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インスピレイションを失うことへの怖れ

インスピレイションに依存している芸術家にとって インスピレイションを失うことは致命的です。 描けない、書けないという致命傷です。 インスピレイションを失うことへの怖れとは、自己喪失への怖れなのでしょうか?

みんなの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.11

追伸まで [雀の声が 心の中の今まで届かなかったところにまで届いたようでした。 雀の声が、命の言葉だということがやっと分かったのです。] ○年を重ねるということは良いことですね。生まれてこの方、積み上げてきたいろんなことを忘れ、体も老い、不自由になりますが、雀とお話できる余裕が心に広がりますからね。 私の耳に聞こえるのは鳥のさえずりと、太平洋の海鳴りの音だけなんですね。毎日、毎日海鳴りを聞いていますと、地球は生きているんだなあと思えるようになります。月と地球のコラボの息づかいのように思えてくるのですね。限りなく子供のようになってきますね。限りなく透明な心になってくるように思います。それが受信機のチューニング範囲を広げることのようにも思えるのですね。家の前の舗装道路をキジがぺたぺたと歩いて行きます。なぜか今日は朝からうぐいすが鳴いています。うぐいすが鳴くとカラスがあいの手をいれるのですね。その間を郵便屋が通り抜けて行きました。今日2人目の通行人ですね。通行人があると駄犬が吠えるのですね。そんな毎日ですが、恐れや不安は全くありません。生きられるだけ生きて全ての事象、存在からインスピレイションを授かろうと思ってます。 今日は夢の中で椅子に座って飛んでいました。もう一人飛んでいる方がいましたがあなたも必ず飛べますよ。 哲学カテで価値観への警鐘の意味で回答していますが、みんなに飛んでもらいたいからなんですね。 みんな忘れて、雀とお話できるようになってもらいたいからなんですね。 限りなく透明な心になってもらいからなんですね。そんな話なんですよ。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 大変明るい話で救われる感じがします。 雀と飛ぶ・・・というと 回峰行を行満された光永澄道師の堂入りの体験談が思い浮かびます。 雀になって空を飛び この目で見るよりも、はっきりと京都の町並みを見たそうです。 私はそんなに沢山飛べなくてもいいと思っています。 少しでいいのです。 雀たちと一緒に畑や家や森をみてみたい感じがします。 その時素直にありがとうといえるような気がします。 まだその時が来るのは早いでしょうか。 自然にまかせましょう。 インスピレイションへのこだわりが消えて、インスピレイションそのものになった時がそうなのかもしれません。 待ちます。

noname#156094
質問者

補足

そろそろ締め切りたいと思いますので 少し感慨を述べておきたいと思います。 インスピレイションへの期待が、それを失うことへの怖れを生じさせ 自己喪失感になっていくように思われたのですが 期待をもつ者と、そうではない者とでは その開きが大変大きいように思います。 インスピレイションを有用なものとして扱う人にとっては そういった怖れじみた心理が少なからずあると思いますが 全く無縁で、有用性など感じない人にとっては、怖れなどまったくないように思えます。 この事も当然だと思いますが そうしたインスピレイションに無縁な人であっても、一生の内に何回かは本物のインスピレイションを得ることがあるのではないでしょうか。 それが人生の変わり目になることもあるかもしれません。 私の母は、戦時中に、ある閃きから九死に一生を得るという体験をしていますが そういった事例は案外数多いのかもしれません。 また、主に取り上げられるインスピレイションの事例からは インスピレイションは常にプラスに作用するように思われがちですが マイナスの面も持ち合わせているように思います。 それは有用とは思えないものも含んでしまう事によるものです。 理解できないものが伝えられてしまった場合には、その扱いに窮するからです。 このような体験はあまりいいものではありません。 芸術家では、こういった体験をしている人は多いと思います。 しかし、非有用なものもあるからこそ、よりインスピレイションの確かさもあるのだと思います。 或いは、非有用で理解できないインスピレイションを失いたくないという悩みこそが怖れなのかもしれません。 手に入れた大きな謎を手放したくはない・・・ 謎があってこそ、謎でないものが分かる 謎が無くなっては終り・・・ そんな感じかもしれませんね。 それでは 皆さんもよいインスピレイションに恵まれますように・・・。

