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《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?
- 人間の《信じる》という行為について、その意味や内容を考える必要があります。
- 《信じる》は経験行為であり、経験世界を超えた非経験なるナゾを心の中で受け入れることです。
- 信じることは個人の内面的なものであるため、組織宗教が個人の信仰を強要することは違法であり、自由が保証されるべきです。
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信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう げに 恐ろしきものですな。
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- SakuraiMisato
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情緒不安定が本能の働きを鈍らせたりはしないのでしょうか?
お礼
そうであってもなくても 質問とはかかわりません。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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やあ。 この質問が立ってから何日か経っているよね。 晩酌しながら酒の肴になるかと思って何度か読んでみたのだが、こねくり回しのコツを忘れてしまってね、あまり頭に入らなかったよ。 > 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か? 単純にこれのみなら、自らの存在を尋ねる事だと解釈しているよ。 私は私である。 とか、 私は生きている。 とか、 この手の認識のために根拠を神においていると言う事だろう。 思考である知性の発達も神様と二人三脚だと思うよ。
お礼
そうかい。 どうも ★ やあ。 ☆ に対する応え方を知らない。
- kanto-i
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No.7です。 ご自分の考えを述べてあるのは分かりますが、何をどう尋ねてあるのか分かりかねます。 実は心理学では、深層意識(無意識)や欲求の形など、どのようになっているかは ある程度は解明されています。 それがどの程度信頼できるのか、心理療法の効果を含め自身を使い確認をとるようにしてます。 自身を掘り下げて知覚として知る範囲でお話ししています。 過去の人物が、考えたこと調べたこと、解決の為に作ったものを自分で検証しているのです。 その上で、あなたの最初の質問としての >《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か? を私なりにお答えしました。 人が考えるのは自由ですから、あなたの考えに特に反論するつもりもありません。 ここの規定にあるように、情報交換の場であり議論の場ではないと考えています。 ですから、あなたの意見は否定も肯定もせず それに対しての真偽は、時間をかけて自分の中から見出せるかで判断するだけです。 私は、知識からの考えだけで判断しないようにしていますので。 そこのところはご了承ください。 「信じる」という言葉を先に知識として知りましたが 自分の中から見出した「信じる」は、それによって自分の何に繋がっていくかを知るものでした。 考えと感覚が融合した知覚は感覚が入りますので、申し訳ありませんが論じてもお伝えできません。 その点もご了承願います。 ご自身の追及、頑張って下さい。
お礼
ご回答をありがとうございます。 次のように図示して説明する内容 これによって補足要求としてお尋ねしたかっこうでした。 生活世界: (幼児:)本能 / (大人:)感性を含む思考 _________________________ その根底: ・・・・・《信じる(非思考の庭)》・・・・・・・・ 幼児の本能による振る舞いは 《信じる》というみなもととつながって 《聖なるアマエ》と呼び得よう。 大人の《感性をふくむ思考(つまり うたがいを容れる)》は おおむね《わたし》が《わたし自身》を探し求める旅をしている。言わば巡礼の旅路である。 つまりそれは 根底における《信じる》とそのようにして――つまり自己還帰あるいは自己到来の過程というかたちにおいて――つながっている。聖なるアマエを じつは知っていて つねに きよらかなおそれを抱いている。(もしくは わざと それにさからっている)。 ★ ~~~~ 考えと感覚が融合した知覚は感覚が入りますので、申し訳ありませんが論じてもお伝えできません。 その点もご了承願います。 ~~~~~~ ☆ この点は 了承いたしかねます。 なぜなら たとえば百科全書派が 西欧で出ましたね。そのときには とうぜんのごとく《感覚》についてそのあらゆる様態を取り上げ 哲学としての定義をほどこしました。 感覚の分析からしり込みするのなら 哲学には成りません。ですから 承知いたしかねます。 ★ ~~~~ 私は、知識からの考えだけで判断しないようにしていますので。 そこのところはご了承ください。 ~~~~~~ ☆ ここにも誤解があると考えます。 《信じる》は 非思考の庭がわが心に成ることだと言って 《知識や考え》の問題ではないと言っています。そしてそれでも哲学は このこと(非思考の庭)についても出来るところまでは 概念による理解を得ようとしてすすむのだと言っています。 そこのところをどうかご了承いただきたい。それが 問いの趣旨とこころです。 《本能》や《感性をふくむ思考・そしてそこにうたがいをも含む》といった経験的な事象や行為は 《信じる》と けっきょくにおいては つながっているとは見ますが そのままのかたちで同じ次元において対応させるのは 問い求めの中身としてどうなのか? こういうお尋ねです。はっきりしていると思います。(最初の図示を参照ください)。 お引き留めするわけではありませんが 情報交換として そちらの情報を いまのままでは受け容れがたい。ゆえにその事由を明らかにして さらにお訊きしています。
