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有名な般若心経の中の言葉『色即是空、空即是色』の意味を『空』の文字を使わずに論じた文章を紹介
- 『色即是空、空即是色』という言葉は、物質と意識が相互に関連し合う存在の本質を表しています。
- 内面の動機と外面の因果が同じ活動として現れることを通して、主観と客観は絶対観念態の内外二面として現れます。
- この統一を絶対観念態と呼び、全宇宙は客観物体として存在するだけでなく、観念界でもあるとされています。
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ど~も。 ☆☆☆ ◇《本当にあるわけではない》 これに引っかかるんだ。 そら、そうだ、これを書いている僕自身、何のことだか、さっぱり分からないもの。 《○○は、本当にあるわけではない》 と感じられないもの。 《○○は、幻のような物》 と言われても、そう感じられないもの。 分かっていれば、悟っているわいなぁ~。 仏教の本とかで、《本当にあるわけではない》《実在しない》《実体としてあるわけではない》という表現は、 《因(直接的原因)と縁(間接的原因)からできている》 と同じ意味だと解釈していいと思います。 《空》や《無自性空》と言ってもいいんだけれど。それでは、空をもって空を説明することになるからさ。 仏教の本なんかでは、空は、《それが実体として存在しない》や《自性を持っていない》と説明されているでしょう。 これは、《中論》の著者である《龍樹》の定義。 では、《自性がない》とは何かと言うと、 《因と縁で、(物や心は)生成する、できていること》。 物や心に《自性》《実体》があるのならば、なぜ物や心の生成に《因》や《縁》が必要か。《因》や《縁》は必要ないではないか!! まぁ、そういうわけ。 で、空を《無自性》と同じ意味にとらえるようになった。 なので、《空》は《無自性空》からではなく、もっとオリジナルの《縁起》から考えた方がいいよ。 つまり、 「《因》と《縁》でできているものは、《空》である」と考える。 「《因》と《縁》でできているものは、刹那刹那に生まれてはすぐに滅する、幻のようなもの」 ☆☆☆ ついでだから、《分別》の説明。 分別の、サンスクリット語で《vi-kalpa・ヴィカルパ》の訳語。ものを分解して考えるとか、ものを見るものと見られるものに分けて考えるということ。主観と客観に分けて考えるってこと。 (viは”わける”という意味の接頭辞。ドイツ語の”ver”と同じ意味。ドイツ語とインドのサンスクリット語は、同じ祖語から分化した言語なのよ) 華厳四観の○○○○観の観法は、 まだ主観←→客観、能観←→所観、能取←→能取の構造が残っているので、 厳密に言えば《分別》の世界。 つまり、まだまだ、迷いの世界なんだよねぇ~。 やれ、法身だ法界だぁ~、その光でホニャララだといくら言っても、 それを立てていること自体が《虚妄なる分別》の世界である証拠で~す。 ☆☆☆ でも、「あんまり《空》にこだわるのは、ちょっとどうかな」と思うよ。 空の意味の追求は大切だけれど、《空》に必要以上にこだわることを《空病》という!! 「まことに、カシャーパよ、もしある人々が空性という観念をつくり、その空性に帰依するならば、カシャーパよ、わたくしは彼らをこの教えにそむき、破壊するものとよぼう。実に、カシャーパよ、慢心ある者が空性という観念(空見)によって(自分の思想を)飾り立てているよりは、スメール山ほどにもおおきな個我の観念(我見)によっているほうが、まだしもましである。それはなぜか。カショーパよ、個我の観念を信奉する者を(自由な境地に)出離させるものが空性であるのに、その空性の観念に固執するならば、彼は何によって出離することができよう。」 (宝積経・64) 宝積経、すごく分かりやすいよ。難しい言葉をあれこれ使っ説明している小難しい本を読むより、 宝積経(大宝積経の第三十四章・迦葉品)を読んだ方がどれほど勉強になることか。 仏教の基本的な教えはすべてここで説明されているから、入手もしくは閲覧可能なら、《宝積経》の訳文を読んでみて。 できたら、漢訳からの翻訳ではなく、サンスクリット語からの訳がおすすめです。 般若心経も、漢文、漢訳からの日本語訳ではなく、サンスクリット語から訳したもの、 たとえば、 《般若心経・金剛般若経 中村元 岩波文庫》 を読んだ方が、理解しやすく、仏教の核心に迫れると思います。
