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天則的の識と智との区別
- 明治から大正にかけて活動した“悟れるお坊さん”の文章を紹介します。
- 文面でわからないところは「機制により感覚の方面は識と云ひ観念の方を智に属す」です。
- 「観念の方を智」、これがうまく解釈できないでいます。
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追伸まで >「開無限 把一点」 初めて知る言葉です。 このお坊さんの例え「環ー輪の内と外」の事ですよね。 心で捉える、と言う表現が結構曖昧なんだなぁ、と思いました。 ○「開無限 把一点」はお坊さんの例え「環ー輪の内と外」の意味ではありません。お坊さんの例えの外面「環ー輪の外」は広く、自在という意味で「開無限 把一点」と言っているのです。つまり、観念の自在性を表す言葉ですね。 「人の感能によらざる観念と、《人の》感覚とは、一方は無限にして一面《もう一方》は有限なり。「環(かん)の内外の内面は狭くして外面は広きが如く」、感覚は機制的に制限せられて狭きに反して、観念は無限なり。」 これを、科学者に説明するには、科学的例えがいりますね。 瓶に入った石鹸水を想像してみてください。石鹸水が瓶を通して見た世界があり、瓶の形状や重量に制限されて瓶のまわりしかみえませんね。瓶から石鹸水を流し出せば、石鹸水は表面張力の許す限り広がりますね。うまくすれば風船のようになりおおきな空間を専有し、より高くとべますね。石鹸水が見ることができる世界は瓶よりはるかに遠く、広い世界が見えるわけです。一方、氷ればより小さな塊にもなりますね。これが「開無限 把一点」の意味です。 ここで、瓶を肉体、石鹸水を心、あるいは霊的生命体と置き換えると、瓶を通して得られるものが識(環ー輪の内)、瓶から抜けた石鹸水、つまり心を通して得られるものが観念(環ー輪の外)ですね。 まあ、入れ物の水はこぼすと広がり、水蒸気となって天空を見、氷れば小さな塊となる、その水と入れ物の中の水の認識の差ということですね。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.5です ★(No.5お礼欄) ~~~ ブラジュロンヌさんが 取り上げる「ヒラメキ」は、ブラジュロンヌさんが言う「《観念》を拡大解釈してヒ ラメキにつなげている」のではなく、「観念」の世界から稲妻のように閃く形で人に 意識される現象を指すのではないかと思いました。 ~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに用いる《観念》は 例のプラトンの《イデア》のことだと思います。 言いかえると わたしが《非経験の場》と言っているそれに相当するようなのですが 《観念=イデア》と言った場合には 精神の中の描像としての観念とそしてその《イデア》の世界とがあたかも地続き(宇宙空間続き)のごとくに思えて それは おかしいと考えます。 つまり そんなイデアの世界――そしてそれと同じような意味だとした場合の《一大観念態》――なら われわれ人間の想像力によって いつでもいくらでも行き来できるような場だと思われます。つまり《非経験》ではないと考えられます。つまり 地続きになってしまいます。 イデア論にもとづく《一大観念態》ではない何か内容があればよいのですが。 (つまり あり得ないとわたしは思っておりますので 《観念》という言葉は あくまで《精神》の範囲内におさめる。こういう方針でいます)。 だいたい異同がはっきりしたのではないでしょうか?
