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悲しみへの答え

悲しみに答えはあるのでしょうか? 悲しみへの答えとは誰が与えてくれるのでしょうか? 悲しみへの答えとは言葉なのでしょうか? 涙とは、悲しみへの答えなのでしょうか? さまざまな悲しみがあります。 悲しみを通過して答えがあったとするならば、どのようなものだったのでしょうか? 悲しみの底を通して、生きるということを明らかにしてみたいと思います。 事例ではない抽象論でも結構です。

みんなの回答

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.6

大切な人を失う悲しみに較べたら 他の悲しみなど屁みたいなものです。

noname#156094
質問者

補足

補足しておきます。 悲しみとは、感性的伝達の対象が失われたという場合が最も強いものであり、また、殆どでもあるように思います。 そこには感覚や直感による対象の確認が失われたという事において、「負の閃き」がもたらされているのだと思います。 この「負の閃き」こそが悲しみという感情を招いているのではないでしょうか? 簡潔に言えば 悲しみとは負の閃きです。 悲しみへの答えとは、負の閃きへの答えです。 悲しみを通過したとすれば、そこには負の閃きに対する何かがあったのではないでしょうか? 以上補足します。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

さまざまな悲しみがあります。 悲しみを通過して答えがあったとするならば、どのようなものだったのでしょうか? ○日はまた昇る。太陽はあらゆるものを飲み込んで西に沈みまた昇ってきます。また昇ってくるから、今日のあすの希望がある。そんな感じですね。 >悲しみに答えはあるのでしょうか? ○ありません。 >悲しみへの答えとは誰が与えてくれるのでしょうか? ○誰からもありません。ただ、時の流れ、年月が記憶を薄く薄くしてくれるだけですね。 ただ言えることは、誰しも同じなんですね。自分だけが悲しい思いをしたわけではないことに気づくための歳月ですね。 >悲しみへの答えとは言葉なのでしょうか? ○悲しみも喜びもただ人生としか言えないですね。人生の一片といっても言葉になるものではないですね。 >涙とは、悲しみへの答えなのでしょうか? ○涙はただ枯れるだけです。喜びにも悲しみにも涙はありますが、悲しみの涙は枯れるだけですね。 シエクスピアのように人生という台本を見せられれば単なる泣き役でしかないのかもしれませんね。舞台裏にもどってみんなで楽しくコヒー飲みながら、語り合いたいものですね。その時初めて悲しみの意味がわかるかもしれません。生きている限り悲しみは消えることはないですね。人生という舞台を終えて舞台裏に戻ればみなニコニコと待っていて語り合える。そのように信じることのみが明日への希望ですね。

noname#156094
質問者

お礼

>生きている限り悲しみは消えることはないですね。 ありがとうございます。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.4

感情ですから、どこまで沈んでも沈み切るというものではありませんが、 悲しみの迷路のような感情を景色の一部として抱え込む理路を、 心の中に得ることもあるでしょう。 生きる道にはいろんな理があって、 メリットに向かう心の健全が自然にそれを見出すのです。 それが良いとか正しいとかではなく。 一日は一日、と言います。 沈み込み溺れても一日、身を起しても一日です。 生きるつもりなら感情を堪えて生きるのが当然ではありませんか。

noname#156094
質問者

お礼

>心の健全 ありがとうございます。

回答No.3

悲しみは問いでは無いので答はありません。 答があるのは問いに対してのみ。 賢い問いを発するものは賢い答を得る可能性が高いです。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.2

 母の体内に宿る生命、命には、まだ悲しみはない。    誕生。  母の体外に出た瞬間から“悲しみ”は発生する。  悲しみ、それは親からはぐれた迷い子、故に。  悲しみ傷つく我が心を癒す為に、母の胸を求めても親は無く、自立せざるを得ぬ。  自立心の力は、“悲しみ”を他者への思いやる心“慈悲の心”へと変換する。  ☆ 人が流す涙は佛の慈悲の涙。    

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.1

1.自分を知らない悲しみ: 自我仮説(時間的流れ)と時空仮説(空間的広がり)の 相補分化=自己存在のための必要としての環境の 認識を深めず、現象表面的な対立=自己チューな 意識の短絡的(即物的)充足において、他人と争い 環境を破壊し、自己淘汰において進化を導く。 2.自分を裏切る悲しみ: 社会生命性の自覚化による自律的社会行動=愛に よる助け合いとしての労働=自己存在の本質に根差 した意志による、生存自体による充足を目指さず、 お金や地位といった“馬車馬の目の前のニンジン”に よって他律的に社会性のコースを走らされる事により 社会は、実質的には分業=助け合いながら、意識と しては奪い合う、弱肉強食の疑似ジャングルとなる。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。

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