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- NemurinekoNya
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どうもです。 ☆☆☆ 空の意味ですか? 僕が思うに、《空》をもっとも分かりやすく説いたのは 虚妄(こもう)なる分別はある。 そこに二つのものはない。 しかし、そこに空性が存在し、その中にかれが存在する。 です。 意味ですかぁ~? 「知られるもの知るものと(の対立)を分別する《虚妄なる分別》は存在する。 《虚妄なる分別》に、知るられるもの、知るものは、究極的には実在しない。 《虚妄なる分別》に空性(知られるものと知るものとが否定されている状態)がある。 空性の中に、《虚妄なる分別》が存在するのである。」 実に簡単でしょう。これに《空》《色即是空》《空即是色》のすべてが説かれている。 ☆☆☆ 実は、全然、分かってないんだ。何気な~く分かるような気はするんだけれど、雲を捕まえるようで、どうも分からない。 唯識の根本典籍の一つである《中正と両極端の弁別》(中辺分別論)の冒頭の詩頌なんだけれど、これの意味を理解できさえすれば、頭だけで大乗の《空》をつかめるはずなんだ。でも、できない。 もっともらしい説明をしようとすればできないことはないんだけれど、たぶん、僕の解釈は間違っている。 なので、これ以上、説明しません。 おそらく、《色即是空》は《そこに空性が存在し》に該当し、《空即是色》は《その中にかれが存在する》のはずです。 この詩頌(しじゅ)の意味が分かったら、よろしくです。 よかったら、君の解釈、聞かせてよ。 《その中にかれが存在する》がどうしても理解できないんだよなぁ、クッソ~!! ☆☆☆ 最近、思うのだけれど、 仏教に《空》なんて必要なんだろうか。 《諸行無常》(一切の形成されたものは無常である)で事足りるのではないだろうか?
補足
ひとつ前の質問で取り上げた“物心無寄観”に、「宇宙は本来絶対観念にて、宇宙自体は絶対にて主観とか客観とかの相対的のものに非ず。但し・・・・・」とありますが、『空』をどのように解釈すればいいのかのヒントになるような気がしています。 大昔は今ほど言葉の用語も多くなく、『空』を使わざるをえず、真理を顕わす為に「色即是空空即是色」と八文字を使いましたが、現代では「物心不二」の四文字で良いのではないかと思っています。 現代人は「物心不二」と説明された方が納得しやすいのではないでしょうか。 イメージとしては占い師が使う『大きな水晶の玉と、その中に現れる映像』が“絶対観念”。 でも相対的現象として存在する人間は、其れゆえに“他者”が(あるいは他者も)存在(現象)する(あるいはしてしまう)のだと。 『空』を使った説明はかえって解かりにくくしていると思うのですが。 回答ありがとうございました。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>「 」←? なぜ「 」が必要ですか。 本来は無い筈なのに。 残念。 スペースとenterだけじゃ。システム上回答できないので必要でした。
お礼
空欄の真ん中にぽつんと「・」を打ったら、「空」を表現したことになるんだろうか。 回答No.11のお礼欄をぜひ読んでみてください。 ありがとうございました。(2012/6/9 5:53)
補足
なるほど。 真ん中に「点」←(記号が打てず文字になっちゃいました。)だと、どうなるんだろう? 」
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
やあ。 確信犯の痴漢常習者君、お久しぶり。 生命の全一性と係るのだろう。 全一ゆえである。 その一言だよ。
お礼
Flareonさんがどうしてブラジュロンヌさんに対しては、従順であるのか、いや、そうなってしまうのか、それを考えると不思議だ。 ブラジュロンヌさんの「意志力」がそうさせるのだろうか。 負けているの? 回答No.11のお礼欄を見ていただけますか。 回答ありがとうございました。(2012/6/9 5:49)
補足
お久しぶりと云われても。。。 生命の全一性、ではなく 宇宙の全一性、の間違いでは・・・?
