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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:無我について教えてください)

日本人の哲学研究における宗教と無我の関係とは?

このQ&Aのポイント
  • 日本人が哲学研究を行う際には、西洋哲学の手法で仏教や神道に関して論理の枠組みにはめて考える必要がある。
  • 宗教に関して考えることと哲学に関して考えることの違いがあり、日本人の哲学は無我でありながら我として考えるという苦し紛れがある。
  • 仏教哲学の枠を超えた考え方をすることが本当の哲学であり、それを解脱や悟りとして表現する。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#189751
noname#189751
回答No.15

我れというものは無い また 我がものというものは無い すでに 我れ無しと知らば いかによってか 我がものがあろうか 無我を発見したブッダの言葉です。 無我の発見に至った縁起の考察の中核を占める十二因縁とは以下の通り 無明  過去の二因  行       〃 識    受胎の一念 名色   胎内育成 六処  六根具足して誕生前の胎児 触    二、三歳の頃の、苦楽を知らないで、触れるのみの位 受    六、七歳後苦楽を識別する位 愛    十四、五歳以後の愛欲を生じる位 取    成人し利欲に執着する位 有    愛取の煩悩により種々な業を作り、来世の果を有する位 生    未来の二果 老死     〃 注意すべきは この中の「触」の状態のみが無我と解されやすい その一般概念は横山大観の描いた「無我」の絵に象徴されている ブッダは輪廻の実相の観見から 縁起の考察へと進み 無我の発見に至ったとされている。 無我の発見からの先におけるブッダの悟りの内容は記述されていない その理由は 般若心経に記されている 矛盾概念の記述の証明にみる事ができる。 心経の「是故空中」以下の 無明から老死に至る記述がそれに当たる この記述は 十二因縁であり 輪廻の否定と肯定を同時に表している 空と表記されたものが 概念以上のものでなければ この記述は成立しない 空とは 唯一絶対一元的なるものを指す言葉として選ばれたに過ぎない 空という言葉のもつ言語的本質は 概念以上のものを指す という意味である このような考察から一般的表現として用いることは不適切である事から ブッダが無我以上の悟りの内容を説かなかった事は当然のように思われる。 空とは 矛盾概念の止揚ではなく 悟りの一元性に基ずく包括である それは 第八識に到達して観た輪廻の光景である このような視点から見れば 無我の認識とは 空、涅槃という より深い悟り以前の境地において生じたものであり 現象(諸法)に自性は無いという発見であったように思われる。 深般若における空の悟りの直前の悟りだったと思われる。 それは 三法印が二法印で終わらない事からも明らかである。 また ブッダ同様の体験を経ずとも 禅定体験によって速やかに無我の境地に到達できる事を先徳は示してきたはずです。 もう すでに テキストも事蹟も尽くされてきたのです。 あとは どれを選ぶかでしょう。 以上です。 答えというか 余計なおせっかいはここまでにします。 ご自由にどうぞ。

Flareon
質問者

お礼

おやまあ。 教養を感じる理性的な内容で良い回答ですね。 色々と調べ物のとっかかりになって、お礼を書く前に検索してみたりしましたよ。 遠慮なく煮て食ったり焼いて食ったり好きなように料理させてもらいます。 ありがとう。

その他の回答 (14)

回答No.4

主格の第一人称的な我と目的格の第三人称的な我との齟齬は…。

Flareon
質問者

お礼

無を悟れ。 こう言ってみるよ。 君の問いかけは迷いでありそんなもんありゃしねーである。 君の仏性には迷いなどない。 そんなもんありゃしねーなど捨てろ。 こういう受け答えをしたのがお釈迦様だ。 しかしだ。 無を悟れとは、凡夫にとって死ねと言っているのと同じ事だよ。