補足
回答ありがとうございます。 たぶん、用語のとらえ方の違いが、意見の食い違いの原因かと思います。 ブラジュロンヌさんの哲人としての「理」の方面から“真”を追究する姿勢は見事です。 でも、その姿勢の中にも「ヒラメキ」を無視していない、というところに興味を持ってしまいます。 私の場合は観念を、如何だこうだと云っても“なんとなく”の域を出ないのでブラジュロンヌさんとは思索のレベルの違いがありますね。 ・・・・・と、云うことが分かっていても、こうして無知をさらけ出しているのは、アメンボのように“表面”を泳いでいる、いや浮かんでいるにすぎないのだけれど、その“表面”は物事の本質部分に近いのではないかと思っているからです。 《物と心》 という表題の“お坊さんの文章”をここ哲学カテで新たに、質問と云う形で紹介してみようと思います。
- kurinal
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☆ 天則的の識と智との区別 宇宙本一観念態とすれば、此処に繋がれる個人も、之全一の個人心なれば本一体分別すべきにあらざるも、生理機能の感覚機制に制限せられて、際限あるを免るゝ能はず。 人の感能によらざる観念と、感覚とは、一方は無限にして一面は有限なり。環の内外の内面は狭くして外面は広きが如く、感覚は機制的に制限せられて狭きに反して、観念は無限なり。 吾人が眼を挙げて天を瞻あげるとき、円形にして際限あるが如くなるも、肉眼によらずして観念による時は無限の観あり。機制による感覚の方面は識と云ひ観念の方を智に属す。 天然の規制を超えたる一大観念たる大円智の一大観念の一員たる自観によりて観ずる時は、絶対唯一の観念態なるを識らん。 認識より見れば、客観界の複雑なる、また物のために障礙せらるるも、観念には単純にして無碍に霊徹し、空間無限の如き世界万象も、同じく同一の観念が主観客観の両面に顕現したる同一性のものなり。 ☆ 内外同一観念 人の感覚は機制に局限せらるるといふも、本一大観念に繋がれることは認識に於いて示せり。人の瞳は小さくも、眼を放ちて蒼穹の無窮を仰ぐとき、無数の星宿は燦爛として光を放ちて瞳点と交渉す。 瞳小なりとて広大なる蒼穹を容れて余りあるものは、一大観念よりてなると、個人の観念と霊通するが故なり。 また人の脳裏の感覚的元質なるものは至微幽玄なるも、無辺の空間を収入して尚容るるに余りあり。是また一大観念と自己の心質と同一なる故なり。 一大観念態は本物心二質同一の故に、肉眼と肉の髄脳等を透して観念を為す。 ・・・すみませんでした。しかし、随分スッキリしたと思います。 「「感覚的に見える部分」+「観念によって知(り得)る部分」」が「全て」である、と述べているようです。 で、 >「天然の規制を超えたる一大観念たる大円智の一大観念の一員たる自観によりて観ずる時は、絶対唯一の観念態なるを識らん。」 ・・・何かと何かが併発しちゃったら助からない、みたいなことを連想しました。
補足
回答ありがとうございます。 私のルビや補足の言葉は不要でしたね。 質問で取り上げた文のエッセンスを引き出していただいてますが、“連想”がよく分かりませんでした。
我々が空を見上げる時は、肉眼で空を見ながら(識)心でも空を観ています(智)。 肉眼で見る空は人体の認識能力のままに映り、目に異常が無ければ誰もが同じものを見ている筈です。しかし、心が観る空の姿のバリエーションは無限であり、同じ空を観ていても、心の働きや、思考の影響を受けるので、人々の評価や感想はまちまちとなり、全く同一の見解は存在し得ない。人間はひとりひとりが、全く個別の世界に生きています。自我の持つ働きとは、そういうものです。 ちなみに大円智とは、非想非非想の見地であり、思考や心の働きが「起きる」前の認識です。厳密に言うと、思考や心の働きと意識の「同一化が起きる前」なのですが、大円智は思考や心の働きの影響を受けないので、人によって見解が異なるという事はありません。 悟った人は、他の悟り人と同じ物を見て、同じ世界に生きている為、見解の相違は存在しません。これを絶対唯一の観念態と言っているのでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 こうした分かりやすい解説を探し、求めていました。 「大円智」とそれの説明「非想非非想の見地」は難しいですが。 