの時代には町人道が必要だと論じた興味深い指摘があります。 http://agora-web.jp/archives/770161.html  さて、武士道では、お家のためなら嘘をついても構わない。今でも、会社のために法を犯すサラリーマンは少なくありません。敵将を欺いても、主家が勝てば武士道は保てます。  同様に、上官が命令すれば、捕虜を斬首するのが武士道でした。騎士道には神の掟がありますが、主君に絶対忠誠の武士道では、上官の命令に背くことは許されませんでした。

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  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.6

豊臣方はそもそも内堀の埋め立てを承知して和睦しています。(渡邊大門『大坂落城』角川選書、2012年) よって約束を破っていませんので、江戸時代に浸透した忠義を重んじる武士道にも反することはありません。

Mutu100
質問者

お礼

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  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.4

家康の時代では、まだ武士道は確立されていません。まだ当時は武士は卑怯と罵られても、どんな手段を使っても勝たなければならないという思想もありました。 武士道は江戸時代に確立されたものです。徳川家康が徳川幕府を発足させ戦国時代を終わらせて合戦のない平和な世の中を構築すると、そもそも武士とは何ぞや?武士はどこが町民・百姓と違うのか?どうして武士だけが特権を握っていばっていられるのか?そういう疑問が次々に生まれます。武士の家で、子供を後継者として育てる為に武士の定義が必要になったのです。戦国時代じゃないから、戦場で手柄を立てて一人前という教育が不可能になったからです。どうやって人材を育成し、子供に武士という自覚と意識を持たせればいいのか。何を目標として子供を育てればいいのか。江戸時代になって生じた、そういう問題を解決する為に武士道が理論的に整備されたのです。戦がないのに、戦う人という武士の定義は意味を持たないからです。 家康本人が武士道を構築したわけではないが、家康が築いた江戸時代によって武士道が構築されることになった。そういう比類の無い功績を挙げた家康を批判することが武士道の目的であるわけがありません。

Mutu100
質問者

お礼

宮本武蔵も、わざと時間に遅れる作戦を取って勝ってしまいましたからね(吉川英治の小説によると)。 あの時代は別に倫理に反することではなかったのでしょうね。

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  • Streseman
  • ベストアンサー率24% (131/542)
回答No.3

武士道精神は時代によって変わります おおよそ現代人が周知している武士道は,武士の存在しない時代の武士道であって,戦国時代の武士道とは異なります 本件に関しては,義理人情の部分から批判する見解はあるようですが,そもそも約束した相手が違うことなどで約束違反ということは無理と言えるでしょう したがって,むしろ批判する方が稀でしょう

Mutu100
質問者

補足

>>そもそも約束した相手が違う この部分が解からないのですが。 家康と淀の間の約束ではないのですか?

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  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7995/21384)
回答No.2

その頃「武士道」はありません。戦国ですから勝ちゃいいんです。 「武士道」は、江戸時代やることが無くなった武士が、身を律する ために始まった思想でして、武士道のベースになってると言われる 「甲陽軍鑑」ですらまだ一般に流布していません。体系的になった のは江戸期の「山鹿素行」以降、それこそ1700年代初頭の「葉隠」 を待たないといけませんし、一般化されたのはそれこそ明治期の 「新渡戸稲造:武士道」以降です。 ですので、大坂城内堀の埋め立てを怒るのは、豊臣家と明治期 以降の関西人だけ。当時は「戦略の一つ」として十分あり得ると 評価されていたはずです。つか、そうなる危険を真田幸村などは ちゃんと進言していたらしいですし・・・。

Mutu100
質問者

お礼

浅井長政も信長との約束を破り、光秀だって主君を殺したわけですからね。 新渡戸稲造の「武士道」は当てはまりませんよね。

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  • ramuza01
  • ベストアンサー率40% (2/5)
回答No.1

勝てば官軍なのでしょうね。 家康のやったことは、人道的にもひどいと思いますが、その後の江戸400年の長きにわたって、平和を築いてきたので間違いではなかったと思うしか無いですね。 頼朝に情けをかけて殺さなかった平家の例もありますし。

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