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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:永井荷風の『花火』について)
永井荷風『花火』についての質問
このQ&Aのポイント
- 永井荷風の『花火』は1919年の12月に『改造』という雑誌に発表されましたが、一般の庶民にはあまり読まれなかったそうです。
- 『花火』という作品が固定的な位置づけを得るのは後の話であり、作品が一般の人々の手元に届くまでには何らかの経緯があるようです。
- しかしながら、どうやって作品が一般の人々に届けられたのかについての資料は見つかっていないようです。
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質問者が選んだベストアンサー
ライブラリによれば、1925(大正13)年、春陽堂刊の「小説随筆 麻布雑記」に掲載されています。 そこでは、<大正8年7月稿>となっています。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982533/26 その叙には、築地から麻布に移ったこの間の5年が「悲しきことの多かりき」として、「衰病の孤身うたた寂寞」の心境にも触れておりますね。
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- kine-ore
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回答No.2
>でもなぜ7月稿となってるんでしょう?出版されるまで時間がかかったのでしょうか。 質問の主眼が分かりにくいのですが、次のようにタイムテーブルは実に順調な方だと思いまけど…。 1.1919年7月 著者脱稿。 2.1919年9‐10月頃に編集・掲載 1919年10‐11月頃に「12月号」として出版。 3.1925年9月、再度、書籍掲載 この5年ほどに月刊雑誌などに掲載された小説&随筆のアンソロジーの一篇として。
質問者
お礼
すみません!私の勘違いでこんな質問を返してしまいました・・・ 本当に順調なようです・・・ 詳しい情報を本当にありがとうございます。
お礼
ありがとうございます!参考になります。 でもなぜ7月稿となってるんでしょう?出版されるまで時間がかかったのでしょうか。