大円智は大円鏡智の略語かと思いますが、やはりこの世界を知るには“修行”が必要なんでしょうね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ご返答をありがとうございます。 ★(No.3補足欄) 私自身は、「人の感能によらざる観念」が“どんな感じ”なのか分かっていませんが、ぶらじゅろんぬさんはどう思いますか。 ☆ ええ。ですから その場合の《観念》は ヒラメキだと見ています。 知覚よりも概念思考よりも先行して得られるところの 《感能によらざる》直感ないし直観です。 そこから 概念ないし〔思考としての〕観念が得られて来ます。 お坊さんは 《観念》を拡大してヒラメキにかんしても用いている。ということだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 おかげさまで思うところ、ありました。 「観念」って普通人にとっては、例えれば曇りガラスを通してみている世界なのかもしれないって。 我々は「観念」なる世界をはっきりと観ているわけではなく、観ようとするならば悟りの世界の入ろうという“修行”が必要なのでしょうか。 このお坊さんの説は、この宇宙は「一大観念態である」ということなので、人もその心も「観念態」の一部分、一現象であると思え、そうなるとブラジュロンヌさんが取り上げる「ヒラメキ」は、ブラジュロンヌさんが言う「《観念》を拡大解釈してヒラメキにつなげている」のではなく、「観念」の世界から稲妻のように閃く形で人に意識される現象を指すのではないかと思いました。 ☆ 我々は「観念」と云う言葉をよく使いますが意外と、明確には捉えていないのかもしれない。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.3ですが 訂正があります。 ☆☆(No.3回答欄) ヒトとウマとの知覚としての像を その対象物から切り離して観念として扱っていると 天馬ペガサスが想像されるといった観念操作です。 ☆ これはむろん 天馬ペガサスではなく 半人半獣のケンタウロスでした。おわびしつつ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 イヤミを言うことになります。 ▲ 感覚は機制的に制限せられて狭きに反して、観念は無限なり。 ☆ と言えたとしても その観念も感覚ないし知覚から生じた認識やその知識にもとづくものであるからには 基本的には 観念ないし精神も ▲ 生理機能の感覚機制に制限せられて、際限あるを免るゝ能(あた)はず。 ☆ ということが当てはまると考えます。(身と心とは 一体である)。 では どうして ▲ 観念は無限なり。 ☆ であるのか? それは 知覚から生じた認識――すなわち もののかたちや音や触った感じやについての認識 つまり 丸い・三角だ・きれいな音色・ざらざらした感じなどなど――は さらにその知覚した対象物から離れて ただの観念として記憶の中にたくわえられて その観念として扱われて行くことがあるからです。 ヒトとウマとの知覚としての像を その対象物から切り離して観念として扱っていると 天馬ペガサスが想像されるといった観念操作です。 ということは 《観念》がいかに無限であるとしても それはもともとの《知覚(感覚)》によって得られた認識の像にもとづいている。と言わねばなりません。 ということは もしそれでも ▲ 観念は無限なり。 ☆ という趣旨を活かして捉えようとするなら 次のようになるかも知れません。 それが 《ひらめき》です。直感および直観。インスピレーション。 これは ▲ 絶対唯一の観念態 ☆ というときの《絶対》のことが想定されているのだと見ます。 ということは どういうことか? いかなる観念も もとは五感による知覚にもとづく認識の像から生じているというとき ヒラメキは この知覚にも観念(精神による観念操作ないし思考)にもよらずにヒトが得るところのものである。となります。 ぎゃくに言うならば ヒラメキは 《絶対ないし 非経験の場》と《わたし》とのあいだに得られたナゾより成る。 ナゾより成って そのあとには 概念としても結実することがある。 なお このヒラメキは 最初に観念であることはないと見ますが ことばとしては ▲ 霊通する ☆ という言い方で捉えられているようです。 ヒラメキが概念として成るというとき それは どのようにであるか? じつは これも直感というごとく 五感による知覚であるかも知れない。そしてその知覚と対応するかのような言葉として持たれるかも知れない。いづれにせよ 概念として得られる。