- kanto-i
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No.7です。 お尋ねの件ですね。 >(あ)★ 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてます ★ 出発点は本能です >(い)★ 信じるという自らの意志により生じた動作 > これら(あ)と(い)とは 互いに相容れないほど別だと思われますが どちらも《信じる》についての説明となっています。どうでしょう? 信じるのは本能であり、疑いは経験から生じます。 その時点で選択肢ができてしまう訳です。 有る程度の年齢になると、選択肢がある場合は意志によって選びますよね。 産まれたては選択肢を持たないので信じる。 経験を積み重ねて、すべてをそのまま信じるのは違うと知る。 そう言うことを指しています。
お礼
かんと‐あいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ほかのみなさんは どう受け取っておられましょうか。と思いますが ここではわたしの感じたままの受け留め方をつづって できればさらにお尋ねしてまいりたいと存じます。 ★ ~~~~ 信じるのは本能であり、疑いは経験から生じます。 その時点で選択肢ができてしまう訳です。 ~~~~~~ ☆ たしかにまづ《本能》には じつは選択肢がありません。赤ん坊は 本能で母親のお乳を求め吸うのだと思います。そのとき お乳とそうでないものとの区別も 身の感覚でおこなっているのだと思われます。 区別には 選択するという行為が伴なっているようですが お乳を吸うという動作には 選択肢はありません。哺乳瓶で吸うというのは 親の側の選択であろうと考えられます。 ところが もしこのことが《信じる》とかかわっているとした場合 それでも人は 幼児からやがてものごころがつくようになると ウソをつくというそれとしての自由選択の意志行為を経て すでにもう本能による行動はしなくなります。 そのときどきの時点で 食べるか食べないかを選択するようになります。何を食べるかについて 思考をつうじて考えた結果そのものをえらぶという意志行為によることとなります。 と考えてくるなら けっきょく赤子が本能によって振る舞うにせよ人が考えることによって自由に選択するという意志行為をおこなうにせよ その根底には 言ってみれば何ものかを信じるという《存在の原点》のごとき核があるかと考えられます。 そうして 《うたがう》は 食べるものが腐っていないか・毒が入っていないかなどと疑うにせよ疑わないと決めるにせよ とうぜんのごとくそれは 《考える》の問題です。言いかえると 《何を食べるか》の選択行為においておこなうその要素であると考えられます。 つまりですから 何が言いたいかと言いますと こうです。 ○ 《信じる》は ひとつに何も考えないのですし ひとつにその受け容れるものについて それは無根拠と言う如く じつは何も分かっていないわけです。 したがって まづ《本能》は 何も考えないという点で 信じるに似ていますが 信じるは《無根拠》なるナゾの何ものかを いちおう知覚しているかあるいは概念として認識しているかだとしますと 俄然 違って来ると思います。 しかも きよらかなおそれ あるいは 聖なるアマエとしてその中身は やはり似ているようです。 《うたがい》は あくまで《考える》の問題です。何らかの根拠を問い求めています。 《信じる》が ナゾの何ものかを 無根拠として無根拠において 受け容れるというとき その《非経験の場》を間違えることはあるか? ないと考えます。 なぜならもし間違えたときには それは 《いちおう概念として認識している》ところの神なら神が すでにその人の頭の中で《思いとして持たれていたり 想像においてその中身を想い描いていたりする》場合に限られるからです。言いかえると すでに神がオシエとなって抱かれている場合です。オシエは 信じるの対象ではなく 考えるのそれですから。 教義は 根拠を問い求めています。 人間なる教祖を信じるという場合も 同じくです。人間であるなら 人はその人について考えてその人柄を捉えることをします。ときには 信用できないという判断(選択)にまでみちびかれることもあります。つまり うたがいです。 うたがうや考えるがからんでいるなら それは 経験思考の問題です。信じるではありません。 このように《信じる》が その受け容れるものを間違えることは ほんとうにはない。 こう考えるにつけても 信じるは 考えるとは次元が違う。とさえ思われます。 ★ 産まれたては選択肢を持たないので信じる。 ☆ というように見えますが げんみつに言えば そこにはふたつの階層があると思われます。 根底の次元に 信じるがある。(赤子は むろん 自覚していませんが)。その上に この場合は考えるではなく 本能による振る舞いというひとつの生活の層がある。のではあるまいか。 ★ 経験を積み重ねて、すべてをそのまま信じるのは違うと知る。 ☆ 《経験や世界の認識を積み重ねて その結果出した結論》は むろん選択肢としてでありそれを選択するわけですが あくまで経験合理性にもとづきくだした妥当性のある内容のことです。つまり 考えるの対象です。信じる・信じないとは別のことではないでしょうか? (このとき 信じるという表現をすることがあるのは 強くその妥当性を思っている。確信している。といった意味です。その妥当性がくつがえることがある・つまり うたがいを容れている。のですから 《信じる》とは別です)。 どうでしょう?
