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人は精神の存在?

このカテゴリーでいいのか自信ありませんがよろしくお願いします。 自分とはなんでしょうか? 何か一点を自分とすると、なんでしょうか? 自分とは脳でしょうか? 私は自分の身体に固執しました。好きになりたかったから… 私は自分の身体が嫌いです。自分の脳?心、精神?は好きです。 心、精神、今何かを考えている自分、何かを感じている自分、身体の中に巣くっている自分が好きです。 自分が脳だとしたら、身体が機能しなくなれば自分が無くなってしまうのかも知れません。 それはわかりません。 自分とはなんでしょうか? 身体はあってもいい。身体がないと意思通り動けないから無いと困ります。 だけど身体が嫌いです。身体に入ってるだけだと思いたい…

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回答No.6

ウエイトトレーニングたまにしているのですが、なんでしているかというと普段意識しないところ(背中とか変な筋肉とか)を意識することでそのカラダの部分も自分だと分かるからです。 柔軟とかヨガとか長くやってるとカラダと脳が自然に繋がっているようで気持ちいいです。 >自分とはなんでしょうか 心と体と脳と精神、なんだけど上手くコントロールしないとどこかの認識が欠けてくる存在とか意識、それが自分だと思います。

noname#91964
質問者

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ありがとうございました!

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noname#101110
noname#101110
回答No.10

自分とは何か?という問いは深いと思います。 私は自分とは大きく分けて、1)他人が自分を自分と認めている客観的な存在(社会的な自分、多分肉体的な存在が大きいが、芸術家などは自分の作品も含めるかもしれません)と、2)自分が納得してこれが自分だと認める存在(多分、自身の記憶を含めた精神的、内的な存在が主、自我というのでしょうか)との2種類があると考えています。 これらの総合体としての自分、またはそのなかの一部分としての自分もありでしょう。 一番望ましいのはこれらがお互い矛盾せず同一であることですが、殆どの場合これらは分裂していると思います。1)の場合だけをみても、近しい家族が自分をどう見ているか、会社の同僚は自分をどんな人間とみているかと考えればおそらくいくつもの自分が社会には存在するだろうと思えますよね。 自分は他人にこういう人間だと見てもらいたいという願望は誰にでもあると思いますが、それは多くの場合かなわないことだと思います。実際に自分がそう認識していても、客観的に見ればそうではなかったということはしばしばあることです。 >何か一点を自分とすると、なんでしょうか? 難しい問題ですね。多分、貴方が生きているうちはその答えは出ないのではないかと思えます。ひとの客観的な形象は日々変わるものですし、そのひとの内面もくるくると変わります。そういった変わるものが自分そのものなのだといえばそうなのでしょうが、そういう見方をすれば話はまったく単純になります。IDカードのなかの記述が貴方自身だということですよね。つまり強いて一点だけといわれるなら、貴方の存在は貴方の戸籍上の記載名だということでしょうか。 >身体はあってもいい。身体がないと意思通り動けないから無いと困ります。だけど身体が嫌いです。身体に入ってるだけだと思いたい… 気分はよくわかります。身体が精神の単なる乗り物だという考え方は古くからあったように思います。どうせ現世の間だけの乗り捨てのレンタカーみたなものですから、それでいいのかもです。死後も確実に貴方が残るような何らかの手立てを準備しておいてくださいね。

noname#91964
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ありがとうございました!

回答No.9

 自分存在とかの観念は、この界(私は、一応この界しか知らないようですので。他の界でも通じることかも知れませんが、)の錯覚だと存じます。

noname#91964
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ありがとうございました!

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.8

まず、かのデカルトは『我思う、ゆえに我あり』という言葉を残したのですが、この意味するところは、私という思いがあってこそ自分自身があるのであって、肉体があるから自分があるのではない、と結論付けたものなのですが

noname#91964
質問者

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ありがとうございました! ブログとっても参考になりました!!!

回答No.7

>自分とは脳でしょうか? 脳なんて知らんけどおいらはおいらだね。 >自分とはなんでしょうか? おいらは全部さ。おいらはまるごとおいらだよ。 >何か一点を自分とすると、なんでしょうか? おいらだよ。

noname#91964
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お礼

ありがとう!!

