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哲学です、わかる方教えて下さい!!

1.心身問題に対するスピノザとライプニッツの解答に対して、デカルトの解答はどのような点で優れていたか。あるいはスピノザとライプニッツの解答はデカルトと比べてどのような点で困難を抱えて いたか。 2.デカルトはあらゆる疑わしいことを懐疑しようとしたが、デカルトが懐疑したつもりで懐疑しなかったものとは何か。ただし考える私の存在、神の存在、物体の存在を除く。 条件、1と2を合わせて1200字以内 あなたならどう答えますか?

みんなの回答

回答No.2

>あなたならどう答えますか? 夏休みの宿題をQ&Aサイトでカンニングする奴は哲学する資格がないと答えます。

回答No.1

生まれた順番からいうと、デカルト、スピノザ、ライプニッツで、ライプニッツは一度だけスピノザに会いに行ったことがあるけど、スピノザはデカルトとは面識がなく、スピノザが成人して哲学をやる頃にはデカルトはもう死んでいました。 もし、影響関係があるとすれば、デカルトがスピノザに影響を与え、ライプニッツに影響を与えたことが考えられます。 スピノザには「デカルトの哲学原理」という著作があり、デカルトから多大な影響を受けていることは明らかです。 デカルトが、心が実体で、また身体も実体で、身心二元論を唱えたことが知られています。 スピノザはそのデカルトの心身二元論に対して、神が唯一の実体で、心も身体もその神の属性であり、心と身体は神の二つの側面、だと言いました。 したがって、デカルトの心身二元論に対して、心身の二面説を唱えました。 ライプニッツはデカルトの心身二元論に直接言及していません。 ライプニッツの「モナド論」は個体論であって、心身の合一したものです。 この世界には個々のモナドが存在し、神がモナド間の調和を図っているものと思われていました。 デカルトの心身二元論が優れたものとは思いません。 そもそも心は実体などではありません。 心が物のように存在しないこと、そして心が身体に付属する単なる随伴現象、もしくは機能でしかないことは現代の「心の哲学」でも明らかにされていますから、デカルトの心身二元論は今では間違いであることは自明です。 いったい、心などというものがどこに存在するでしょうか? 脳を解剖すれば「これが心です」と言って、取り出して見せられますか? 心は存在者ではありません。 心は眼に見えないし、感覚知覚できるものでもありません。 心的現象の、悲しむとか、思うとか、意志するとか、そうしたものを統一している核のように思われていますが、カントに言わせれば単なる「可想体」です。 つまりイメージされているだけのものです。 実際にあるかどうかなんて分かりません。 デカルトの「方法的懐疑」はすべてのものを疑うのですから、懐疑しなかったものはありませんし、懐疑したつもりで懐疑しなかったものも存在しません。 私の存在も、外界の存在も、物体の存在も、すべて疑いました。 例外はありません。 その中から、疑っている、あるいは考えている、その思考だけは確実に存在するものと考えました。 かれは思うということには単に思考に限らず、感覚も、意志も、感情も、想像も、含むと考えていました。 そうしたものを「内的体験」といいますが、外的体験は疑うことができたとしても、内的体験は絶対に疑うことのできない確実性があると考えていました。 なぜならば、私が思っているのに、同時に思っていないとは言えないからです。 また感覚、例えば殴られて「痛い」と感じているのに同時に「痛くない」とは言えません。 また、感情、例えば私が「悲しい」と思っているのに、同時に「悲しくない」とは言えません。 外的体験には、間違いの可能性がありますが、内的体験には間違いの可能性はありません。 デカルトは哲学は絶対に疑うことのできない、確実性から出発しなければならないと考えていましたが、内的体験こそデカルトにとって哲学の出発点でした。 その出発点を確保してから、かれは私の存在と神の存在と物体の存在を次々に証明していったのです。