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答えの出ない質問ですみません。
皆さんどのようにお考えか知りたいと思い、質問いたします。 善人(と私が主観的に思っている人)が若くして、苦しみながら病気で亡くなるかと思えば、どうして悪人(と私が主観的に思っている人)がのうのうと生きているのでしょうか? これに納得できる答えを見つけるのはもちろん自分自身なんですが、そのヒントは宗教の中にあるのでしょうか? (もちろん人により異なると思うんですが)。 運命だと思って事実のみを受け入れるしかないのでしょうか?そのように思考を放棄するのが一番楽で納得できるんですかね。。 善人、悪人という私自身の主観がそもそもの間違いなんでしょうか。 しかし、前世からの因縁があってそれが現世で表れた、と言われても、、ぜーんぜん納得できません。そのように考えて納得できる人がいるからそういう考え方も生まれたんだと思いますが。 また、ひき逃げとか、特に理不尽な理由で亡くなる人って、、どうしてそんな人が存在するのでしょうか? 私は(世の中のそういう摂理なり真理を)こう考えている、など、、何でも良いですし、俺も私も納得できない!などなんでも構いませんので、お答えいただけましたら嬉しいです。 抽象的なことで申し訳ございません。
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質問者が選んだベストアンサー
あまり前向きな答えにならないことをお許しください。 私が思うには、本来的に善悪ということと、生死ということがどうして関連があるとお考えですか? 質問者のお考えでは、「善」は人間の背後にいる「神」のような存在に保証されていて、だからこそ善い人は良く生きることができなければならないということになるか、「善」は、少なくとも社会において必要とされているもので、それに相応な待遇を受けるべきだという考え方(所謂「勧善懲悪」主義)としかならないのではないでしょうか。 つまり、人によっては生きていることが必ずしも幸せとは思わない人(浄土仏教など)、自ら艱難辛苦を求めることに喜びを見出す人(マゾ)などがいます。 話が少し転換しますが、生の喜び、即ち一生における幸福はどこに見出されるのか? 思うにそれは、本人の満足でしょう。例え若くして亡くなっても、本人がそれでいいと思えるならば、究極的には他人がとやかく言うことではない。逆に、死ぬに死ねなくて、周りに縛られて、誰にも尊敬されるどころか大事に扱ってももらえず、自分でも自分を認められないまま生きていることを幸せといえるでしょうか。つまり、この脱線は、質問者の意図の確認です。善悪に関連する(させたい)のは、生死ではなくて、善が報われ、悪が罰せられるべきだという発想についてのはずです。 ここで、この善が報われ、悪が罰せられるためには、二つの方法があります。 一つは、社会的に保障されること。たとえば、善人は褒章等で正当に評価され、罪人は刑法できちんと罰せられるという社会制度によるもの。しかし、これは予算の制約もあるでしょうし、人のやること、すべてをすべてというわけにはいきません。役人の手を煩わせるために、陳情でもしましょうかということになります。 もう一つは、超越的な存在によって保証されること。ただ、超越的な存在を認めてしまえば、これに対して文句を言うことはできませんので、傍目にはかわいそうにという事態、納得できんということも、本人はこれでよかったのでなければいけない、ということになります。個人的にどんなに理不尽に思えても、そこはそれ、超越者が認めた結果なのだから、本人はとっては決してそんなことはない、といことでなければなりません。 なので、結局あとは、「傍目に他人の人生を評価できるのか」という問題が残ります。善悪の主観性ですが、完全な相対性を認めることができないことは、ソクラテスの時代からの議論です。カントが言うように、内なる善は、それが社会的なものにせよ、遺伝子によるものにせよ、ないとはいえないでしょう。だから、ある程度共通的な「善人」「悪人」はやはりいて、片や病に苦しみ、片やのうのうと生きていたりするのでしょう。しかし、それに対して個人である我々が何かをしようとすれば、個人を超えた立場に立たなければならない、前に挙げた社会(お上)や超越者のように。そして、そんなことができないから、苦しく、辛い。 質問者は、とても優しい方ですね。解決にはならないでしょうが、あなたが誰かに対して理不尽を感じて共感したのだとしたら、その人にとってはそれが大きな幸せに繋がることではないでしょうか。のうのうと生きている悪人も、「悪」が存在するという前提に立てば、自分が悪人だと知って苦しむこともあるでしょう。 答えができませんでした。すみません。