回答No.5

>>> 身体はあってもいい。身体がないと意思通り動けないから無いと困ります。 だけど身体が嫌いです。身体に入ってるだけだと思いたい… <<< そんな風に考えてしまうと言うことは、悲しいことですよね。。。 貴方の身体があってこそ、貴方の心・精神があるでしょうし、 貴方の心・精神があってこそ、貴方の身体があるでしょう。 貴方は面積も体積も持たない「点」にはなれないし 貴方は身体の中に「巣くっている」だけにはなれない たとえ、そうなろうとしたり、そうなることが好きだったとしても。。。 貴方は「自分の身体」に固執するのではなく、「貴方と貴方の身体」を成り立たせている森羅万象にもっと目を向けるべきだと思います。 「自分の身体に固執しようとした」ということは、「他から目をそらせたかった」ということではないのでしょうか? 何かに固執したいと思いたいとき、必ず「その他」のものから目をそらせたいという無意識の想いがあるはずです。 自身が求めているものは、実のところ、自身が排除したがっているモノの中に隠れていることが、往々にしてあるでしょう。。。 「孤独の調べ ― 光厳院」より >>> http://92363747.at.webry.info/200901/article_10.html    さ夜ふくる 窓の燈つくづくと かげもしづけし 我もしづけし 心とて よもにうつるよ 何ぞこれ ただ此のむかふ ともし火のかげ むかひなす 心に物や あはれなる あはれにもあらじ 燈のかげ ふくる夜の 燈のかげを おのづから 物のあはれに むかひなしぬる 過ぎにし世 いまゆくさきと 思ひうつる 心よいづら ともし火の本 ともし火に 我もむかはず 燈も われにむかはず おのがまにまに === 「岩佐美代子『光厳院御集全釈』より改変)」から、さらに改変 夜がふけていく。。。窓辺のともしびをつくづくと眺めている。。。その光に照らし出される私の身体(と、その影)も静かである。。。私(の心)も静かである。。。 心というものは、あちらこちらへと移り変わるものだ。自身の身体に固執したり、そこから離れたいと思ったり。。。一体これは何なのか。いま向き合っているのはともしびの光だけだ。。。 物(身体)に向き合っている心には、そのあわれさが感じ取られるだろうか、あわれというわけでもないであろうに、ともしびの光に照らされている私の身体よ。。。 ふけゆく夜のともしびの光は、おのずから物(自身の身体)のあわれさに、向き合っていると思われる。。。 過去、現在、未来と思いが移りゆく。心はどこにあるというのか、ともしびのもとにある心よ。 ともしびに私は向かっていないし、ともしびも私にむかっていない。それぞれにあるだけ。。。 <<<

noname#91964
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ありがとうございました!

noname#100496
noname#100496
回答No.4

仏教ではこの世界を仮の世界だと教えます。不調和世界の脳と調和世界の自然が出会うためのシュミレーションの世界です。頭は脳に身体は自然に属します。頭はストレスで身体は癒しです。だから脳を休める事も大事です。

noname#91964
質問者

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ありがとうございました!

noname#91067
noname#91067
回答No.3

自分の存在しているとは自己主張と自己確認を併せ持って確立させる試 みですね。自己確認は自分に対して自己主張のこと。 動物では自分を客観的に観察することや自省能力(自己パターンの改善 や予定を立てた行動をしない)ため自分の存在に不安になったり意図的 に抵抗を試みようとはしません。 好き嫌いも自己主張であり自己確認の手段ですが、この判定基準も理性 や善悪、要不要の意図を持った人間は個体差が大きいです。 生態学、生理学もズブのド素人で、アテにならない直感で間違ったこと を述べてしまうかもしれませんが、生命体としての身体は代謝や免役な ど原初的な脳や自律神経が司っています。心や思考(嗜好)の精神は感 覚神経が司っています。 身体は維持や淘汰の一定のパターンを持って成長或いは老化します。 しかし精神は没個性の抵抗、固執して(習慣、惰性がついて)増幅しよ うとします。つまり精神は場所を盗るようにもなると他に悪影響を及ぼ す危険も出てきます。癌細胞のようなもの。 拘りの少ない人もいて、つまり「鈍感」とか「感覚がズレてる」とか自 省能力がない「天然」「原始人」という人、或いは常識を疑える「変 態」「科学者」ですが、こういう人と接すると社会性が身に付いた 常識人も原初的な流儀に基づく交流にしか共有点が見出せないため (笑)に、最初から同化することを放棄できます。もどうでもよくなっ てきます。 自分の体を好きになれるぐらいに精神が昇華されるとか、体が改善され ることになってませんが。 好き嫌いはパーツが全体を意味付けるという目的と手段が逆転したフェ チに繋がりますね。フェチには逆説も逆転視の可能性が開けているようです。

noname#91964
質問者

お礼

ありがとうございました!

noname#100428
noname#100428
回答No.2

精神(魂)は永遠に存続します、肉体はその時々に置いて滅びます 一に魂(精神)、二に体の順番ですね 信じる信じないは勝手ですが、そう認識しています 自分とは、永遠を目指す仮の(今の)姿です

noname#91964
質問者

お礼

>自分とは、永遠を目指す仮の(今の)姿です そう信じたいです;; ありがとうございました。

  • shubal
  • ベストアンサー率20% (402/1958)
回答No.1

哲学(学者でもない)の人が理屈をコネそうですね。 私は身体が死んだらそれで終わりとはどうしても思えないのですが…。

noname#91964
質問者

お礼

こんにちは。コメントありがとうございます;; >私は身体が死んだらそれで終わりとはどうしても思えないのですが…。 同感です…。

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