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精神と身体は別物?
デカルトを読まれた方ならお分かりだと思いますが、いかがでしょうか? デカルトの世界観 彼は形而上学において精神が身体(物体)とは独立な存在であることを強く主張する。 身体の存在を疑っても疑うところの「われ」はあるのだから、疑うところの「われ」は身体とは独立でなくてはならない。 「私は考える、故に私はある」というとおり、「われ」のあり方は、物体とはまったく違う。
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欧米は、このデカルトの影響で、精神と体は 全くの別物である、という心身二元論的な考え方が強いようです。 これに対して、日本では、遺骨収集にも熱心なこと から判るように、心身一元論的な考えが強いと 言われています。 遺跡調査などで人骨を発掘していると、欧米人はなにも 感じないのに、日本人は段々とおかしくなって来る、と 言われています。 だから欧米が、心臓移植などについても抵抗がないのに 対して、日本は抵抗が強いのです。 最近は、内臓にも記憶物質が発見されたりして、 科学的には一元論の方が有利となっております。
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- jbeam
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愚かしくもデカルトは動物にそなわった知能、理性、意識を否定し 動物が打たれたときに発する叫び声は痛みを表すのではなく、時計やゼンマイの玩具を落としたときにバネや鐘がガチャンと鳴るのと同じと言ってますね。 今時、動物はおろか植物にも感情が有ると言う学者さんもいますよ。 ただ、時間と死の概念を持っているのは人だけの様な気がしますが・・・ コーギトー・エルゴー・スムですね。 それで、己だけは→我が人種だけは→人間だけはと考えたのでしょう。 きれいごとを言っても、バチカンやコーカソイド独特の傲慢な選民意識が表れています。 精神と身体は別物? 違います。 精神とか心は、脳を含む体からの単なる反応の一部です。
- miko-desi
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純粋な高度な精神世界があって欲しいとは思いますよ。 空間的に一切邪魔になりませんし、時間旅行も自由自在。 でもそれには対象となる夢や目的が必要。 人間以外を羨んだり憧れたりしても、 三次元で無理とする経験を 理解しようがために経験できないのも事実。 例:二次元の恋人と籍を入れたり、子育てしたり、離婚調停をする。
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
我の在り方も物質に依るしかない。 という考え方をしてます。 我独りでいくら世紀の大発見をしても、深く考えても、 それが何に何の影響を及ぼします? 精神も体現されてこそ性質が表せ、 価値を見出せるほどに精神を持つ人間の存在が同時に体現されていてこそ。 人間は人間が関わることでしか価値はないと思ってます。 デカルトが言いたいのは身体がなくとも 諸々の起因として存在が可能ということですかね。 それでも吹く風のようなものと思います。 風を調べようと袋に込めても空気しか入っていない。 風に意味をつけようと、名付けようと 呼び戻す術もない。
- Mokuzo100nenn
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肉体は精神とは別物(Independent)だと思いますが、精神は肉体に依存して(Dependent)居ると思いますがなぁ。
精神(心)と身体は一つですが、意識と身体は別物です。 我(意識)は「疑う」という心の働きを観照しますが、 意識は身体に依存しておらず、我という個別性もありません。 意識は独立単体で存在している訳では無く、 天地に満ち満ちている。 個にして全であり、全にして個。 それが「存在」です。
- 雪中庵(@psytex)
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紙の表と裏は、明らかに「別」の面である。 しかし、どうやっても「裏の面」だけで存在できる ものではない。 不確定性原理において存在性は、“相補的不確 定性”に基づくが、その「相補」は、「位置(S:空間 的確定性)と運動量(St:時間的相対変化)」と 「時点(T:時間的確定性)と質量(Ts:空間的相対 変化)」の2対、即ち“時間性=記憶”と“空間性= 予測”の相補分化を成す。 そして、どのパラメータでも絶対的に確定化しようと すると、それと対を成すパラメータが無限不確定に 発散し、即ち、「物事を原理的に確定化せず、現象 表面的な経験的定性化に応じて、有限的存在性は 派生する」と言えるのだ。 裏表2つの面を、分離していっぺんに見る事はでき ないように。
独立という言葉を吟味する必要があると思います。独立というのはほかのものを利用してこそ可能です。この場合ほかの者の存在がなければ独立的に存在することが可能でないということになって、逆説ですが、ほかのものに依存しなければ独立できないということになります。結論的には体に依存して独立しているということになると思います。体あっての私ではないでしょうか。
その通りです。心は脳の働きだと考えられていますが、脳は物質であるため、脳も心によって造られています。 つまり、「われ」とは自分の心のことをいいます。
お礼
回答有難うございます。 物質が考えたり、空想したりはしないと思います。 物質に備わっているのはあくまでも物質であり、五感を通して、私たちは廻りで起きていることを認識しているだけだと思います。 そうして脳に集まってくる様々な情報を分かりやすく分析して言葉やイメージ、創造しているのは、物質世界ではなく、独立した精神世界ではないかと思います。