回答No.3

 こんにちは。  ★ 無我について教えてください  ☆ 無我(アン‐アートマン)とは 《我=アートマン》説に反対して名づけられたものです。  梵我一如――つまり 《梵=ブラフマン神》 とその霊とも言える《我=アートマン》との一体――に抵抗している思想だと思います。  つまり ブラフマニズム(バラモン教)においてアートマンを《我》とも見ているのは 人間という存在をほかにしては捉えないという意味ではないかと推し測ります。  ただし このブラフマニズムに対する反措定(アンチテーゼ)としてのブディスムにおいても のちに 《一切衆生 悉有仏性》と言うようになりました。  《われに仏性あり》つまり早く言えば《梵我一如なる存在なんだよ》と 人びとは 創始者のゴータマ・ブッダにさからってでも 世界観をただしました。  つまり無我ないし我は このような構図の中に位置すると思います。  無我=アン‐アートマンの《アン》は アン‐インストールのアンです。  あるいはアナーキー=アナルキア=アン‐アルキアのアンです。  もし誰やらの説を使って言ってみれば アナルキアとは アルケーの神はない(アン)と言っているわけです。  ところが 神にかんしては それが有ると言っても無いと言っても 神にとっては痛くも痒くもなく 何ら影響をおよぼしません。  もし神ないし霊の次元で アートマンを言うのなら それを有ると言っても無いと言っても 何ら話が変わったりすることはありません。無我と言おうと我と言おうが同じです。  ただし 経験存在としての《われ》にかんしてなら 話は別です。  煮詰めた議論としては このように神の霊としてのアートマンが有るか無いかと言って何とかして捉えようとしている《わたし》たちとしての我なら それとして・つまりそれがまったくの幻想であるとしてもそれとして 存在していると見ることになるのではないでしょうか?  周辺の事柄を合わせてこのように 交通整理が出来るのではないかと思います。  早い話が 特にどうってことはない説だと思います。  アートマンをかかげるブラフマニズムに対抗して――それは 当時あまりにも社会における身分制度が人間にとってよいとは思われなかったからでしょうか―― 《アン‐アートマン=無我》という看板をかかげた。という程度の問題であり 中身は――《信じる》の次元としては―― 変わりないと考えます。  ですから 私情を去るとか我欲を離れるとか言うときの問題は それが経験行為(修行のようなものとして)であり経験思想なのであるからには 無我説であろうとアートマン説であろうとその《信じる》行為とは 次元が違います。話がかみあっていません。  でも次元が違うというような言い回しを振り回すのはほんとうは哲学にふさわしくないのでさらに述べますが   もしアートマン説(梵我一如)によるのであれ無我説によるのであれ《信じる》という見方から言えば 論じるより先に 私情も我欲もふくめあらゆる煩悩を かみは覆いつつんでいる。こういうことにしかならないと思います。つまり その場合は《無我》も 《我=アートマン》と同じく神のことになります。  このことが ゴータマ・ブッダには分かっていなかった。と思われます。だから 神については お茶をにごしただけだった。うんぬん。・・・

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 私にも言いたい事があります。 西洋の哲学のように神と人の対比から思考すると、本を読んでいても内容が良く判らないのですが、私は仏と言う言葉の現代語訳は人間だととらえていて、そもそもこの枠内で思考すると完結する。 とても便利なのですが、それを神がいないと言う思考に持っていこうとすると、神じゃなくて我がいないと言う事になる。 これは今のところ考え以前の瞑想じみた直感で言葉に整えてみようと考えています。

回答No.2

 Flareonさんが「自助を大切にしろ」と繰り返し主張していることで、自我=私心(わたくしごころ)が定まっている(安定している)ことが分かります。  興味のあることはFlareonさんの“風景”に人影のないことです。  その“風景”からは俗世間、などと良く云う処の「俗」とは全く縁のない“自然”そのものから、穏やかで静寂な世界を写し取って表現されています。  此の事から、「俗」を嫌っていることが知られ、また自身の信念の確かさを信じている事を感じられます。  でも心が定まっている、と云っても“完全”でないのでこうした確認作業が必要なんだと思います。  無我とは私心(わたくしごころ・自我)を離れること、と思えばFlareonさんの云っている無我は私心から離れきっているようには思えません。  己が心(精神)は他者、何物かと繋がっていると思えないでしょうか。  我、の存在は両親ある故、と云う事から飛躍してこの肉体は自然物質の一部であり、そして心も自然に備わる心の一部、と思えばその他者と繋がっている心を「安定」させてこそ、真の迷いを滅する事が出来るのだと思います。  私心、自我、の「悟り」は環境の影響を受けますが、真の悟りは受けないと思います。

Flareon
質問者

お礼

一回削除されたので、同一趣旨を丁寧な文面に整えて再質問したのだが、そうすると回答も丁寧になるのを発見したよ。 哲学の土台として神かそれに類する事柄に一定の枠をはめる事を目標としている。 ありがとうね。

回答No.1

そもそも、哲学とは宗教とは関係ないものです。 あなたが求めているのは、仏教哲学のことでしょうか? それとも大見地の宗教哲学ですか? それなら、般若心教に置ける、有って無いもの、これがすべてでは無いでしょうか? 行き着く所は混沌であり、何も無いところにも、何か有り、何かある所にも、何もないと言う状態。 基本西洋に置ける、宗教哲学も基本同じ事を言っているだけです。 無我の境地とは、我が無い分けではなく、対極の大きな検知で物事を見る言うことです。 我を忘れる、または自我をなくすことでは無いですけど。 それを追い求めて、悟りという妖怪に囚われるのが、いい所ですよ。

Flareon
質問者

お礼

西洋哲学でも深く考える事は神とかかわっていると思うよ。 そう言う前置きだよ。 でもありがとうね。