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- sally-m
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以前私も同じようなことを考えました。スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」という映画では、悪いことをする能力を人類の全ての人の頭の中から取り除いてしまったらどうなるか、がテーマになっているというようなことをラジオか何かで聞いた時、善人だけが生き残っていくことが人類のためになっていくのか?改めて考えさせられました。(私はまだこの映画を見ていないので、内容が本当にそうなのかはわかりませんが。) どうしてあんなにいい人が亡くなって、私が嫌いだったり皆から疎まれているあの人がこんなに長く生きているのか・・・・。神様というのか何かもっと大きな存在が、人類が進化するために与えているものなのかもしれないと、私は思うようになりました。確かに、もし自分の毎日がシアワセで何の苦労も無く、失敗も、人とのトラブルもなく、周りも自分も全くの善人だったら・・・と考えるとちょっとそれはそれで恐くありませんか?永遠に死なない自分を想像するのと同じくらい怖いような気がします。(もちろん、死ぬのもとっても怖いんですけど) 質問の答えとずれていたらごめんなさい。
お礼
sally-mさん、貴重なご意見ありがとうございます。 結局は、「あんなにいい人」とか、「私が嫌いだったり皆から疎まれているあの人」に、差なんてないんですよね、、そう思うようになりました。 神の下では平等かもしれません。
- gekkou
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#9です。 >仮に、世界にはひとりの人間とその人が食べる食料しかいないとします。 と表記してしまいましたが、正しくは、 >仮に、世界には二人の人間とその人が食べる食料しかいないとします。 でした。お恥ずかしい。
- gekkou
- ベストアンサー率21% (50/235)
私は道理的に納得は出来なくても摂理として受けとめることはできます。 他の回答者様から既に解答はでていますが、全て偶然の産物といえるでしょう。 つまり、そこに理由は無いのです。 そもそも私たちが生まれてきたのも偶然。その人が辿る運命も、死に方も意味のない偶然です。 ですが、不思議なことに人間はそこに意味を求めてしまいます。 仮に、世界にはひとりの人間とその人が食べる食料しかいないとします。 いつかは二人とも死んでしまいますが、一方の人間が食料を独り占めするためにもう一方の人間を殺したとします。 そこで初めて「殺された善人」と「殺した悪人」が生まれ、悪人が善人より長生きする事になります。 極端な例ですが、真理などとは違いますが、悪が善より長生きな事由を簡略に理由づけるとしても、この程度の事だと思います。
お礼
gekkouさん、貴重なご意見ありがとうございます! >私たちが生まれてきたのも偶然。その人が辿る運命も、死に方も意味のない偶然です。 これを読み、ある事を思い出しました。 グリム童話の一つに、登場人物(動物)が次々出てくるんですが、最後は全部死んでしまうという内容です。 これに意味を求めてしまうと、何の話やらさっぱりですが、運命は偶然であると考えるととても納得できました。 善が悪より長生きする、というお話もありがとうございます。善悪と寿命の長短、幸不幸は全く関係ないことであると、他の皆様からの投稿でも学ばせていただきました!
