- ベストアンサー
《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?
- 人間の《信じる》という行為について、その意味や内容を考える必要があります。
- 《信じる》は経験行為であり、経験世界を超えた非経験なるナゾを心の中で受け入れることです。
- 信じることは個人の内面的なものであるため、組織宗教が個人の信仰を強要することは違法であり、自由が保証されるべきです。
- みんなの回答 (32)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう げに 恐ろしきものですな。
その他の回答 (31)
- SakuraiMisato
- ベストアンサー率17% (42/235)
価値判断の一般的な尺度を度外視して、敢えて『訝り・疑念』を忘れる為に、 積極的な働き掛けに陶酔・耽溺し続ける、 という『無心』での信仰には、確かに集団代表者による管理が必要になっていませんね。 そして、電気通信機器類の遣り取りが『無心』で継続されていく際にも、 管理者達の存在が必要になっていませんね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ですが 異なる見解を持ちますので 説明してまいります。 ★ 『無心』での信仰 ☆ 一般にですが 《無心》は 非思考としての信仰ではありません。 そのような見方をするときの定義をしておきます。 ○ 無心とは: ~~~~~ 1. その無心であるとき《わたし》は 自己を自覚して 存在しています。潜在意識になっている場合を含めて 自覚があります。 2. ただし言ってみれば その《わたし》は わたしなるものの自覚のみの意識しかありません。 3. よって 言いかえると 近くも遠くも含めた周りのことや生きている時間過程について 言わば白紙の状態にあります。 4. 同じく言いかえると この時空間なる世界およびそこに繰り広げられるものごと これらすべてに対して わが感受性ははたらいています。閉じられているわけではないのです。 5. したがってあとは 世界に起こるさまざまな事柄について 言わば自然本性のままにそれらを感受することになります。 6. あとは もろもろの記憶が意識に浮かび上がり そして知解行為(認識)や意志行為(判断)がはたらくようになりますから 無心としての《わたしなるものの自覚》だけではなくなります。 ~~~~~~~~~~~ さて ★ 価値判断の一般的な尺度を度外視して、 ☆ というとき たしかに 《価値判断》あるいはその《尺度》 これらは 経験行為でありそのものごとですから これらを《度外視して》というなら 一見すると 経験世界を超えるというふうに思えるかも知れません。ですが それは 無理です。 たとえばその尺度つまりは経験合理性を度外視するというのは これも じつは 経験思考であり経験行為だからです。度外視するということは むしろ無心ではないかたちにおいて意図的に為す経験行為です。 つまり この表現の中身に関する限り それは経験世界の内にあるということです。 ★ 敢えて『訝り・疑念』を忘れる為に、 ☆ いぶかりも疑念も たしかに経験思考なのですから それを《忘れる》と言えば 一見 経験世界を超えると見えるかも知れません。ですが それは あり得ません。 《わすれる》というのは 経験行為です。むしろ《有心》(計らいがある)でおこなう経験行為であり 依然として 経験世界にとどまっています。 ★ 積極的な働き掛けに陶酔・耽溺し続ける、 ☆ 《積極的な働きかけ》が 何を言うのか分かりませんが とうぜん 経験事象でしょう。その経験世界の事象に《陶酔・耽溺し続ける》というのも むろん 経験行為です。陶酔しているなら 意識もなくハカラヒもないと言うかも知れませんが その陶酔する初めのときの意図あるいは意識が 経験行為ですし そのあとも むろん 経験世界にとどまっている現象です。 眠っている場合 意識がないから それは 非経験の世界だなどとは言えません。 ★ という『無心』 ☆ ということでしたら この無心は けっきょく《合理性を無視する・うたがいを忘れる・外界の刺激に陶酔する》という経験行為としての・言わば《はからひ》によってもたらされた状態です。 つまり なるほど無心であるかも知れませんが それは 大きくは人間の意図および意識という経験世界の内における現象である。こう考えざるを得ません。 非思考の庭なる信仰との違いは 《非経験の場》が初めに想定されているかどうか そしてこれを無根拠において受け容れるかどうか このような要因の有無にありましょう。 ★ という『無心』での信仰 ☆ と言うには 無理があります。経験行為のみによって成るものは 信仰とは言いません。 ★ という『無心』の信仰には、確かに集団代表者による管理が必要になっていませんね。 ☆ そうかも知れませんが それは 《中央管理》が必要であろうがなかろうが すべては 経験行為の範疇に入ります。 ですから この質問の問い求めるところとは まるで違います。 こういう説明になります。
お礼
あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 《信じる》というコトもしくはその言葉をめぐって起こりうるいくつかの現象を分析されていましょうか。 ★ ~~~~ 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう げに 恐ろしきものですな。 ~~~~~~ ☆ この現象・この問題は 割り合い分かりやすいことではないでしょうか? すなわち よく言えば(よく受け取れば) ことばとしての《信じる》があるから 信仰などという心的現象が 人びとに起きる。ということでしょうし。 また一般には おそらく ★ 信じるという仮定から ☆ というその中身が 〔おそらく〕想像上の何か――たとえば《神の愛》ですとか《愛なる神》ですとかのその観念――を《信じるという仮定》を置くと あんがいこれが《〈われは その何かを信じている〉という結果が生じてしまう》。 のかも知れませんね。これは じつは 幻想ですね。神は 観念(つまり 思考)ではありませんから。 ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす ☆ これは 直前のわいわいえいとさんとのやり取りで出て来ました。かかげます。 ☆☆(No.4お礼欄) ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。 ☆ の問題ではないでしょうか? すなわち 次のような心の構造とその仕組みにかかわっているように思います。 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~ 例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。 ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。 そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。 言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば ☆ とは 《非思考の庭》が あたかも泉となってのようにそこに ヒラメキを湧き出させる。 このヒラメキから――と言っても それはむしろそのヒラメキなる直感じたいが 身業(身のわざ)であると思われますが その直感および直観なるヒラメキから―― 《考える》をつうじて 意業(精神の認識および判断のわざ)が持たれます。 ★ 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす ☆ 認識および判断が《無限の心ないし精神》であるのか にわかに断じがたいところではありますが そういった《限りなくひろがり展開する精神の緑野》が 《信じるという一点から生じる》。 ★ ~~~~ 信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである ~~~~~~~ ☆ たぶん わたしなら――出しゃばりますが―― 言いかえるでしょうね。 ★ 信じるとは 〔《考える》および《振る舞う》といった〕行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす ☆ そうですね。《全人格の変容をもたらす》については ○ そうなんだと思いますが・そのとおりなのですが ただし 但し書きをも添え得る。それは じつは もともと生まれつきそなわっていた自然本性としての《わたし》であった。つまり もともとの《わたし》に立ち還ったのであると。 その信仰として《非思考の庭がわが心に成った》その時点あたりでは おそろしいと感じるほどに《全人格の変容をもたらす》と見られるのですが そもそもその変容したあとの結果というのは 《わたし》だったのだと。 しかも わたしはこの《わたし》を 知らなかったわけではないと知る。わたしはおのれの《わたし》を じつは 愛して来なかったわけではないと知る。おそろしいほどの変容ぶりをつぶさに見てみると それは わが愛する《わたし》であった。 そのとき たしかに ★ それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである ☆ と形容すべき要素が生じていますね。ただしこれも その《非思考の庭を成らしめたナゾのチカラ》が 《わたしの能動性やそのときの自己認識を超えている》と捉え得るものの そうではあるものの 変容したあとの状態は じつは もともとの《わたし》であった。 《信じる》とは その《わたし》の核エネルギーなのでしょうか? または核反応のようなコトでしょうか?