概念はさらに 知覚の対象物から離れて 観念としても持たれ得る。 【まとめ】 経験世界における世界認識は 知覚―→ 認識―→ 概念―→ 観念―→〔想像をとおして〕虚構 として成り立つようになっている。(ワ゛-チュアルな虚像が 現実の知覚を生じさせることがあるとすれば――ユメがウツツに現われるとするとしたら―― この方向の向きは 可逆的であるかも知れません)。 しかも経験的・時間的・相対的な存在であるニンゲンが 非経験の場としての絶対なる存在に触れることがありうるとすれば 知覚にも先行するヒラメキがある。と見られる。 ヒラメキ(直感および直観)⇒知覚(イメージ) / 概念認識(ことば)―→・・・
お礼
まともな解答ありがとうございます。 「イヤミ」は私の“お詫び心”が納めました。 これから良く読み込んでみます。
補足
「観念」の捉え方が難しいと思います。 ぶらじゅろんぬさんは観念に付いて「観念も感覚ないし知覚から生じた認識やその知識に基づく...」と言っていますが、このお坊さんは「人の感能によらざる観念...」と言っています。 これに依ると、ぶらじゅろんぬさんの捉える「観念」は「認識」の世界に入るのではないかと思えてしまうのです。 もしぶらじゅろんぬさんが自説に拘る事を一時休止して、このお坊さんの説に従って考えを進めて見たとしたら、どんな展開になって行くのでしょう。 私自身は、「人の感能によらざる観念」が“どんな感じ”なのか分かっていませんが、ぶらじゅろんぬさんはどう思いますか。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>文面でわからないところは「機制により感覚の方面は識と云ひ観念の方を智に属す」です。 「観念の方を智」、これがうまく解釈できないでいます。 ○これを理解するには「霊と肉」を理解する必要がありますね。「霊と肉」は不二一体ではあるが、機能は異なるということですね。 目や脳で考えることは肉体の性能の制限を受ける、これが感覚による「識」ですね。 一方、霊体は制限を受けないので、霊体を通じて受ける、これが観念による「智」ですね。 例えば、「識」であなたを感じると1メートル80センチあまりの日本人の風体ということになりますね。 一方、「智」で感得すると、まだまだ唯物論から抜け出ていない魂に見えるわけです。 心だけで感じると宇宙もアリにも心があり通じているのですね。これが「開無限・把一点」ですね。 「開無限・把一点」が感得できるということは元は同じ心から作られているからですね。 これは、科学者が望遠鏡でいくら見てもわからないことですね。これが制限のある識のたちばですね。 悟りのレベルとは簡単に言えば「心の自由度の程度」のことなのです。宇宙ボールの心に波長を合わせれば宇宙ボールそのものになりますし、ありや虫に心の波長を合わせればアリや虫になるということですね。 心で感得することが観念の知なんですよ。
補足
解答ありがとうございます。 「開無限 把一点」 初めて知る言葉です。 このお坊さんの例え「環ー輪の内と外」の事ですよね。 心で捉える、と言う表現が結構曖昧なんだなぁ、と思いました。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
平成の凡人にとっては、どうでも良いよ。
補足
解答ありがとうございます。 凡人でも秀才でも、こうした世界に関心を持たない人には、どうでもよい事かと私も思います。 実際、こうしたことが分かったとしても、日々の生活が変わるわけでも無いですし。 と、思えば私はこうした事柄への関心が強いのでしょう。 「不思議な精神世界を知りたいという欲求」の活動ー行為なのです。
お礼
一大観念の大円智の観念と通じる自観、この「自観」は、修行によってはっきりと意識できる様になるのかも知れないと思いました。 ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございます。 「開無限・把一点」は観念の世界の事を表しているということは辛うじてわかりました。 人の観念と、感覚とをお坊さんは“環の内と外”で例えてますが、この例えをmmkyさんは適当と思いますか。 また、ブラジュロンヌさんの回答から誘い出された私の「“観念”って世界をはっきりと“識る”ためには修行が必要なのかもしれない」という考え、そして「我々は意外と“観念”なるものを確実に捉えているのではないのかもしれない」という思いはどうでしょうか。