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日本人の「正義論」

西洋において、アリストテレスやカント、ロールズなどが「道徳的正義」について論じていますが、 古代から現代までの思想史において、日本特有の「正義」観は存在するのでしょうか。 それについて述べられている文献があれば、是非お教え頂きたいです。 (哲学に限らず、社会学、宗教学、文学などジャンルは問いません) どうぞ、よろしくお願いします。

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回答No.1

良くは分かりませんが、日本で代表的といえば 西田幾多郎「善の研究」を外せないでしょうね。。。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6

qg_ec44
質問者

お礼

ご紹介ありがとうございます。 是非、参考にさせて頂きます。

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回答No.9

No.1,4です。 「正義」という概念とは少し異なるかも知れませんが、哲学的な思想に基づいて社会的な行動を起こした人は、何人かおられるようです。ある意味、自身の思うところの「正義」に根ざしておられると思います。 柄谷行人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%84%E8%B0%B7%E8%A1%8C%E4%BA%BA >>> 「国家」「資本」「ネーション」とは区別されるものとして、近年では「アソシエーション」という言葉を強調している。それにもとづき、2000年6月にはNAM(New Associationist Movement)を立ち上げる(2003年1月解散)。 <<< 西條剛央 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%A2%9D%E5%89%9B%E5%A4%AE http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9 --- 構造構成主義に基づく支援活動

qg_ec44
質問者

お礼

続けて回答ありがとうございます。 リンク先、参照させて頂きます。

回答No.8

 ★(No.3お礼欄) ちなみに、アインシュタインの式は、上図においてどのような意味合いを持つのでしょうか。  ☆ すみません。わざと当てはめてみただけです。  ただし意味としては 《かみ》の次元におけるオホモノヌシとヒトコトヌシとが――モノがコトであるからには―― ふたつに分かれているのではなく 一体であり ほかのカミガミをもふくめて ひとつの(つまり世界全体として一つの)カミであると言いたいためです。  そして《ただしさ》の観想としては 例の《もののあはれを知る》というワケの分かったような分からないような世界観もあります。  そこから《かんながらの道》がみちびかれています。これも  ★ 自然に従うこと。  ☆ というような内容ですが。

qg_ec44
質問者

お礼

更なるご意見ありがとうございます。

回答No.7

水戸黄門の印籠が日本の正義 悪人も善人もあの印籠にひれ伏す いかえ おろ~~ このいんろうが めにはいらぬかぁ~~

qg_ec44
質問者

お礼

権威の強いもの、つまりお上が正義、ですかね。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.6

正義、というのは極めてキリスト教的なものです。 キリスト教では、何が正しい、悪い、ということは神が決めます。 それで神の定める正しさ、とは何だろうとの 考察が進んだ訳です。 このように正義というのは、彼らに取っては普遍的 なモノです。 唯一神が定めたのですから、場所と時によってその 内容が変わる訳にはいきません。 それで、普遍的な正義とは何ぞや、どう定義したら よいのだろうか、ということで正義論が盛んになった 訳です。 ”日本特有の「正義」観は存在するのでしょうか”      ↑ そういう訳で、日本には正義論てのはありません。 日本は多神教ですから、そもそも普遍的な概念を 構築する、という発想には乏しいのです。 これが日本にキリスト教が根付かなかった原因の 一つでもあります。 イエズス会との問答。 「神だ悪魔だ、善だ悪だというが、善悪など時代や  立ち位置によって変わるものではないのか」 しかし、日本にも、欧米の善悪に相当する概念は あります。 それは社会的なものと個人的なものとに別れます。 1,社会的なもの  日本でキリストの神に相当するものは世間です。  世間に対して申し訳ない、というあの世間です。  世間こそが日本の正義と言ってもよいかも  しれません。 2,個人的なもの  それは美しさです。  正しいか、悪いか、というよりも、果たしてこの言動は  美しいか否かで物事を判断してきた節があります。  仲間を裏切るのは美しくない。  弱いモノをいじめるのは美しくない。  ということです。  武士支配が700年続いた日本では、これは士道と  いうような形で顕れています。  命に執着するのは美しくない、ということです。  

qg_ec44
質問者

お礼

貴重なご意見ありがとうございます。 では西洋の正義論を、日本的思想のもと、新たに再構築した先人もいないのでしょうか。 また、何故「仲間を裏切る」「弱いモノをいじめる」「命に執着する」ことは“ 美しくない”のか。 その“美”の基準はどこにあるのか。という疑問があります。 これも所謂、各時代の「世間」が判断するものなのでしょうか。

