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花火
花火と言えば 「玉屋」が有名ですが、 玉屋があったのはたった30年足らずと聞きました。 なのに、花火が上がるとみんな何で玉屋と言うんでしょうか?
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昔は、「玉屋」と「鍵屋」という花火の 今で言う「メーカーであり打ち上げ屋さん」がいました。 その2大花火メーカーが競って自慢の花火を打ち上げていたのですが 見ている方にはどちらが「玉屋」「鍵屋」なのか区別が付きません。 そこで、1発づつ打ち上げる際に「玉屋」の花火であれば誰かが代表して 「たーまやー」と叫び、「鍵屋」の花火であれば「かーぎやー」と叫び どちらの花火であるかわかるようにしていたようです。 その競い合っていった結果、「玉屋」の方が勝ち残り 現在も「玉屋」と言われ続けられているようです。
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- Pinhole-09
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「続燕石十種」の「わすれのこり」の項に 「玉屋は其所を追われて、家業を停められたれど むかしより花火をほむるには、玉屋といひし、今 鍵屋の花火をほむるにも矢張り玉屋とよぶ」 とあります。 玉屋の人気は根強く庶民の間に残っていました。 「花火千夜一夜」より。
- kishn_an
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ただ単に語呂が良いからじゃないですか。 http://ginjo.fc2web.com/029tagaya/tagaya.htm
お礼
回答ありがとうございます。
- marbleshit
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このような歴史的経緯からです。 鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は鍵屋の手代であった清吉が1810年(文化7年)に暖簾分けをし、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである。 このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という歌が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる。しかし1843年(天保14年)4月17日、玉屋から失火、店のみならず半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動があった。当時失火は重罪と定められており、また偶然将軍家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%81%AB
お礼
詳細にありがとうございます。
- あずき なな(@azuki-7)
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歌舞伎で 成田屋 高麗屋 と言うのと同じです
お礼
ありがとうございます。 掛け声は私には無理なようです。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/syurui.htm
お礼
回答していただきありがとうございます。 ブロックって知ってますか?