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前田利家と前田慶次郎
どちらも槍の名手ですが どちらが槍使いに長けていたのでしょうか? 義理の叔父と甥の関係で血縁関係は無かったので両者の槍の上手さはたまたま偶然だったと思いますが 利家は 槍の又佐とか 堤の上の槍 と呼ばれたほどの名手だし 慶次郎もそのかぶき者ぶりと槍裁きに秀吉が惚れて100万石で家臣にしようとした程です 甲乙つけがたいとは思いますが どちらがすぐれていたのか教えてください
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前田利家は赤母衣衆として働き実際に槍により武功をあげたわけですが、慶次郎利益の武功は関ヶ原時であり60前後ですよね?それ以前も前田家の一員として当然戦場に出たわけですが、ほとんど個人としての記録はないわけで、戦場で実際に槍を振るって強かったと我々が判断するのは無理があります。 おそらく歌舞伎者として、演武のごとく人前で槍を振り回すのは強かったが戦場でとなると人並みだったのではないでしょうか? ただし武将としては没落後の上杉家でも厚遇で召し抱えられたのですから、かなりのものだったのでしょう。
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本多平八郎は忠勝の事ですか?
お礼
はい 平八郎は忠勝ですよ かれの槍が蜻蛉切ですから
あれ? 間違っていました? すみません_(._.)_
お礼
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こんにちは。 juntsuboiでございます。 私の記憶が確かなら前田利家は『蜻蛉切』という 朱色の名槍を信長から受領しているはずです。 前田慶次郎の槍は全てが金属製で、突く・切るだけでなく 殴り殺す事が出来たそうです。 身長六尺三寸の慶次郎ではないと扱えないでしょうね。
お礼
蜻蛉切は本多平八郎の槍ではないですか?
度々juntsuboiでございます。 確かに滝川一益の甥っ子です。 滝川一益は織田信長が安土城を拠点とし、家督も岐阜城にいる 信忠に譲っていて、信長は一益の事を 「父と思え」と言ったそうですが、 滝川一族の資料は残っているのに、滝川一族出身の なぜ前田慶次郎の資料は少ないのでしょう? 不思議ですね。 前田家から出奔したのがいけなかったのですかね?
お礼
出奔も何も母が再婚したとき慶次郎は まだがきんちょでしたからね 前田家の人間として扱われているので滝川家に資料が少ないのでは?
再びjuntsuboiでございます。 前田慶次郎の身長は六尺三寸(190cm)と高く、 忍者には不向きだったのでしょう。 ですから前田利久の養子になった可能性は高いですね。
お礼
前田利久が再婚したので養子になりました 妻の連れ子ですから ちなみに慶次郎は滝川一益の甥です
追伸です。 豊臣秀吉が家臣にしたがったのは、秀吉が 「歌舞伎者を見たい」と所望し、慶次郎が髷を斜めに結い、 お辞儀をする時は顔を横に背けていて、 『髷は正面だけど本当はそっぽ向いているんだよ』という意味でした。 そして秀吉は「大義であった(帰ってよしという意味)」と言い、 慶次郎は帰ります。 秀吉は慶次郎に褒美を与える事を忘れてもう一度呼びます。 その時に慶次郎は正装し「歌舞伎者には用が無いと仰ったので」と 言い、その言動に秀吉は惚れ慶次郎を家臣にしたくなったのです。 槍さばきに惚れ込むのはその後です。 しかしこれも眉唾。 実際に戦っている慶次郎を秀吉は目にしていません。 上杉家の佐渡島出兵と朝鮮出兵も秀吉は現地に行っていません。
お礼
派手好きな秀吉らしい考えですね
おはようございます。 慶次郎は火縄銃を得意とする滝川一族の忍の出身ですから 資料が少なくて苦労されていらっしゃるのでは? 残っている資料は上杉家が越後から米沢に移されて、 直江兼続に付いていって隠生したので、 米沢に残っている資料くらいしかないでしょう。
お礼
そうです 元は忍者という説もあります
訂正と追加です。 前田利家は赤母衣衆筆頭。 前田慶次は許可なく勝手に朱槍を持っていました。
お礼
ありがとうございました
補足
勝手に持っていたんですか?
こんばんは。 前田利家の方が上だと思います。 前田利家は赤袰隊筆頭でした。 前田慶次の頃は時代的に戦の少ない時代で、比較が難しいです。 朝鮮出兵や上杉家の佐渡島の出兵したそうですが、 それだけでは判断に困ります。 前田慶次の身長は六尺三寸(190cm)といわれているので、 槍の名手といわれても不思議ではありませんね。
お礼
慶次郎は槍を使えば天下無双と評されていたので 個人的には慶次郎だったのかなと 色々調べるうちに思うようになりました…
- izuhara
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漫画や小説の世界ではなく、あくまでも史料にもとづいた意見として回答します。 前田利家については、前線で戦って武功をあげたことは史料でも裏付けられます。信長の親衛隊の赤母衣衆であったことからも武功が評価されていたことは間違いないでしょう。 では前田慶次はというと、信頼できる史料に書かれた個人の武功と言うものはほとんどありません。史料に書かれているのはどちらかというと軍勢を率いての軍功のようですから、指揮官として優れていたようですが、実際に槍働きが巧みだったかどうかは不明です。優れていたという逸話の典拠を確認すれば、信用できる本かどうかは一目瞭然です。まあ、たかが個人の武功が優れているだけで秀吉が100万石も与えようとするわけがない(有名な賤ヶ岳の七本槍ですら数千石。それも軍勢を率いての武功)ですから、信憑性がないことは典拠を調べるまでもなく明らかですが。 というわけで、実際の槍働きであえて甲乙つけるならば、史料で確認できる利家のほうが優れていたではないでしょうか。
お礼
そうですね 慶次郎はファッション感覚で槍を持っていたのかも知れないです
お礼
慶次郎が上杉家に召抱えられたのは 利久が上杉景勝の接待役をしたときのエピソードがあったからです 信長に斬られそうになった利久を景勝が救ったことに慶次郎は恩を感じていたみたいです それから直江兼続とは親友どうしの付き合いでしたね