- kanto-i
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No.7です。 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてますので 私的には、特にそれ以上は哲学はありません。 なぜならば、人間は生まれながらにして自身を他者にゆだねます。 子を育てるという行為の間に、子からの疑いは入る余地が無いからであり 疑いは経験から来るものだからです 本能とは、他者とのふれあい(スキンシップや優しい声かけ)をすることが 生きる上で必要する欲求であり、それにより人に対しての信頼を強めます。 子供の時ふれあいが足りないと、欲求を叶えられなかったことにより 人を信頼することが難しくなり、コミュニケーションも苦手となります。 乳幼児期のふれあいが、自分を受け入れてくれるという確認であり 他者を受け入れられる基礎となります。 受け入れられ感が足りないで欲求不満で育つと、人はそれを宗教や神に強く求める場合があります。 あるいは科学に、金に、権力に求める場合もあります。 上記のように信じるがどのように働いて行き、生き方に強い影響を与えますが 出発点は本能ですから、私はそれ以上掘り下げることができません。 「行為(こうい)とは、人が自らの意志(意思)に基づいてする動作。」ウィキより ということですので、信じるという自らの意志により生じた動作は、自己責任であり 他者や何か(社会とか宗教とか国家とか政治とか)の責任にしないのが 質問の最初の投げかけである「どういう行為か」に繋がると考える次第です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。前回は わたしの物差しで測って理解し受け取ったかたちでお応えしました。 今回は 述べられたご見解のままを受け取って 単純に分かりにくいと思ったところをお尋ねしてまいりたい。こう考えます。 ○ 本能による行動と意志による行為 これをどのように位置づけているのか? この点をまづお尋ねします。 (あ)★ 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてます ★ 出発点は本能です (い)★ 信じるという自らの意志により生じた動作 これら(あ)と(い)とは 互いに相容れないほど別だと思われますが どちらも《信じる》についての説明となっています。どうでしょう? ☆ ~~~~~~ ですから 自説を出さないと言いましたが すでに述べた説明を確認 しておきますと: 信じようとするもの(無根拠のナゾ)を受け容れるという行為 これ は 《わたし》の意志による経験行為です。 しかもその《無根拠のナゾ》が わたしのところにやって来るのは わたしの意志や思考や何やかやをすべて超えたところからである。 つまり 《本能》をも超えている。 この経験世界の因果関係や相互依存あるいはつまり世の中のシガラミ の関係をすべて超えたところ それが 非経験の場であり 無根拠のナ ゾです。 ~~~~~~~~~~ ですから 《出発点は 本能ではなく 非経験の場およびそれのわたしによる受け容れである》と思われます。 その上で ★ ~~~~ 信じるという自らの意志により生じた動作は、自己責任であり 他者や何か(社会とか宗教とか国家とか政治とか)の責任にしないのが 質問の最初の投げかけである「どういう行為か」に繋がると考える次第です。 ~~~~~~~ ☆ というように 経験思考の緑野における(つまり この世界における)ひろく自己表現としての行為は 《自己責任》のもとにおこなわれる。こうなるのだと思います。 それとは少し別ですが 次のご指摘は 重要ではないかと考えます。 ★ ~~~~~ 本能とは、他者とのふれあい(スキンシップや優しい声かけ)をすることが 生きる上で必要する欲求であり、それにより人に対しての信頼を強めます。 子供の時ふれあいが足りないと、欲求を叶えられなかったことにより 人を信頼することが難しくなり、コミュニケーションも苦手となります。 乳幼児期のふれあいが、自分を受け入れてくれるという確認であり 他者を受け入れられる基礎となります。 ~~~~~~~ ☆ 《甘え》と言うと 他人に依存しすぎることだと受け取るのがふつうになっていて 用いづらい言葉ですが 赤ん坊は 誰が何と言おうと アマエから出発します。全面的に――そして言ってみれば 聖なるかたちにおいて――母親にだけではなく一般に人に対して 依存することから出発します。 このアマエは じつは したがって その依存を受け留め受け容れるかどうかにもかかわりますから 《受け容れ》がなくては 何にもなりません。 