戦争は、片方が「もう止めた」と言ったところで終わるものではありません。停戦または終戦するためには、双方の了解が必要です。日本の主要対戦国はアメリカでしたが、アメリカは日本が無条件降伏するなら停戦してやっても良いという立場でした。
当然、大日本帝国側は、無条件降伏ではない停戦の可能性を探ることになります。そのためにはアメリカと交渉できる国力を持った「中立国」の仲介を必要とします。第二次大戦では、すべての「大国」が枢軸・連合のどちらかの陣営に属して戦争していました。戦線も入り乱れており、「中立国」を見つけるのが難しかったわけです。独伊は既に敗戦していました。英仏は、東南アジアで日本と交戦状態にありました。スペインは立場的には中立でしたが、直前の内戦もあり、アメリカと交渉できるような国力を持っていませんでした。日本との関係を考えれば、仲介を頼めるのはソ連しかなかったわけです。
日本政府は実際に、鈴木貫太郎内閣の下で、1945年4月以降、仲介の打診をソ連に対して行なっております。日本側からの楽観的な見方では、「独ソ開戦に際して、日本は日ソ中立条約を守って対ソ宣戦をしていない。だからソ連は日本の味方をしてくれるはず」でした。しかし実際には、ソ連はすでに1945年2月のヤルタ会談において、ドイツ降伏後の対日宣戦を認めていましたので、この和平工作はのれんに腕押しでソ連を動かすことはできませんでした。さらに4月6日には日ソ中立条約の期限切れに対して、延長しないことを一方的に通告してくることになります。理由として、特に「ソ連の敵国ドイツと同盟を結び、友好国英米と戦争状態にあること」を挙げていました。日本側は、それでも満期となる1946年4月25日まではソ連の日本進攻はないだろうと楽天的に考え、和平工作を進めようとしていました。
以上のような状況で、8月6日広島原爆投下、8月8日ソ連の対日宣戦、8月9日長崎原爆投下と矢継ぎ早に情勢が動いていくことになります。とりわけソ連が日本に対して宣戦布告したことは、日本政府にとって、和平交渉の絶望と取られることになります。日本政府がどれほど慌てていたか、ということに関しては、ソ連の宣戦布告に対して、国際的に通常行われる受領側からの宣戦布告、つまり日本からの対ソ宣戦が結局行われないまま、現場の防衛戦闘が余儀なくされたことによっても立証できます。
以上の状況から、日本は「国体保持」「国土保衛」の「条件付き停戦」を諦め、「無条件降伏」に署名せざるを得ないと判断することになります。
以上、ごく簡単に。
お礼
わかりやすい説明であった。感謝申し上げる。