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前田利家は一向一揆衆を釜煎りしたか
織田信長の残酷な処刑は有名ですが、人徳の大名として名を馳せた前田利家は 一向一揆衆を釜煎りしたのでしょうか。 また、釜煎りの方法とは、釜茹でののことでしょうか、それとも釜で本当に人間を煎るのでしょうか? 諸兄の知恵を貸して頂きたい。
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武生市小丸山城跡より昭和初期に発見された文字瓦に、「五月廿日一揆起こり、前田又佐衛門殿一揆千人ばかり生け捕りにし、ご成敗は磔、釜いりにした。 この旨一筆書きとめておく。」との内容を当時の文章で彫ってありました。 少なくとも頭分は釜いり(釜茹でのこと)にされた事は確実です。
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いろいろな局面で、間違いのない選択肢をしてきたのですから、「加賀百万石」と、言われる、前田家の礎を築けたのだと思います。 人徳があり、人柄のいいところは、糟糠の妻でもあった、おまつ夫人の行動、言動が証明していると思います。 一向一揆衆に手を焼いていたのは、間違いのないところですから、主だった人を見せしめのような処刑にしたとしても、利家公の名声に傷がつくものではないと思います。 釜入りなのですが、熱湯ではなく、油を使ったのではないでしょうか。 推測ですが。 絶命まで、熱湯より早いところが、人道的?で、見せしめ効果も抜群だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私も釜に油をひいてやった可能性もあるのではないかと思います。
- fathar-m
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加賀の国は、一向一揆が守護富樫氏を滅ぼしてから約100年間、一揆の持ちたる国として存在していました。また信長にとって最大の難敵は、武田信玄でも毛利でもなく本願寺顕如でしょう。利家が信長の命で一向衆徒を残虐に弾圧しても不思議ではありません。 また、利家にしても佐々成政にしても、信長の命により柴田勝家の与力として北陸方面軍に參陣している訳で、勝家と主従関係を結んでいる訳ではないのです。信長がなくなった時点でどちらにつくかは自由ではないでしょうか。 清洲会議では、丹羽長秀、池田恒興等、織田家の主立った武将が、秀吉につきました。人たらし秀吉の面目躍如といったところですが、勝家は織田家をまとめる器量がなかったのではないでしょうか。 最後に、 >豊臣秀吉に非常な信頼を得ていた人物であることが伺える。極端な話、それだけで大大名になった男 天下人に信頼を得ていた訳です。大大名になってもおかしくはないでしょう。
お礼
ご回答ありがとう御座います。 人たらし秀吉でも、天下人になる技量をもっていたことを一番知っているのが当時の諸将でしょうから、「水が低きに流れる如く」自然の情勢だったのでしょう。
- buchi-dog
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「佐々成政はこの戦いで傍観を決め込んでいた」 賤ヶ嶽の合戦の時期、佐々成政は秀吉と同盟関係にある上杉景勝に備えるために越中に残っていたと理解しています。北陸の地形上、越中を守っていれば後顧の憂いはなく、柴田陣営の戦力を全て対秀吉戦に投入できます。「佐々が柴田の出兵要請を拒み、越中で独立勢力となっていた」ことを示す史料があるのでしょうか? 利家と秀吉の家族ぐるみでの「竹馬の友」関係ですが、後世に創作された部分も大きいのではと推測しております。こちらは個人的な推測だけですが。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。
補足
佐々成政が上杉景勝に備える為に越中に残っていた事はご指摘の通りです。ただここで事実として指摘できる事は、柴田勝家の窮地にもかかわらず、先のような状況の下なので傍観せざる得なかったという意味だけです。その当時の佐々成政の判断でしょうから・・・。 「幼友達」の件は、ある歴史家の指摘です。
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