ということで おそらくおっしゃるように この聖なるアマエ あるいは 〔ものごころがすでについているとすると多少とも不安を伴なっての〕きよらかなおそれ この体験が のちのち大きな意味を持つのではないかとわたくしも考えます。 自然本性の持ち味を確かなものとする基礎固めなのではないかと。 では この幼児における《聖なるアマエ》が 親のつごうでうまく成り立たなかった場合は どうなるか? 結論から言えば わたしは 心配することはないと考えます。 アマエを受け留める親の存在以上のものが 目に見えないながら 神の存在(つまり 非経験の場としては 非存在)なのではないかと捉えるからです。 人は 子として親と持つ関係以上に 存在の条件として 《無根拠のナゾ》としづかにはげしくかかわっている。から心配要らない。こう思います。 ですから ★ ~~~~ 受け入れられ感が足りないで欲求不満で育つと、人はそれを宗教や神に強く求める場合があります。 あるいは科学に、金に、権力に求める場合もあります。 ~~~~~~ ☆ これらは すべて《インチキの神》であろうと考えます。 (科学や仕事に勤勉であることが マチガイだという意味ではありません。それらを神として受け留めようとするのは インチキの世界に入ることだという意味です)。 なぜなら 自然本性が 何もしなくとも そのまま問い求めているのが 神だからです。それは 《わたし》自身を問い求めることと けっきょく同じことになるのだとも考えられます。 いわゆる《宗教》は 人為的に《聖なるアマエ》の対象としての観念なる神を 作り出している。こう考えられます。 といった格好になりました。今回もかなり出しゃばりました。
- kanto-i
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信じるとは、人間のおこなう「自己責任に基づく」行為だと思います。 信じるに至るまでは、様々あるでしょうが 信じるという形で受け入れたのは、その人自身ですから 行為としては、自己責任を全うするのがよろしいかと。 信じる=受け入れる だと思います。 ちなみに信じるも疑うも、私は通常使いません。 確認できたものは、それに関しては信じるに値する。 それだけでしょうか。
お礼
かんと‐あいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 おっしゃっていることは分かります。これまでのみなさんとのやり取りを見てもらっても その中身をおおむね同じくしておられると思います。 ただしどうも 表現にかんしましては――こまかいことにこだわりますが―― 微妙に違う。こうも感じられました。 ★ ~~~ 信じる=受け入れる だと思います。 ~~~~~~ ☆ おそらく基本的に見解を同じくしていただいたのだと思います。思いますが 表現としては・また哲学としては もっと詳しい手続きのような作業が欲しい。わづかにこう思いました。 ○ ひとを受け容れる。自分を誹謗中傷し世の中から抹殺しようとしたその相手を 心より受け容れる。敵をわが心に 無条件にて 受け容れる。 というのも《受け容れる》ことですから。たしかにこのように人を差別せず あたかも自分と同じように受け容れるときには おそらくその源泉または原動力のごとくして《信じる〔としての 神の受け容れ〕》があって働いているのではないかと思われますが そうなのですが ただ《受け容れる》という定義だけでは こちらも扱いに困ってしまいます。とまづは 正直に物言いをお伝えしたいと思います。 ★ 信じるとは、人間のおこなう「自己責任に基づく」行為だと思います。 ☆ これも おそらく段階が分けられておらず 直接につながっているのだと見ます。 ○ ヒラメキは 《非思考の庭》と《精神の思考の緑野》とのツナギである。 ということは ヒラメキの源泉もしくは原動力が 核エネルギーとしての《信じる》です。その動態です。 《思考の緑野 あるいは 未開拓の原野や密林》なる世界において ★ 人間のおこなう「自己責任に基づく」行為 ☆ が みなもとの《信じる》から 自由に堂々と自信を持って 表わされて来ます。 このような段階が 凝縮されてつながれたかたちで かんと‐あいさんの心とあたまの中でたぶん直観されたのではないかと思われます。どうでしょう? ですから おっしゃる意味は よく分かります。と申しました。 少し省エネ答法をゆるしてもらってしまいましょうか。つまり あとはこれまでのやり取り・そこにおけるわたしの受け答えを参照していただくというかたちにてと思ったのですが どうでしょう?
