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般若心経の「受・想・行・識亦復如是」の解釈

「色不異空空不異色色即是空空即是色」という文に「受想行識亦復如是」と続きますが、なぜ「受想行識亦復如是」という文言が必要なのでしょうか?「受想行識」は「色」に含まれないのでしょうか?そもそも、「色不異空空不異色」という文言があれば「色即是空空即是色」は不要だと思うのですが、どうなのでしょうか?

みんなの回答

回答No.10

こんにちは 「受想行識」には「色」は含まれません。 「色受想行識」の5個で、全世界を意味する仏教用語の五蘊(ごうん)となります。 色は簡単に言うと「物」です、「受想行識」は心に関するものです。 「「色即是空空即是色」は不要」の部分ですが、般若心経はとても短いお経です、 ですので、不要な表現は極力されていない見るのが普通だと思います。 なぜ、ここに逆を書いてあるのかは、難しいので書くと長くなりますので、 ご自分で調べてみると良いと思います。 参考までですが、指摘の部分は漢訳なんですが、原語のサンスクリット語では、 3回同じような事が記述されています。(漢文は2回です)

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.9

同じ言葉を2度並べるのは(古い原典訳の)仏教の経典の特徴とも言える事です。 般若心経、は大般若経という、大乗教典あるいはヒンズー教典、を圧縮したもので 玄奘三蔵が276文字に漢訳したものです。 般若心経に限らず、漢訳教典の言葉の多くが、当て字、発声に漢字を当てている。 意味はない、意味は、元の言葉の意味を調べるか、原典から日本語への、 直接訳の書籍を読むかでなければ、意味は解らないものなのです。 困ったこと?に漢字には意味を持つ文字であり、発声に漢字を当てると。漢字の意味 に規制された、別の意味、概念が起こるのです。 空とは、インド人か(テレビでですが)ゼロの意味だといっていましたが。 原典の日本語訳では、 実体のないもの、となっています。それを、空、と漢字文字を当てると、 実体のないもの、とは、と考えたり論じたりはせず。 空、とは?などとなり、文字通り、空論、になるのではないでしょうか。 般若波羅密多心経、略して、般若心経、ですが。原典訳は「知恵の完成の章」と なっていますが。 般若波羅密多、ハンニャパラミータ、の当て字で意味は 知恵によりて見る、理法に照らして考える。のようですが。 般若心経では、(釈迦の)菩提樹の元での(瞑想思索の)修行形態、となっている ようです。 色即是空という言葉は、3世紀頃?クラマジュウ、が。諸行無常と一切業苦という 理念を一緒にして、仏教の真髄として、形あるものは変化し移ろいゆく空しい ものである。というような意味で伝えたもののようです。 それが日本人の無常観となっている意味もあるようです。   しかし般若心経の色即是空はそういう意味にはなりません。 原典訳では、色即是空の部分は シャーリプトラよ 実体あるものには実体ない、実体のあるものないものが 、実体あるのなのだ、・・というようなものですが。 シャーリ-プトラは、知恵第一とされた、釈迦の弟子の名であり。 語っているのは釈迦本人となります。 知恵の完成の章、と名付ける書に、釈迦を登場させる、とは 。釈迦の知恵、理法、を説明しょうとする試みと見るべきでしょう。 そうであるなら、舎利子以下の意味は 形あるもの、は、変化、をするものである。 変化をするのは、形あるもの、である。 形あるものと、実体のない変化を起こすもの、縁、は別々のもの ではなく、一体のものである。 縁=起 であり。 因(過去の起)×今の縁=起(次に起こる、縁起)というような意味に なるはずです。 玄奘訳の般若心経 では 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 色と空とは異ならない、色=空 あり、空=色である。 受想行識亦復如是 人間の行動認識という、精神活動 も、実体のある、肉体や脳、と一体の、実体のない、能力、内側からの縁 によって、行動をし、認識や妄想が、想起する。 という同様の在り方、起こり方。になっている。 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 すべては空の、相(=色) すなはち  空×色=諸法 であり、 今、が色と一体の空=変化を起こすもの、によって、変化、転化、をしてゆく のであるから。新たに、(色=空が)誕生したり、消滅したりすることはなく、 転化したものに、善悪、美醜、などの評価をする意味はなく、(色=空が) 増えたり減ったりすることもない。 すなはち、 色×空=世界=一定 である。 般若心経は(明らかに)複数の著者の文章を繋ぎ合わせたものであり。 無・無・無・と意味にならない(仏教ニヒリズムは起こる?)文節や、 自画自賛、我田引水、のコマーシャル文章が含まれる中で 何故か?舎利子以下の文節だけは、別品、別格、であり。当て字も少なく、 理論になっているのです。 何故か?の答えは。「老子」の 道は道にして、常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。 有を天地の祖に名付け、無を大地の母に名づく。 もって無はその激(能力、方向性?)を現さんと欲し、 有はその嬌(色形?)を誇示せんとす。 という文章と、全くと言えるほど、考え方が同じであり、表現も似ているのです。 玄奘は、老子を知っており、老子を当てはめた。 のではないか。という事です。 ついでに、般若心経の最後の一節は、すべて当て字で。 原典訳には、世界で最も美しい旋律の詩といわれているそうで。 ガーテ ガーテ ハーラ・ガーテ ハーラ・バンガーテ ボーディン・スハーハー 往ける者 往ける者、彼岸に往ける者、さらに彼岸に往ける者 悟り、に感謝(布施を?かな) 不生不滅不垢不浄不増不減