- seiso
- ベストアンサー率20% (73/352)
こんにちは。 Ryu831さんの仰る通り、こういうのは答えがないのかもしれませんが、私なりの考えを書かせて頂きますね。 >これに納得できる答えを見つけるのはもちろん自分自身なんですが、そのヒントは宗教の中にあるのでしょうか? 宗教は正直なところよくわかりませんが、仏教、キリスト教など、その、み教えにとても心打たれるところがありますね。(私の知る限りにおいてですが) 唯物論者には理解できない世界かもしれませんが、人間は神様から分かれて創られ、宇宙神(創造主)、神界、霊界、幽界、肉体界、と世界がそれぞれ分かれているようです。 いわゆる人間界(=現世)というのが、肉体のある世界を指していると思われますが、肉体と、魂が離れるのが死ということになります。借り物の肉体が無くなると、魂だけになるそうです。 現世で、肉体を持ちながら霊界へ行かれた人もいらっしゃるようですが、魂だけは自由に過去世、現世、来世と霊的に行き来できる人、となるのかもしれません。 現世で、人間は何代も前の過去世からの業因縁を消し去るため(=修行)に生かされている、と聞いたことがあります。過去に徳積みをたくさんされたご先祖様が多くいらっしゃれば、それだけ現世では徳積みをする必要が少なく、幸せになれるようです。 ですので、ご先祖様に手を合わせて、いつも感謝する心が大切で、現世でさらにたくさん善の行い、いわゆる徳積みをすれば、子孫も繁栄、それが来世に繋がると思います。我欲など、自分勝手なことはできないということになりますね。 人間が神の分御霊であるとすれば、悪はなく、善のみで、(二元)対立の世界ではない、ということになりますし、人の尊厳ということがとても大切になってきますが、悲しいことに、人の魂は生きていく間にさまざまな悪想念で覆われていくこともあると思います。 >善人(と私が主観的に思っている人)が若くして、苦しみながら病気で亡くなるかと思えば、どうして悪人(と私が主観的に思っている人)がのうのうと生きているのでしょうか? 話が逸れてしまいましたが、人間すべて天命を持って生まれてきていると言われています。 善人が、はかなくも病気で苦しんで亡くなる、側でみていると居た堪れなくなるかもしれませんが、こういう人は実は、まわりの人にすばらしい恩恵を与えていると思うんですね。残された人へ命の大切さとか、まっとうに生きるんですよ、とか、病気や、死の原因が何か社会的に問うところがあればそれを示し、伝えるなど、そういう役目をはたしていらっしゃるんじゃないかなと思います。 現世ではその天命をまっとうできない、例えば、あまりにも純粋で心がきれいですと人の多く想念の汚れ切っている現世では、その人はこのままでは生き辛くなり、この人と現世では合わないなと判断された神が、来世で、輪廻転生を繰り返してその人を復活させる、という考えも一理あるんじゃないかな、と思います。 >また、ひき逃げとか、特に理不尽な理由で亡くなる人って、、どうしてそんな人が存在するのでしょうか? 本当に理不尽だと思います ですけれど、人には良心(仏心に通じますね)というものがあり、これが随分助けていると思うんです、悪いことをするとこの良心が咎めたりしますから。 こんな悪い人が生きて・・となると思うのですが、なにがしらその人の存在があってのこと、こういっては御幣があるかもわかりませんが、反面教師的な意味で、周りの人にこんな生き方ではいけないな、とその人の生き様を見て感じることってあると思うんですね。 人それぞれ生まれた以上、本人がこのことを認識する、しないに関わらず必ずその人なりの天命を持っていると思います。 人間は真理、自然の摂理に触れ、現世でそれを実行していくことがとても大事なことだと思います。 本来、人の”あるべき姿”があり、この姿に戻る・・と表現すればいいかもしれませんが、”改心”、”悔い改め”というかたちでわからされる(戻される)ことがあると思います。 宗教は、真理を追究し、実践して生きていくための支え、手段になるとは思いますが、これにとらわれてしまい、それ以外は受け付けない、といった排他的ではいけないなと思います、人それぞれだと思いますが、本来は宗教を超えた生き方が出来、心底から祈るその気持ちも大切であり、そして調和のとれた協調性のある生き方にこれからはなっていくのではないかなあと思います。 以上、私の信じるところでありますので、Ryu831さんのお考えと異なるかもしれませんが、こういったことに意識をむけられるのはとてもいいことですよね、 これだといった答えを導き出すのは難しいかもしれませんし、私自身も偉そうに書きましたが、日々修養です。 Ryu831さんなりのしっかりとした世界を持っていて頂きたいなと願っています。
お礼