三種の般若の区別からすれば 上記の御文は観照般若に入ると思われます。 以下、窪内密雄師の「般若心経の味覚」からの抜粋です。 実相般若 観照般若 文字般若 実相般若と観照般若とは表裏一体をなすもので別個に存在するものではなく 前者は宇宙的な絶対の真理そのものであるが、後者は人為的な働きによる(観察)の知恵である 故に実相般若は所観の現象であり、観照般若は能観の知恵である 文字般若とは、実相、観照の両般若を説明するために言語文字で示す智慧 ・・・般若心経は文字般若の代表的宝典・・・ 上記の文からですが 実相が真理であるという事を明らかにする知恵を般若という だと思います。 行深般若波羅密多・・・瞑想の深い境地において 色即是空・・・・・・・・・・現象とは、そのまま真理そのものである だと思います。 ご参考にしてください。
お礼
窪内密雄師いついて、学んでみます。 解答No.11のお礼欄をどうぞ見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。(2012/6/9 5:32)
補足
窪内密雄師と云う御方を知りませんが、“現代”の御方の様ですね。 回答を見ると、この御方は実験(←実体験)した事を言葉に顕わしていると思いました。 ありがとうございます。
空について色々と言われていますが、難しく考える必要はありません。原始仏教の阿含経、大般若経の般若波羅蜜にはすでにブツダ自身が空の意味が説かれているのです。 【空とは幻覚(夢・催眠)という意味です。】 参考までに阿含経・大般若経から空について説かれた一部を抜粋してみました。 阿含経より------------------。 ********************************************* 『一切の衆生は皆死に帰す。一切は変異の法にして、変異せざらしめんと欲 することあたわず。大王まさに知るべし。人身の法はなお雪の如し、壊に帰 すべし。また土器の如く、壊に帰して久しく保つべからず。また陽炎の如 く、幻化、虚偽にして真ならず。空拳を以て小児を脅すが如し。』 (阿含経) ********************************************** 『一切諸行は皆空、皆寂にして、起こる者、滅する者是れ幻化にして真実 有ること無ければなり。』 (阿含経) ********************************************** 『今、無上の功徳を聞けり。我れ聞きて大いに歓喜す。牟尼の弟子に順い、生死の長期の虚偽、幻化の束縛を滅せり。よく諸愛を断除し、生死の彼岸を渡りてまた諸有をうけず。』と。(阿含経) ********************************************** 大般若経より------------------。 ********************************************** 『舎利子、譬えば幻師或いは彼の弟子の善く幻法に於いて種々五妙の欲具を幻作し、中に於いて自ら恣(ほしいまま)に共に相娯楽するが如し、意に於いて云何、彼の幻作、実有りと為すや不やと。』 ********************************************* 『善現、意に於いて云何。色と幻と異なり有りや不や。善現答へて言く、不なり世尊と。何を以ての故に、色幻に異ならず、幻色に異ならず、色は即ち是れ幻、幻即ち是れ色。受想行識も亦復た是の如し。』 ********************************************** ご参考までに。
お礼
「幻」という言葉の持つ“魔力” 仏教に心惹かれる人には魅力的な表現なのかもしれません。 でも“誤解”が発生するのでは? 「幻」という表現は、もしかすると宇宙の本体が「観念態」故、使われたのかも知れません。 どうぞ解答No.11のお礼欄を見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。(2012/6/9 17:26)
補足
ここに紹介していただいた「経」が現代の(明治から大正にかけて)文章になって顕わされたと、受け止めているのですが? ありがとうございました。