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.8

お礼拝読しました。意味不明で伝わりませんでしたか。申し訳ありません。説明を簡単化するとそんな気心経の講釈になってしまいますので。学問としての仏教には膨大な情報量がありますよね。それらの経典群を読まずに是一つで済ませられるといううたい文句の便利品が般若心経。いわば宗教内宗教。 効き目もさることながら、もとより得体の知れないものだけに、いろんな意訳がありえると思うのですが、今回のご質問は、冗長な重複表現の構造をテーマにされているので、その構造が維持された意訳にしなければ説明しない誤魔化し回答を許してしまいます。なお私の意訳はご質問の解決を優先するためにいびつにデフォルメしています。心理的に綺麗な意訳では本末転倒になります。 完成度の高いお経とされているのですから、不要な文や重複は一切ないことを前提にすべきです。それが誤解の始まりであったとしても、後世の者が論理的に再構築すれば本来の思想が保存されません。それを無視してきたがためにもはや釈迦とは別人のお説教になっているでしょう。 即是でも不異空でもどちらをこの例に取り上げてもいいのですが、仮に、不異空が同一の意とする場合、色不異空は、「色=空」となり、この文句で完結します。色不異空だけで十分でしょう。あらためて、空不異色「空=色」と繰り返せば、それこそ重複となり、重複を新たに追加する解釈になります。 例えば、「A即是B」と「B即是A」の対にみえる表現が、逆もまた真という構造だという説ならば、それにあった単文の意訳が必要です。 A→B 、 A←B と意訳して、(言外に、A⇔B と註釈すれば、)原文の重複様構造を重複ではないと説明できます。よって回答の一つになります。 A=B 、 B=A では賢い人には受けの悪い説教になるでしょう。仏教が廃れた原因なのかもしれませんが、無分別智を唱えるにしても、お経の文章には分別がなければなりません。真理と異ならない表現を求めるあまり、常人の論理を超越したと称して、空想的な言葉をあてがっても、誤魔化しです。題目ギャテー念仏は論外として、お経本文は、あくまでも分別のある言葉によって言外に無分別智を構築するのです。 一般的にもっとも知られている「色即是空 空即是色」が「色=空 、空=色」になるのでは無様に思いますが。 不異から即是への展開が、認識段階の成長を表現しているのならば、 「色不異空 空不異色」よりも 「色不異空 色即是空」の方が誤解を生まずにすみます。 文章の構成として先に五蘊皆空という結論を上げていますので、後半の方が総合的知見になるという設定は先入観ではありませんか。むしろとりあえず私は、「色が空に異ならない」の方が総合的結論で、その結論をふまえて、その後で、色はすなわち空になるでしょうという文脈に思います。今回の説明のためだけに無理にたとえれば、色不異空の方が前提的真理であり、色即是空の方は悟り方の説明と言えませんかね。認識方法の方を高次元にするのは自我偏重に思います。作用や法則は、設定そのものが原理の本性なのですから、即是空ではなく不異空を根本と見るべきではありませんか。 「以下 羅什訳心経より」質問者さんの発想転換のためにも比べて見て下さい。 http://www.sarvajnana.com/archive/essay/heart.html 羅什訳では「非色異空 非空異色 色即是空 空即是色 受想行識亦如是」 さらに玄奘の方には無い、その前の部分があります。 「舍利弗色空故無惱壞相。受空故無受相。想空故無知相。行空故無作相。識空故無覺相。何以故。」 般若心経の元とされているお経の方には他にもたくさんの情報があります。 省略された経の身軽さが人気の訳”わけ”だったとしても簡単に解釈の疑問を捨てられる事はないと思います。文字を記す限りは完全な無心になれないのですから。