回答No.10

>インスピレイションに依存している芸術家 若いうちはそうかも知れませんが、大家と言われる 芸術家は、自分の様式を確立して、その範囲での 応用に入ります。 その延長上の洗練としての「完成」を目指す訳です。 抜本的創造力のみが、いつまでも自己のアイデン ティティという事はありません。

noname#156094
質問者

お礼

円熟期というものですね。 つまり「行き詰まり」は無いのだと そこまで越えられるかどうかの分かれ目にも、インスピレイションが作用しているのではないでしょうか。 そんな気がします。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2909)
回答No.9

>追い打ちをかけられて・・・ ここは名誉ある撤退をすべきか いや、「絶望」なのだから撤退もできない 撤退もできないとなれば「玉砕」しかない 古いか・・・ 玉砕ですか・・・。 まだ方法はあります。 「逃避」「隠者」 そして「復興」です。 これも「勇気」です。

noname#156094
質問者

お礼

逃げ道を用意してくれてありがとう でも、平家の落ち武者のようにはなりたくない・・・ やはり桜のように散ってみたい 靖国で待っている連中が早く来い・・・と言っているし どうしよう あ~大和が沈んでゆく・・・ 意識もうろう・・・ 気が付いたら、平成23年3月11日 「放射能 復興元年 震災忌」 「勇気」をください。

回答No.8

 まづ芸術家には芸術家にしか分からない悩みがあると思います(推量します)。  音楽・絵画は その創作は わたしにはとんと分かりません。  ということは 鑑賞する側の問題もあるということだとは思いますが まづは創作家の側について 次のように考えます(推し測ります)。  たとえば小説などの物書きは その冒頭の一文をインスピレーションによって得ると言われることがあります。書き始めは 神が書くと言うわけです。あとは その文章家が考え組み立てて行きます。  詩作の分野では A.ランボーは インスピレーションの詩人であり P.ワ゛レりは 建築家のごとき詩人であるとわたしは見ます。  建築家も 芸術家に属すと言われれば話はちがって来ますが 石やレンガを積み重ねていくと見れば その石にあたる言葉を 特に霊感を得ることなく 組み立てて行くというように見られる例として挙げています。  そうして ランボーは 若くして天才ぶりを発揮しましたが すでに早くから詩作をやめてしまいました。そのとき  ★ ~~~  インスピレイションに依存している芸術家にとって  インスピレイションを失うことは致命的です。  描けない、書けないという致命傷です。  ~~~~~  こう考えて来て 何を言いたいかと言えば 建築の様式による創作もあるということですが まづは    ○ 芸術家にとっての致命傷と そして《自己喪失》とは どう違うのか?   という問題もあるかも知れません。知れませんが 要は 《インスピレーションの枯渇が つねに芸術家を廃業させるかどうかは 決まっていない》ということではないでしょうか。言いかえると もともと枯渇したまま芸術家と成り得た場合もあるかも知れません。  その場合を 建築の様式による創作と言いましたが それは 別の角度から見れば こうです。  芸術家本人にインスピレーションが湧くか否かの問題というよりは 鑑賞者にしかるべきインスピレーションを与え得るかという問題もあるかと思うからです。  石を一つひとつ積み重ねる そうして全体をまとめる いやこうだ いややはりああだと試行錯誤する創作もある。それが 見る側に美を見させ得ればよい。  という芸術家の行き方もあると思って来ました。ワ゛レリの場合です。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 >芸術家本人にインスピレーションが湧くか否かの問題というよりは 鑑賞者にしかるべきインスピレーションを与え得るかという問題もあるかと思うからです。 そうなんですよ。 創作者と同じインスピレーションが伝わることは、まず無いと思います。 その事は承知の上で創作を行っているわけですから 芸術家とは、たちの悪い人間ばかりです。 たちの悪さもいろいろで 最初のインスピレーションだけを徹底的に追求していくタイプもいれば 次々に湧きおこるインスピレーションのすべてを表現しなければ気が済まないタイプもいます。 一番たちが悪いのは 完成という美しさです。 これが一番憎らしい。 創作者の手を離れて、勝手にインスピレーションを振りまく存在になってしまうからです。 完成という過ちを犯さぬためには、完成ではないという印をどこかに刻まなくてはいけない 刻み方もいろいろで、だいたいそれを見れば芸術家の、たち、が分かるもんです。 全体に刻まれているやつもあれば、まったく分からないよう仕掛けてあるやつもあります。 完成ではない印とは、創作者の自己喪失の怖れの表れなのかもしれませんね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.7