前田利家という人を客観的に見ると 1. 織田家の家臣としては平凡な経歴。柴田勝家の組下。 2. 柴田勝家の下で能登を任される。明智光秀と細川藤孝の関係に類似。 3. 賤ヶ嶽の合戦で柴田を裏切り、柴田敗戦の決定的要因を作る。関ヶ原の合戦での小早川秀秋の役割に類似。 4. 羽柴軍に属した後は、元の同僚である越中の佐々成政攻撃の先鋒となる。(戦国時代の慣例で、降伏したものはそれまでの敵に対する先鋒となる) 5. 秀吉に引き立てられ、加賀・能登・越中の大大名となる。諸大名のうちで頭一つ抜けた官位の大納言を得る。五大老の一人となる。ただしこれといった実績はなし。 6. 柴田勝家と豊臣秀吉に非常な信頼を得ていた人物であることが伺える。極端な話、それだけで大大名になった男。 7. 吝嗇家であったと伝えられる。 利家が「律義者」とされるのは、秀吉が死んでから利家自身が死ぬまでのほんの僅かな期間に過ぎません。その期間に律義者であったことを裏付ける具体的な材料にも乏しく、律義者のイメージは後世に作られたものと見るべきでしょう。引き立ててくれた柴田勝家を決定的瞬間に裏切った点では、小早川秀秋と同じく「武士の風上に置けない」と評価されて当然です。 釜茹での件はNo1さんの言われるとおりでしょう。利家が(残酷な刑を嫌う)人格者であったと判断すべき根拠はありません。 利家と縁の深い柴田勝家は * 越前での善政が知られる。 * 自分を破滅に追いやった利家に対し、年来の友誼を謝して人質をそのまま返している。戦国の常識では考えられない行動。 と、高い人格を示す具体的材料を有しています。
お礼
ご回答ありごとうございます。 なおここで「律義者」について、利家と勝家との関係は回答者のご指摘の通りですが、ご存知のように利家と秀吉との関係も尋常ではなかたようです。 (1)幼友達であった。 (2)利家の四女・豪と六女・菊は秀吉夫妻の養子になっていた。 (3)正室まつと秀吉の正室ねねは仲がよかった。 (4)天下獲りレースでは明らかに秀吉に分があった。 以上のような状況下にもかかわらず、利家は賎ヶ岳の合戦で一旦は勝家の味方に付いた事によって義理を果たした、とも言えないことも無いのでは・・・。 確か、佐々成政はこの戦いで傍観を決め込んでいたのも関わらず、戦後、秀吉は成政の領地を安堵している。その意味では、利家も最初から傍観しててもよかったのかもしれません。
- koon1600
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利家の場合は、かなりの信憑性を持って釜茹でを行ったとされています。 よく出るのは、小丸山城築城の折に弾圧から逃げたと考えられる人夫が落書きした一文で「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」というのがあります。 実際、一向宗への弾圧は凄惨を極めたと言います。 利家の一向一揆弾圧の折には引き裂きなんかも行ったとされていますね。これは簡単に言えば縄に紐をくくりつけてその縄を動物に両側に引っ張らせて、人間を股から文字通り「引き裂く」わけですが・・・ 彼の場合、律義者であったとはいわれています。しかし、後世(というかこのごろの)評価は、大河ドラマに影響されるところが大きく、変に美化されているような感じがあります。 当時、虐殺と側室は不義の対象にはなりません。側室は「いない人のほうが異常」という世界ですし、虐殺は今の世界では100人やっただけで非難がすさまじいですが、当時はある種の見せしめも含めて有効な政治手段と考えられていました(皆殺しとかは当たり前)。 「律義者」という定義の、現代と当時の温度差は注意して考えるべきでしょう。 なお、釜煎りは釜茹でと同じです。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 大変参考になりました。 >現代と当時の温度差は・・・。 koonl1600さんがご指摘の通りのことが本日の新聞に掲載されていましたので、引用させて頂きます。 「歴史は、その時々の国民、政治家がそれぞれの立場で心血を注いで決断してきたことの積み重ねであり、大河の如き大きな流れである。その是非善悪を論じるが如きはわれわれの成し得る業ではない。」(産経新聞2006.12,2朝刊)
お礼
ご回答ありがとうございます。 文字瓦に釜煎りの証拠があるならば、間違えの無い事実ですね。