seisoさん、大変親身なご回答いただき大変ありがとうございます。 善人の早死にが、周りの人にいろんなことを伝えてるんだ、、と思えば、気持ちが楽になります。 しかし善人だといっても、私個人がそう思っているだけでその人が心がきれいかどうかの判断は難しいです、そうすると、神に早く召された、とは考えにくいですね。。 宗教的な思想や考えには共感する部分がかなりありますが、seisoさんがおっしゃるように、それにとらわれてしまってはやはりいけないと思います。 自分の世界観を持つためのヒントには充分なりえると思っています。 いろいろ深く考える事ができました。 有益なご回答いただき、大変感謝いたします。
- jiromeijin
- ベストアンサー率18% (92/495)
現世は、過去世の結果と信じています。で、現世の不条理は、来世に反映するんだと思っています。なので、いま「いい(のうのうしている)?」人は、運命の分かれ道というか、試されていると考えると「今を大事に生きる」事の大切さがわかります。お金や地位というのは、天から与えられた力。それをどう、人々のために役立てるかが問われているとすれば、ムダには使えないよね。
お礼
jiromeijinさん、貴重なご意見ありがとうございます。 >現世は、過去世の結果と信じています。 はい、、そのように信じられる何かを持ってらっしゃる事がうらやましいです。 私も自分で、何か納得できるような考え方に至りたいです。
- yow
- ベストアンサー率23% (181/782)
私のオリジナルの意見ではなく、私が聞いた納得した話のミックスなのですが。 今いきている世の中というのは、修行の場所で、死んでいく世界はとてもすごしやすい場所である。でも、この世で学ぶこと、達成すべきことを達成しないでいると、なかなかすばらしいあの世にもどらせてもらえない。。。もしかして、悪人が悪人同士の戦いで殺されたり、人生の試練がつらくて自殺してしまった人は、すぐにこの世のもどってやりなおさないといけなかったりするのかも。 そんな風に最近思ってます。善人か悪人かなんて、なかなか分けることもできませんけどね。 私の知り合いのご両親がとても仲が悪かったそうです。でも、やっと二人がお互いを認め合えるようになったときに、お父様がなくられたそうです。私の知り合いとそのお母様は、達成すべき課題を終えたからこの世を去っていったんだね、と納得されています。 自分で納得のできるような考え方がみつかるといいですね。
お礼
yowさん、一つの考え方を教えていただき感謝いたします。 善悪の基準や線引きなんてなかなか難しいですよね、ここで皆さんの考えを読んでようやく分かってきました。 達成すべき課題を終えて旅立つ人は幸せでも、、やはり残された方は辛いです。 でも、楽園に行けると思えば気分も少しは楽になりますね。 ありがとうございました。
- x-vanvan
- ベストアンサー率33% (1/3)
この世の中には「偶然」という要素があります。 それが時に「理不尽」という形になる。 ただそれだけの事でしょう。
お礼
x-vanvanさん、ありがとうございます。 偶然の要素で理不尽な結果につながった。。。 そのことは理屈では分かっていても、それを受け入れる心がなかなか難しい気がします。 理不尽は説明のしようも理由も無いから理不尽なんだ、という納得ができないと、やはり苦しい心は変わらないですよね。
- altosax2001
- ベストアンサー率49% (138/281)
こんばんは。専門家ではないのですが思っていることを書きますね。 私は、世の中の事象はほとんど科学で説明できるし、物事には因果応報といって、原因があって結果が生じると考えています。 でも、どうしても説明できない事象は「運」として片付けるようにしています。 また、「運」は他の要素と関係なく独立したもので、いわゆる「善人・悪人」などという性格には関係ないものと考えてます。 例にある「善人の短命」はとりあえず私なりには以下のように解釈します。 ・善人であることの気苦労で精神的ストレスがたまった ・いい性格は苦労の賜物。逆に体はボロボロだった。 ・遺伝的に善人だが短命 こういう風に原因を推測して、それでも違うとなると、「彼は彼なりに幸せだったのでは・・・」と解釈します。(幸せの相対性) また、彼の幸せは私の考える幸せとは違うのではないかとも考えます。(幸せの多様性) だから、幸せは多様であって、各対象者間で相対的である、と考えます。 もちろん自分の価値観、自分の幸せ観は持つべきです。それが自分のアイデンティティーです。 (われ思う、ゆえにわれあり、です) 不慮の死を遂げた人などは、確かに私の価値観からすれば不幸なのですが、「失業や老後のことを考えなくてもいいし、ひょっとして数年後にはもっとへんてこりんな死に方をしたかもしれない」などと考えたりして、死者の価値観を(あるときは)逆説的に解釈したりします。 >善人(と私が主観的に思っている人)が若くして、苦しみながら病気で亡くなる >悪人(と私が主観的に思っている人)がのうのうと生きているの これって上が不幸で下が幸と普通思いますが、ひょっとしたら逆の価値観ということもありえますね。 そんなこと考えてたら訳わからなくなってくるので、最後の手段「運」の出番です。 長文失礼しました。