インスピレイションを失うことへの怖れとは、自己喪失への怖れなのでしょうか? ○違いますよ。自己喪失ではなく他喪失ですから、自己としての自分でやりなさいということですね。 こういっても?でしょうから、インスピレイションがどこから来るかということがわかればいいんですね。 簡単にいえば、インスピレイションのもとはあなた自身ではないということなのです。もっとわかりやすくいえば、あなたはテレビの受信機を持っていて貴方の分野にチューニングを合わせばいろいろな電波が受信できるということですね。でも、受信機のチューニングがはずれたり、あるいは電波が出ていないと電波は受信できないですね。 この電波がインスピレイションですね。あなたが合わせようとしても受信できないということは、電波が出ていないということだと思いますね。 電波が出ていないということは、とりもなおさず、あなたに送るようなインスピレイションはないということですね。これが他喪失なんですね。貴方の能力には、インスピレイションを必要としないので、もっと自身を信じなさいということだと思いますね。しっかり自己研鑽していると、またそれに見合ったインスピレイションが来るはずですよ。 「自己喪失への怖れ」というのは旧約聖書の「ヨブのなげき」と同じようなものですね。 つまり、あなたを取り巻く電波はあなた以外の存在から来ているということですから、その辺の認識と感謝は忘れないようにしましょうということですね。

noname#156094
質問者

お礼

電波と・・・インスピレイション なんか似ている感じですね。 古い受信機と・・・私 確かに似ています。 チューニングの操作と・・・遠い耳 これは事実です。 かすかに聞こえる電波を、よく聞くためには補聴器が必要のようです。 まだ自力歩行は可能なので、お店に行ってみることにします。 うまく選べるといいのですが・・・自信がありません。 何でも聞ける地獄耳という補聴器を選びたいと思っています。 聞こえすぎてまずいという噂はありますが・・・ かなりいい感じの卑屈になってきたようです。 ご忠告ありがとうございました。

noname#156094
質問者

補足

最近のインスピレイションをひとつ 朝起きると雀が待っています。 餌を待っている雀がいます。 その声は子供です。 子供達が待っている・・・と思うようになりました。 動く仕草も、飛ぶ姿も子供です。 いつか、この子供達と一緒に空を飛んでみたい その機会はきっと来る・・・ 雀の声が 心の中の今まで届かなかったところにまで届いたようでした。 雀の声が、命の言葉だということがやっと分かったのです。

noname#194289
noname#194289
回答No.6

私がインスピレーションから連想するのは「ピカソは模倣の天才だった」ということばです。つまり行き詰ったというのは模倣ができなくなったということだろうと思います。模倣というのは外からの刺激に敏感に反応することであって中から出てくるものではないと思います。もちろん模倣されるほうよりも上に行く必要はありますが、本質的には外部からの刺激に触発されるということだと思います。しかしピカソをひきあいにだすまでもなく、私のような凡人でも外からの刺激がなければインスピレーションのようなものは得られないという体験を常にしています。