どうも私にはこの文章は当たり前のことをやたら古めかしい言葉を使って複雑難解にあらわしているようにしか見えません。 私も何かと縁があり、座禅会に参加する機会をいただいていますが… 仏教は我々の人格をより向上させるものであり、我々の日々の生活や人生で直面する難関の際にこそ役に立つものと伺っています。 しかし、このような難解な言葉を追い回してみたところで、畳の上の水練、道場稽古と同じで、果たして実際の生活や正念場にぶつかったときに、役に立つのだろうか、と思い悩むことがありますね。 まとまりのない所感で恐縮ですが、以上です。
お礼
ある日、だいぶ前の事ですが人の心は神や悪魔と繋がっているんだ(同質)と思うようになって、それからは人の心の好ましい世界(良心=優しさとか、思いやりとか)は神のこころの反映なのだと気づき、その心を育てる事が神、仏の御心にかなうことだと知りました。 此れだけでも精神的安定は得られましたが、宇宙とは?なんて哲学的疑問が解消されると云うことは、心の安定と云う意味で大いに実生活に役立っています。 どうぞ解答No.11のお礼欄を見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。(2012/6/9 17:17)
補足
当たり前のことを言っている、との感想いいですね。 文章が伝える真意を理解しての感想とは思ってはいませんが、yamohiroさんの人柄が好ましく思えてしまいました。 ありがとうございました。
「空」は概念ではないので、いくら考えても絶対に理解出来ません。仮に「空」を理解出来たと思ったなら、それは「決定的な勘違い」が心の中に生じた、と考えるべきです。「空」とは「理解するもの」ではなく「理解を超える事」なのです。 物みな空なり空こそ物なり、存在に実体無し、全ては心の現れだ、世界は評価だ、宇宙は意識そのものだ、真理とは「 」だ・・・みたいな感じで、何とでも言う事は出来るのですけど、これらの言葉は何も意味して無いですし、何らかの理解を促している訳でもありません。「何処か」をゆび指している様にも思えるけれど、実際には「人の心」をゆび指しているのです。 質問者様が引用した文章は「理解を促す為」に書かれたものでは無くて、「物と心は二つに別れている」と見なす、人類の認識に特有の錯覚、迷い、煩悩を指摘しているのです。錯覚を錯覚と理解すれば、物と心は二つに別れていると見なす事はなくなります。引用文を書いた方の狙いは、そこにこそある訳で、優れた方便とは、押し並べてこの様なものです。 質問者様が「これまでのもやもや感がいくぶんか、すっきりとしてきたように思う」のは、空性についての情報を整理し、理解を深める事が出来たからだと思いますが、残念ながら、それは「理解した気になれた」というだけの話でしかありません。引用文を書いた方は、質問者様の心を直々にゆび指しているというのに、あなたは「ゆび指していると思った方向」を見て、何かを理解した様な気になっているのです。心に残るとか、心に響くとか、そんな事は問題ではありません。
お礼
“高嶺の月”はどこから見ても満月とか三日月とか、同じように見えますが、富士山は視点が違えば姿の違いに気づきます。 宇宙の本体、あるいは真理なるものは視点が違うと姿が違うのでしょうか。 高嶺の月、よりも遥か高嶺にある“真理”なるものにいろいろ解釈が在るのは、視点の違いもあるかもしれませんが、其れよりも見る“眼”が、それぞれだからかと思うのですが。 複眼をもつトンボはこの世界をどう見ているのでしょう? 解答No.11のお礼欄をどうぞ見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。(2012/6/9 16:55)
補足
物心不二観を肯定されている回答と受け止めました。 ありがとうございました。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
「 」
補足
「 」←? なぜ「 」が必要ですか。 本来は無い筈なのに。 残念。
- kusirosi
- ベストアンサー率32% (2838/8859)
月並みの答えですが 私がならった解釈では 空 とは宇宙全体(因果律と仏法真理が貫かれている宇宙の実体) 色 とは私たちの内面世界・精神と、それが認識し感じ、触り見れる世界 色即是空空即是色 とは 梵我一如 ブラフマンとアートマンの合一 を さとることでは\(^^;)...