回答No.5

 No.3です。  その仮説にもとづくなら やはりあくまでも個人にとっての《ただしさ》が 日本人にあっても基礎であり基本となっていると考えます。  というのも 弥生人になって稲作が始まりましたが そのときにムラの共同自治を大事にし 農作業に人びととの協力や協調性を大事にするという《集団志向》が培われたのは むろん 個人にとってのただしさの問題であるからです。  ところがこのムラムラの共同自治体制は やがてこれらを束ねて国家としての経営にゆだねようというウゴキが出てとうとう社会が市民たちの一階とそして公民らの二階とに分かれて構成されたときには 何ごともまづはお二階さんのみことのりに従うことを余儀なくされました。  ここでムラの市民たちのヨコの(仲間うちの)集団志向としての《和》は 二階とのタテのつながりにおいてその二階に逆らわないという意味での《大和》の体制に移行しましたが そこでは ムラムラの和は 国家の大和に《くにゆづり》をしました。その後は いわゆるクウキによるゆるやかな締めつけとして言わずと知れた《集団主義》が 採られこれが優勢となって行きました。  けれどもこの集団クウキ主義が まさか日本人の《正義》観の基本であるとは 誰も思っていないでしょう。  ただそれが ほとんと無効のうちに社会力学上優勢となって支配しているというに過ぎない。こんな当たり前の事態について どうしていつまで知ろうとせず そのマチガイ史観に振り回されるのでしょう。

qg_ec44
質問者

お礼

貴重なご意見ありがとうございます。 「集団思考」と「集団主義」ですか。 確かに、“ 空気を読む”ということは、ある場面ではマナーとして求められますが、 必ずしも正義には結びつかないですね。先日、話題となっていた「いじめ問題」も、そんな集団主義がもたらした悲劇なのかもしれません。

回答No.4

No.1です 基本的にNo.2の方と同意見です。 そういった意味で、和辻哲郎氏を外せないでしょう(特に「風土」) http://www.amazon.co.jp/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E2%80%95%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%AD%A6%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%92%8C%E8%BE%BB-%E5%93%B2%E9%83%8E/dp/4003314425 和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 熊野純彦著 (新赤版1206) http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0909/sin_k491.html

qg_ec44
質問者

お礼

ご紹介ありがとうございます。 是非、参考にさせて頂きます。

回答No.3

 こんばんは。  思想史の一端をかかげます。  ヒトコトヌシ(一言主)のカミが カミでありつつ現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたというそのくだりが古事記にあります。  そのとき一言主の神は こう名乗ったと言います。     《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言     言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》                      (古事記)    ほかにオホモノヌシのカミもいます。そこで カミとヒトおよびモノとコトの・世界における位置づけを見ることが出来ます。  ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓        ↓            ↓  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  * この範式において 次の図式も得られます。  モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木  日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえばこんな神学ないし世界観になろうかと考えます。この自然の摂理にしたがうことが ただしいことになると思想したのだと思います。ただし それ以上の理論は 明らかなかたちで述べられているのではないかも分かりません。

qg_ec44
質問者

お礼

自然に従うこと。 これが古代における正義だったというご意見ですね。 ちなみに、アインシュタインの式は、上図においてどのような意味合いを持つのでしょうか。

回答No.2

日本人の「正しさ」は、ロジカルなものではなく、「周りの人と同じ行動をとる」という集団主義であり、ゆえに日本にドグマティックな一神教は根付かず、また独創的な哲学者は生まれなかったのだ。

qg_ec44
質問者

お礼

素朴な疑問なのですが、 『「周りの人と同じ行動をとる」ことが正しいのだ』 という世間の風潮に、意義を唱えた人々はいなかったのでしょうか。 それとも、私のこのような疑問は、現代の西洋的価値観に触れてきたからこそ、生じるものなのでしょうか。

qg_ec44
質問者

補足

×意義 → ○異議

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