noname#156094
質問者

お礼

>私のような凡人でも外からの刺激がなければインスピレーションのようなものは得られないという体験を常にしています。 感性情報による経験情報の励起・・・なのでしょうね。 この場合、励起に至るまでの時間によって「インスピレーションのようなもの」の質的な錯覚が起きてしまう可能性があると思います。 経験情報の検索が瞬間的であれば、それはインスピレーションでないにも関わらずインスピレーションあったという認識になってしまいがちです。 また、理解して受け入れるのに試行錯誤を伴った長い時間を必要とした場合には インスピレーションであっても、そうではなかったという認識になりやすいのではないでしょうか。 感性情報による経験情報の検索には、同時に未経験情報の収集が行われている可能性があります。 直感の働きによるものですが、これが何を捉えるかは全く未知のままです。 未知の情報が、経験情報を押しのける存在感をもつ時 それをインスピレーションと呼ぶのではないでしょうか。 インスピレーションの質とは時間に左右されないものかもしれません。 瞬間的に訪れて受け入れられるものもあれば 一生かかっても解けない謎のようなものもある・・・ といった感じのようです。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2909)
回答No.5

>インスピレイションを失うことへの怖れとは、自己喪失への怖れなのでしょうか? 自己喪失の怖れではありません。 「絶望」なのです。

noname#156094
質問者

お礼

>絶望 当たっているかもしれません。 素晴らしい絶望・・・ 意識外の情報の遮断による絶望 その絶望の風景は もう迷わなくてもいいという安らぎの風景 自分の一部が鳥になって飛んでいってしまった空の静けさ・・・ 絶望から見上げた、残りものの空に なぜ、空が見えるのか、という疑問はもう生まれてこないのです。

noname#156094
質問者

補足

追い打ちをかけられて・・・ ここは名誉ある撤退をすべきか いや、「絶望」なのだから撤退もできない 撤退もできないとなれば「玉砕」しかない 古いか・・・

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.4

木造さんのいうとおり。 自己イメージの喪失への怖れであり 思い込んだ自己像の喪失への怖れである。 たかがインスピレイション、されどインスピレイション。 転職すればいいだけの話。

noname#156094
質問者

お礼

ん~・・・厳しい 転職は難しいし、またする気もないし 抜け殻のようになったまま、この世を去るのも残念だし・・・ たかが・・・されど・・・ 当分は、されど、で行くしかないのでしょう。

回答No.3

インスピレーションを失ったからって、自己を失うわけではありませんよ。 インスピレーションの無い普通の人生を送ることになるだけ。 ですから、喪失に対する恐れというのも、インスピレーションに対するものと、自己に対するものでは当然に異なると思います。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 >インスピレーションを失ったからって、自己を失うわけではありませんよ。 自己のすべてではありませんが、拡大した自己の一部が削り取られた・・・という喪失感はあるのではないでしょうか。 >インスピレーションの無い普通の人生を送ることになるだけ。 普通の人生・・・これはいいです。 中途半端で生じっかなインスピレーションなど無いほうがいい・・・確かです。 既成概念の中で安らかに暮らす・・・幸せ 少しうらやましい感じもします。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

発想には2種類あります。 一つは、積み重ねた知識や経験を元に、因果の過程を通って 導かれるものです。 もう一つは、積み重ねた知識や経験を元にする のですが、それが因果の過程を通らず、いきなり発想に 到達してしまうものです。 これがインスピレーションです。 つまり、インスピレーションを失う、ということは 積み重ねた知識や経験を使い果たした、または 積み重ねた知識や経験は枯渇していないが、それが 発想に結びつかない、ということです。 だから自己喪失とは異なると思います。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 インスピレーションの定義や概念を定めることは中々難しいと思います。 仰っているようなインスピレーションの誕生の経過はあると思いますが 知識や経験にまったく関係のないインスピレーションがあることも事実のようです。 未経験情報といったものです。 この未経験情報から受ける新鮮さを知る者にとっては、それらを受け取ることができない状態が自己喪失感に連なっていくように思えます。 発想とは、求めて得たインスピレーションインの場合が殆どだと思います。 でも数多くのインスピレーションの中には、求めずして得たものもあるように思います。 発想が得られなくても、求めて得られなかったのであれば自己喪失には至らないと思いますが、そうではないケースも案外多いのではないかと思いました。