お礼
空=観念 こう受け止めてみるのはどうでしょうか。 解答No.11のお礼欄を見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。(2012/6/9 16:40)
補足
Kusirosiさんの現在の『空』観を以って、この質問として掲げた文章に接した場合、どんな感じがしますか。 まったく受け付けない、といった感じでしょうか。 現実感がありすぎて、却って遥か彼方の悟りの世界を説いているようには思えない、と云った感じでしょうか。 回答、ありがとうございました。
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お礼
読んでみました。中村元・岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』を。 時間が無いので熟読してはいませんが、ざっと読んで気づいてみれば、「観念」という言葉が出てこない! 当時には観念と云う言葉は無く、しかたなく「空」が使われたのではないでしょうか。 また“無い、無い”尽くしで説明している事は「宇宙の本体は絶体の大心霊体=観念態」であることを説明しようとしているように思います。 そして今回質問で紹介した文章に、回答者の皆様がそれぞれ何か引っかかるものを感じるのは、豊富な知識を持っているが故、とも。 私には無いので海綿が水を吸うように、?も含めて抵抗なく読めるのだろうと思います。 文章の一部を取り出して、全体観を観て欲しいという考えが間違いだと云うことに気づきました。 でも“確信犯”としては今回の小タイトル「物心不二観」がある、大タイトル《4》大圓鏡智、の初めの文章を写してみたいと思います。この文章の次に「物心不二観」が続くのですが、ここでは「空とは心質にして色とは物質なり」とはっきりと云っているので。 《4》 大圓鏡智 吾人の寫象と世界とは客観と主観とは別々なるも、其の本質内容に於いては吾人が寫象に相応するものなるが故に吾人は世界を寫象することを得るなり。若し客観及び主観の本性にして全然特殊のものならんには、いかにして吾人は之を寫象するの可能あらんや。 主観と客観と相ひ反対せる如くに感ずるは抑々(そもそも)何故なるや。 感覚的実在の世界萬物が、固湿暖動等の固体となり質碍の物と感ずる感覚的実質なるものは、一大意志、即ち力の勢能にして、力が吾人の意志力とは同質にして、之に触るるが故に吾人が之を固体また熱また湿等と感覚するなり。 本質は観念態に物象として理性的の故に規律的に産出し活動せるものを人、之を客観界の物質と感ずるなり。物質と感ずる寫象態にありて物質の重力及び熱また固形態等と触感するものは意志、即ち力の能なり。 色声香味等の物象と感ずるものは絶体寫象より、客観の実態として、一大意力によりて発動せり。この理性的規則、即ち天則秩序に時間的空間的因果律的なるは実態が理性態なればなり。 萬物の物象は客観の観念態より発動し、意志力の萬物に秩序整然たるは理性の故に、実態の相用の三大よく萬物を現出す。 宇宙は一大精神にして、相大と用大の属性あるは、例えば宇宙を塑摸(そも?)せる人の精神に寫象意志がありて、表相あり活動するが如し。 若し実態に三大の性能なからんか、焉(いずれ)に依って其の表相と亦た其の如き活動をなさしむるものぞ。 若し能観の心と所観の世界とが其の本質全く異なるものならば、否、人は如何にして之が寫象を可能ならしむるか。是れ奇怪ならずや。 然れども全くその本質の相は観念態にして、其の能力により之が天則規律に随って客観的観念、即ち物体と実現したるものなるが故に、人の主観的観念が之を寫象し、また再現することを得るなり。其の本質同一なればなり。 本質に於いては一体なりとて客観の実在と主観の心質とは現象に於いては反対に現じたるを以て、なりと云うべからず。相対的にまた能観所観異なればなり。 物体は力に実現せられたる客観観念なればとて、本質に於いて一致せることは拒むべからず。 佛教で色即是空、空即是色とは是れなり。空とは心質にして色とは物質なり。物質と心質とは其の本質にては相即して異なるものに非ざるなり。 絶対無碍観 如何にして無碍を観ぜん。世界あるも亦た無碍なり。自ら観念せよ。物質を通じて観念は無礙ならずや。 ☆ そしてこの後に質問文の「物心不二観」が示されます。 回答ありがとうございました。(2012/6/9 12:20)
補足
早速、紹介していただいた“本”を読んでみます。 教えてGoo!らしくなってきた。 ありがとうございます。