- Y Y(@yy8yy8az)
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「信じる」と云う言葉を使うから、ブラジュロンヌさんの心意が伝わらないのではないでしょうか。 「非思考の庭」=「信仰」=「信じる」と云った図式を提示していますが、ブラジュロンヌさんの言わんとする事は、例えれば・・・・・ 母の胸に抱かれ、安らかな状態の幼子。この母と子の精神的関係こそが「非思考の庭」なのだという事ですね? そう思うと、これまで言われてきた事は「信仰」の“内容”について顕わしたい、という思いが強いのだと考えます。 この“内容”は信じるとかの事柄ではないので、したがって「非思考の庭」と表現出来るのだと思います。
お礼
わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ この“内容”は信じるとかの事柄ではないので、したがって「非思考の庭」と表現出来るのだと思います。 ☆ 何にしても言葉で表わされたもの・つまりは言葉をとおして人が思考しているもの そのような内容は 《考える》の対象であって 《信じる》ものではありません。 しかも ○ 非思考の庭 この表現にしても 言葉をとおして・またその意味内容において 人はすでに表象をしています。《思考》という概念ないし何らかのその象(かたち)を得てそれとして表わしています。また《思考に非ず》と言ってやはり概念によって筋道をつくり推論を得て行きます。象に表わして行きます。 つまり 《非思考の庭》という言葉は すでに《思考の領域》において成り立っています。 しかも 何とかして《非経験の場》のことを・そのナゾのことを伝えようともしています。 言いかえると 言葉はみな経験世界に属しており そうでありながらも わづかに《非経験の場》を想定してそのナゾを指し示すためにも用いられる。こういうことだと考えられます。 そのナゾは じつは・じつに 無根拠です。 (これは じつは 根拠があるのかも知れないのですが。つまり 根拠があるのか無いのか それについても根拠のある理解や説明が 人間には出来ない。そういう《非経験の場》が想定されています。《かみ》とは そういうものです)。 この無根拠を無根拠のまま――ややもすると バカみたいに非思考において――受け容れる。これが 《信じる》という人間の行為だと考えます。 ★ 母の胸に抱かれ、安らかな状態の幼子。この母と子の精神的関係こそが「非思考の庭」なのだという事ですね? ☆ おさな子に自分の《わたし》が意識されてあるとすれば そういうことなのでしょうね。 言いかえると ものごころがついてからの問題なのでしょうね 信仰は。 ものごころがついてから ひとは誰でもウソをつきますから 一たんナゾの何ものかから離れてしまうのでしょう。それをふたたび受け容れるということなのでしょう 《信じる》というのは。 ひとは かみが何たるかがふと分かったと思うときには 《かしこまり》ますね。 あるいは 《あは。 Ah ! 》と言って もののあはれにみちびかれます。 あるいは 《きよらかなおそれ》をいだきます。 これは おさな子のやすらかなさまと同じなのでしょうね。 ちがいは わづかに おとなは いちいちその神を 心に受け容れるという作業を経なければならない。こう思われます。 たしかにこういう《信じる》ことは 《考える》をおこなったとしても 得られません。かすかなそのイメージが得られるかも分かりませんが 体験しなければ分からないでしょう。 しかも もしもとの《わたし》に戻るのだとしたら じつは《信じる》ということを――もしくは《かみ》を――もともと知っているのでしょうし じつはつねに愛してもいるのでしょう。だから 体験する前にすでに その目指すところが分かっている。 (さとりも こういうふうに説明するとよいと思われるのに)。 しかもです。しかも しかも しかも。この《信じる》という人間の行為は どういう行為か? これを 哲学するという問い求めです この質問は。 おそらくこの問い求めが一定の成果を得たなら 人にとっての《核反応ないし核エネルギー》とでも言うべき信仰について 万人にあてはまる普遍的な説明を成し得たということですから もう世界における宗教の違いなどは 屁の河童となるでしょう。 これには おそらくわれわれ日本人が――と言ってもむろんほかの人びとを取り退けるのではないわけですが それでも―― ふさわしい。 《きよらかなおそれ》もしくは《聖なるあまえ》 このことをよく知っていると思われるからです。 唯一神に対する頑迷な《信仰(?)》からは はなから自由であるからです。 わづかに――わいわいえいとさんを前にして 堂々と言いますが―― ブディズムのモヤモヤ・ワールドが このような論理的な哲学の仕事を妨げている。としかわたしには思えません。 片や もののあはれについての表現のむつかしさと 片や どこまで行っても曖昧模糊たるさとりのモヤモヤとは まったく異なるものです。 きよらかなおそれは――ヒラメキのはたらきに似て―― 何とかしてこれを仮りにでも言葉によっても表現し 誰もが納得するようなその内容を共有したいと思っている。 さとりは この内容表現やその共有を 何とかしてむしろ させないようにする。そんなものを言葉で表わされてたまるかとでも思っている。タコツボなるモヤモヤ・ワールド。天上天下唯我独尊。 ・・・ このあたりまでとしましょう。