お礼
altosaxさんのご意見を読んでとても考えさせられました。 「運」だといってあきらめる事ができればもちろん一番良いです。 でも、人間はすべてのことに「理由」を求めてしまいがちですよね。 苦しみながら死んだとは言え、彼の人生はすべてにおいて幸福であったと彼が思って死んだなら、私にとってもこれ以上救われることは無いです。 こういう考え方もあるとは今まで分からなかったです。 本当に良い投稿をしてくださって感謝いたします。 ありがとうございました。
- maruyan
- ベストアンサー率43% (63/146)
Ryu831さんは大切な人を亡くされたのでは? 私も人生の半分以上を生きるとそんな納得のいかない死をいくつかは間近で見ることとなりました。 本当に、いい人って早く亡くなったりするんですよね。 でも、仕方ないのかもしれません。いい人って結局いろんな意味で自分を犠牲にして生きているんだと思います。 だから命も短いのかも。
お礼
maruyanさん、貴重なご意見大変ありがとうございます。 >Ryu831さんは大切な人を亡くされたのでは? はい、全くその通りです! (やはりお分かりになりますか。。。) 2年前ですが、親父以上に親父的存在であった隣のおっちゃんをガンで亡くしました。 その時以来の疑問なんです。 彼の若くして(50台)の苦しみながらの死が納得できません。 自分を犠牲にして生きてきた、、ですか。 そうかもしれませんね。 神に愛されたのだろうか、しかし神もガンとはずいぶんひどい事をするなぁ、とつくづく思ってしまいました。
- Neginebu
- ベストアンサー率43% (565/1298)
人の「寿命」が産まれたときから決まっているからではないでしょうか。 100年の寿命を持つ人が、人生においてたまたま悪人になった。 50年の寿命の人が、たまたま善人になった。 だから、長寿な悪人もいる。短命な悪人もいる。 もちろん、長寿な善人もいますし、短命な善人もいる。 だから、善悪関係なく生死がある。 善悪に優劣はつかず、個人の好みによる。 人が、善として生きたければ『善』になり 人が、悪として生きたければ『悪』になる。 まぁ、そもそも、世の中の善悪の線引きですら明確では無いわけですし。 余談ですが、私は決められた一生を悔いの無いように生きる事が大切だと思います。 「明日終わっても良い覚悟で今日という日を一生懸命生きる」 運命を受け止める覚悟。自分の人生に責任を持つ覚悟。 これを完璧に持つことが私の理想です。 (例え、その結果が『善』でも『悪』でもです。) 理想は理想で、その域に到達するのは難しく不可能だと思いますが。(^^ゞ ココまで答えておいて何ですが・・ 全然答えになっていないような気がするので「自信なし」で。m(__)m
お礼
Neginebuさん、貴重なご意見大変ありがとうございます。 運命を受け止める覚悟、、これができるようになれば私は「覚り」の境地に達したと思うかもしれません。 ありのままの運命を受け止めるのですから、そこに怒りや憎しみは生じません。 (即死ならしょうがないけど。。)詩の病に臥している時に、そんな境地でいられたらと願っています。
お礼
mimicimicさん、非常に魂のこもったご回答を頂きまして、心より感謝いたします! いかに自分が狭い視野でしか物事を見ていなかったという痛烈な反省と、こういう考え方もあるのか、、という救われた思いが混合しています。 善悪に関連するのは、生死ではない。。なるほど、冷静に(普通に?)考えれば至極当然のことですね。善人=長寿を全うするのが本人や周りにとっての幸福であり、某教団の代表のような悪人は、税金でメシなんか食ってないで早く死ぬべきだという、誤った考え方を自分はしていました。 先ほどの方のお礼でも書きましたが、mimicimicさんもおっしゃっている通り、本人がこれでよかったんだ、これで幸せだったんだと感じれば、他人がどうこういうことじゃないですよね。 もしそう思って亡くなったんなら、私の苦しみもかなり軽減されます。 しかしながらもっと推し進めて考えてみると、(2年前に大切な人を亡くしましたが、)私は亡くなったおっちゃんが人生において幸福であったかそうじゃなかったのか、誤解を恐れずに言えば実はあまり関心がないです(すなわち、彼は幸福に生きているという確信があった)。 問題は、「私にとって」あまりにも大事な人がなぜ自分の前からいなくならなければならないのか、ということです。 その理由が分からず、「あんないい人が、、」「こんな悪い人が、、」的考え方に陥っていたのではないかと思います。 いろいろ考える事ができました。 支離滅裂な文でもうしわけないです。 貴重なご意見、本当にありがとうございました!