noname#156094
noname#156094
回答No.7

>受想行識亦復如是・・・ 受想行識もまたかくのごとし、の意味です。 ということは、受想行識もすべて空である、と言っていることになります。 物質的現象は空である 精神的現象のすべても空である およそ現象のすべては空である、と言いたかったのでしょう。 空とは何か、を問う前に大切なのは 般若心経は瞑想の体験の描写であるということです。 通常の認識状態とは異なった、禅定の三昧の内容であるということです。 深般若といわれる無分別智の働きは、深い直観による把握を意味します。 その把握の内容は、現象が無我であることの同時性と同一性を明らかにしたものです。 「色」を最初に取り上げて説いたのは、そこから無分別智の対象にしてゆく、という意味があるのではないでしょうか。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 瞑想の体験の描写であるので文言の順序にも意味があるということを知ったのは、ここで質問したことによる大きな収穫でした。

回答No.6

 こんにちは。  空観の問題であり さとりとは何かだと見ます。  ▲ (中村元:『龍樹』)~~~~~~    《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは    存在しない。    《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものを    見る者は 〔実は〕見ないのである。    (ナーガールヂュナ:『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)  という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。      (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)  ~~~~~~~~~  ☆ これが 《空》観であるようです  この《空》なる見方に立てば 生死即涅槃 娑婆即浄土 煩悩即菩提 あるいは 即身成仏であると言います。  つまり 何らかの《空》ないし《無》なるものがあるというのではなく さりとて《慈悲》なり《仏の智慧》なりがそれとしてあるのでもなく 世界をどう見るか その転換だけで決まるということなのではないでしょうか?  目覚めたあと・覚ったそのあとも けっきょく同じ世界を見ているはずです。世界は ブッダにとっても凡夫にとっても 同じ《生死》の苦楽ある人生であり 生き難くもある《娑婆》であり なかんづく しがらみのようにくっついて来る《煩悩》であり《無明》であるということのようです。  でも ただ おそらく その息吹きがちがうというわけです。風景とか光景というなら 同じ世界でもその風や光が違っているのでしょう。  よく《あるがままに見る》と言ったりしますが これは語弊が多く生じると思います。何もしなくても ただ見ればよいと言っているようにも映ります。  身(色)も心(受想行識――《行》は 意志作用のようです――)も あるがままに見ても そこに真理やさとりが見て取れるとはあまり思えません。ゆえに 色即是空および受想行識即是空。  しかもこの世界――身と心とのこの世界――を離れてさとるものではないのだと。ゆえに 空即是色および空即是受想行識。  ★ 「色不異空空不異色」という文言  ☆ これはあまりよく分かりません。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 色即是空空即是色の一つの解釈として参考にします。