- Y Y(@yy8yy8az)
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都内でも、玄関先に柊(ひいらぎ)の枝に、鰯の頭を刺して“邪気を払う”風習を見ることがあります。 「鰯の頭も信心から」 辞書に、たとえどんなつまらないものでも信心の仕方次第で、尊くありがたいものになるということ。と、あります。 質問文の前半を読んでいて、ブラジュロンヌさんの表現する「非思考の庭」に、上記の信心も含まれるんだろうなあ、と思いましたが。 「信仰とは行為そのものであって、そこに“思索”が入ってはならない」と、言っているのだと受け止めました。 また、信仰には対象物があるけど、その対象物によっては信仰とは言えない世界がある、とも言っているようです。 と、ここまで考えたら“鰯の頭”は、信仰の対象にしてはいけないのだろうかと、さらなる疑問が起きてしまいました。
お礼
わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ええ。そうですね。 ★ と、ここまで考えたら“鰯の頭”は、信仰の対象にしてはいけないのだろうかと、さらなる疑問が起きてしまいました。 ☆ おっしゃるとおりだと思います。言いかえると 《きっかけ》にするだけなら よいのではないでしょうか? あるいはさらに言いかえると 何であっても 《信じる対象――じつは 非対象――》を仮りに示すものであることはかまわないわけです。仮りの代理物を仮りのものだと知っているかぎり 鰯のあたまでも何でもかまわない。こう考えます。 つまり早い話が 鰯のあたまは 信仰の対象には成り得ません。かたちあるものですから 見る・触れる・食べるあるいは科学的に認識するといった《考える》の対象です。考えるの対象であるものを信じるということはあり得ません。 (つよく思うという意味で 言葉のあやとして 信じると言ったりすることは別とします)。 ★ 「信仰とは行為そのものであって、そこに“思索”が入ってはならない」と、言っているのだと受け止めました。 ☆ その――たとえとして敢えて言ってみますが――《いわしのあたま》が仮りに示すところの《非経験の場》 これを(と言っても要するに 神のことですが)一たんわが心なる非思考の庭において受け容れたとするなら あとは これの持続ということになります。 信仰は 受け容れるという行為とその保持の過程というやはり行為です。その意味で 動態です。 もっとも 忘れたり怠けたりしたとき ちゃんとその動態過程に連れ戻してくれますから 安心です。つまり そうでなければ 信仰は 人間の・そして《わたし》の努力によってのみ成り立たせるものであり しかもその自分のチカラで保持して行くということになってしまいます。 受け容れおよび保つという自分の行為はおこないますが それ以上に何ものかナゾのチカラが この《わたし》の動態を たも(網)で掬うようにして 受け留めてくれている。そういうことだと思います。安心です。宇宙と一体なんだもおーん。 ★ ・・・そこに“思索”が入ってはならない」 ☆ これはですね。受け容れおよび保ちという非思考の庭の動態的過程そのものにおいては 《思索》も《思考》もいっさい入りません。《非思考》なのですから。 ただし 例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。 ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。 そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。 言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。 ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。
- SakuraiMisato
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非経験の場を信じている際には、 どう遣って其の方々はそれを自覚するのでしょうか?