noname#150036
noname#150036
回答No.5

中国製の漢文を そのまま理解しようとしても 日本人にとっては なかなか難しいものです。 もしよかったらボクが訳してみますので御一読ください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( 舎利子 色不異空 空不異色 ) 舎利子よ聞きなさい。この世の中の現象は実体のない空である。 空であるから現象となってあらわれる。 ( 色即是空 空即是色 ) よって現象は空と一体であり、空は現象と一体である。 ( 受想行識 亦復如是 ) 感受表面に於ける感覚も、ものごとを想起することも、 体内に於ける意思活動を行うことも、認識もまた同じく 空である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上記の訳文をもとにして 同じ意味の文言が繰り返される理由 を説明します。 「色」および「受想行識」は「空」と一体である。 一体であるからこそ それぞれに順位はないのだから それぞれを主体とした文言を 並べる必要があったのである。 もし「空」「色」「受 想 行 識」のうち いずれかのみを 主体とした文言だけで済ませた場合 それだけが主体として 理解されてしまい 「あるがまま」ではなくなる恐れがあった からである。 般若心経の極意は 「あるがまま」であるのだから。 ここで疑問が湧いてくるはずだ。なぜ「受想行識」が ひとくくり にされたのか。 それは めんどくさかった からであろう。 もし めんどくさがらずに 記述するならば 受不異空 空不異受 受即是空 空即是受 想不異空 空不異想 想即是空 空即是想 行 以下同じく繰り返しとなるため 省略された可能性が高いのだ。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 色と空のみだと、「受想行識」がその関係の中に含まれないと誤解される恐れがあったので、わざわざ、「受想行識」についても述べているのですね。

noname#156094
noname#156094
回答No.4

色とは物質的なものを指し、受想行識は精神的なものを指しています。 色受想行識とは五蘊ともいわれ、外界も含めた(人間が知るところの)現象のすべてを表しています。 「空」という言葉は、現象は縁起によって成り立つものであるところから、自性なきものであり、無我であるということです。 色即無我、でもよかったのでしょうが、「空」と表したのにはそれなりの意味があると思います。 原語では、、「空」とは「ふくらむ」という意味も含まれています。 ただの無我ではないことを指しているものと思われます。 「空」そのものについては割愛します。 ご質問の答えの要となるものは、「即」と「深」だと思われます。 「即」とは 「速やかに照合されたものにおいて完全に等しい」 ということです。 「不異」とは、「異ならず」であって 「即」における、瞬間性と、完全に同一である、というところまでは至っていない認識の状態です。 「不異」から「即」に至ることを「深」と表しています。 般若から深般若へとも解せます。 実際には、分別智から無分別智への深まりなのでしょう。 意識における概念的思考から、感性における直観的思考(照合)へと深まり、さらにまた概念的思考から直観的思考へと、繰り返し深められていく状態なのでしょう。 そしてこれ以上の深い認識はない、という状態が「深般若」なのでしょう。 「深般若」において、現象と空は同一である、という結論が導かれたのだと思います。 「不異」から「即」に至る表現が必要だったのは、無分別智の重要性を説くことが必要と判断されたためだと思われます。 概念的思考だけでは「空」に到達できない、という事を示しているのだと思います。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「色とは物質的なものを指し、受想行識は精神的なものを指しています」とは、受想行識は色に含まれないということでしょうか?だとすると、「色即是空空即是色」という文言によって、受想行識は空ではないということになり、「受想行識亦復如是」について、ますます謎が深まります。 不異と即の差異についてはよくわかりました。言い換えにはそのような深い意味の差異が表されていたのですね。

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.3

『照見五蘊皆空』 「五蘊どれもが空である」 五蘊とは色受想行識の五つです。色と受と想と行と識が五蘊です。 では、色から始めましょうね。 『色不異空 空不異色』 色は空に他なりません。空は色に他なりません。 ですから…… 『色即是空 空即是色』 色は空になります。空は色になります。 『受想行識亦復如是』 残りの四つ、受想行識にも同じ関係が成り立ちます。 以上が私の解釈になります。 最初に、五蘊と空の関係を宣言し、一例として、色と空の関係を提示し、色と空との変換を説いています。 ですから、よく構成されている文章なのですね。 不思議に思うべきは、むしろ、空不異色と空即是色の文句です。 これは折り返しで逆もまた真なりを書いたでは済まされません。 まともな(西洋式)論理では考えられない事を説いています。その目茶苦茶さは、ちょうど女たらしが、五人の相手一人一人に君の他にはいないと言っている心の広さに似ています。 「空は色に他ならず、空は色になる」だけならいいのですが、その他の受想行識もまたそうだと言うことなので、「空とは、色に他ならず、受に他ならず……」となってしまいます。 完全に仏飛んでます。もうあとはギャーテーギャーテーに任せるしかありません。 さっさと呪文を唱えて、長い議論は終わりにしましょう。それが行深般若心境らしいのです。人気の秘訣ですね。 この回答は私の考えに他ならないということはありませんが、私の考察を含んでいます。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 普通に、表面的・論理的に理解しようとしていたので、質問のとおり、重複箇所が気になっていました。回答して頂いたたとえが私には難しすぎるのですが、私も、この重複を興味深いと思っています。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

そもそも、「色不異空空不異色」という文言があれば「色即是空空即是色」は不要だと思うのですが、どうなのでしょうか? ○ 空の思想を持ち込んだナーガル竜樹というお坊さんは天才(哲学的に)といわれたお方でね、同じことを2度繰り返すような下手な素人のようなことはしていないのですね。 「不異」と「即」とは定義や意味が違っているからそのように使っているのですよ。 論理式で言うと、「含まれる:including」と「同じ:equal]派違う表現になりますね。それと同じです。 色は空に他ならず(含まれる)と、色は空である(等しい)とは同じようで同じではないでしょ。論理的に順序だっていますよね。むしろ「色不異空空不異色」の色、あるいは空と「色即是空空即是色」の色と空が同じものであるのかどうかを考えさせますよね。大きな範囲から小さな範囲へと順々に説明していると考えたほうがより天才的ですね。 「受想行識」は「色」に含まれないのでしょうか ○ 花と花が出す香りが同じものかといえば「花の香り」も花の範疇に入りますが違うといえば違うものですね。色、つまり肉体と肉体を基とする五感や考え行いも肉体とは違うといえば違いますね。 それゆえ「色即是空空即是色」のあとに「受想行識亦復如是」といているわけです。 でも最初に、大枠で「色不異空空不異色」といっていますので、「受想行識」も「空」に含まれるわけですね。空というのは無とは明らかに違う意味で使っています。これはエネルギーが変転する姿を明確にするために「空」を持ち込んだからですね。 竜樹の時代も、死んだら何にもなくなる、無になるという間違った教えが広まっていたのであえて空を使っただけですね。無も目には見えないが変転しているということだったんですが、いつの時代もおなじですね。文字に囚われて本当の意味がわからなくなるのですね。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かに、「色は空に他ならず」 と、「色は空である」 とは同じではないですが、「色不異空」の後に「空不異色」と続いているので、この8文字の組み合わせで既に「色即是空空即是色」を意味しているのではないかと思いました。色即是空空即是色は言わなくても支障はないのではないかと思いました。あっても、矛盾はしないのですが、なくても問題はないと思いました。それゆえ、「色即是空空即是色」という箇所が気になりました。 ”「色不異空空不異色」といっていますので、「受想行識」も「空」に含まれる”のに、敢えて「受想行識亦復如是」と述べて人々が誤解するのを防ごうとしたということでしょうか。

回答No.1

仏教の根本思想は「空」の一字に帰すと言えますが、 これを般若心経では、色即是空 空即是色と説明しています。 色即是空は空のもつ否定の方面を現わし、空即是色は 肯定の面をいいあらわしています。 これで言いつくしていると言えなくはないのですが、 余りに短かすぎます。そこで、色即是空 空即是色を さまざまな方向から、いろんな言い方で民衆に伝えようと しています。 したがって、同じことの言いかえや重複した表現があるのは やむをえないのです。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 分かりやすく伝えるために言い換えや重複があると考えられるのですね。

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