お礼
☆☆(趣旨説明欄) ~~~ 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。 無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。 思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。 しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。 言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。 それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。 これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。 7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。 ~~~~~~~~~~
- SakuraiMisato
- ベストアンサー率17% (42/235)
言語によるコミュニケーションさえもが、相互の信頼の維持に依存していますね。 従いまして、Protocolを疑わないので、 電気通信機器類は『無心』での遣り取りを継続させ得るのでしょう。
お礼
つづいてです。 ★ 言語によるコミュニケーションさえもが、相互の信頼の維持に依存していますね。 ☆ その信頼が破られることもありますね。 という意味は 信頼が保たれることも保たれず破られることもある。これが 経験世界です。 そこに《無心》を持って来ても いま問う問題の中身には関係して来ません。 非思考の庭 これを問うています。 非思考とは 思考が無い・あるいは思考をしていないという状態のことではありません。思考していようがいまいが 思考をしてものごとのけりがつくか そのつくかつかないかが分からないという領域にかかわる心の状態であり その庭です。 経験世界と非経験の場(これは 想定です)とを峻別してください。 でもこのことは もう口が酸っぱくなるほどすでに何度も言って来ていますから こんど同じことを書いて来ても もう取り合いません。
お礼
あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 《信じる》というコトもしくはその言葉をめぐって起こりうるいくつかの現象を分析されていましょうか。 ★ ~~~~ 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう げに 恐ろしきものですな。 ~~~~~~ ☆ この現象・この問題は 割り合い分かりやすいことではないでしょうか? すなわち よく言えば(よく受け取れば) ことばとしての《信じる》があるから 信仰などという心的現象が 人びとに起きる。ということでしょうし。 また一般には おそらく ★ 信じるという仮定から ☆ というその中身が 〔おそらく〕想像上の何か――たとえば《神の愛》ですとか《愛なる神》ですとかのその観念――を《信じるという仮定》を置くと あんがいこれが《〈われは その何かを信じている〉という結果が生じてしまう》。 のかも知れませんね。これは じつは 幻想ですね。神は 観念(つまり 思考)ではありませんから。 ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす ☆ これは 直前のわいわいえいとさんとのやり取りで出て来ました。かかげます。 ☆☆(No.4お礼欄) ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。 ☆ の問題ではないでしょうか? すなわち 次のような心の構造とその仕組みにかかわっているように思います。 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~ 例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。 ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。 そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。 言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば ☆ とは 《非思考の庭》が あたかも泉となってのようにそこに ヒラメキを湧き出させる。 このヒラメキから――と言っても それはむしろそのヒラメキなる直感じたいが 身業(身のわざ)であると思われますが その直感および直観なるヒラメキから―― 《考える》をつうじて 意業(精神の認識および判断のわざ)が持たれます。 ★ 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす ☆ 認識および判断が《無限の心ないし精神》であるのか にわかに断じがたいところではありますが そういった《限りなくひろがり展開する精神の緑野》が 《信じるという一点から生じる》。 ★ ~~~~ 信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである ~~~~~~~ ☆ たぶん わたしなら――出しゃばりますが―― 言いかえるでしょうね。 ★ 信じるとは 〔《考える》および《振る舞う》といった〕行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす ☆ そうですね。《全人格の変容をもたらす》については ○ そうなんだと思いますが・そのとおりなのですが ただし 但し書きをも添え得る。それは じつは もともと生まれつきそなわっていた自然本性としての《わたし》であった。つまり もともとの《わたし》に立ち還ったのであると。 その信仰として《非思考の庭がわが心に成った》その時点あたりでは おそろしいと感じるほどに《全人格の変容をもたらす》と見られるのですが そもそもその変容したあとの結果というのは 《わたし》だったのだと。 しかも わたしはこの《わたし》を 知らなかったわけではないと知る。わたしはおのれの《わたし》を じつは 愛して来なかったわけではないと知る。おそろしいほどの変容ぶりをつぶさに見てみると それは わが愛する《わたし》であった。 そのとき たしかに ★ それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである ☆ と形容すべき要素が生じていますね。ただしこれも その《非思考の庭を成らしめたナゾのチカラ》が 《わたしの能動性やそのときの自己認識を超えている》と捉え得るものの そうではあるものの 変容したあとの状態は じつは もともとの《わたし》であった。 《信じる》とは その《わたし》の核エネルギーなのでしょうか? または核反応のようなコトでしょうか?