• 締切済み

  信じるものは救われる。。

  最近この言葉は胸にすっと入るようになったんですが。        これはキリスト教の方からの言葉ですか。。   みなさんの御意見をお聞かせ下さい。      

みんなの回答

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.17

釈迦が我を信じよとか言ってんだ 嘘ぬかせww ・

ri-zyu
質問者

補足

  >釈迦が我を信じよとか言ってんだ   私は釈迦も達磨も信じてませんが   agripapaさんはどちらを信じてますか。。   

  • KONIMIX
  • ベストアンサー率28% (136/476)
回答No.16

>信じるものは救われる。。< 少し言い方を変えましょう。 「信じたと思い込んだ者は、救われたと思い込む」 「救われたいと思った者は、信じてしまう」 信じて救われるなら、オウム心理教の信徒は救われたのでしょうか? 創価学会の会員は救われたのでしょうか? 他の宗教は? 私には救われているようには見えません。 キリスト教徒も同じです。 家内がクリスチャンなので、教会の方々と接点が有るのですが、彼らも救われたようには見えません。 洗礼を受けている方々ですから、本来なら救われているはずです。 でも私には、悩み苦しんでいるように見えます。 この事実を彼らに問いかけると、「そんな事は無い。我々は救われている。救われないのは信仰が足りないからだ!」と答えるでしょう。 信じるから救われるのでは有りません。 家内は、「キリスト教も仏教も他の宗教(カルトと呼ばれる宗教は除く)目指す所は一緒だと思う。」と言います。 「だからあなたがクリスチャンでなくても、私は幸せでいられるの」と言ってくれます。 私もそんな家内が居てくれる事で幸せです。 (ちなみに私の家は、仏壇が有り、神棚が有る田舎の家です。) 自分で考えて信仰するから救われるのだと思います。 ことわざに、「イワシの頭も信心」と言う言葉が有ります。 イワシの頭でも信仰の対象に成ると言う意味です。 救われたいと思うから、信じてしまう。 「無条件に信じてしまって、自分で考えない方が楽」と言う事なのでしょう。

回答No.15

No5, 6です。 前回は「救われたい」といった情を中心にしましたが、「信じたい」といった情もまたあり得ます。 もし、そうであるなら、 「救われなくても、信じたい」 ということになるでしょう。 あと、 【何故】「信じる・信じたい」のか? 【何を】「信じる・信じたい」のか? ですが、「聞いたこと」とか「見たこと」とかいった、「何らかの対象」を想定する以前に 「私自身を信じる」といった非常に基本的なことが抜け落ちやすいです。 というよりも、他者・外部の全てが信じられなくても、「全てを信じられない自分自身」は信じる必要があるということです。 「信じる・信じたい」の立脚点は「自分自身」です。 他人がどう言おうと、どのような奇跡が生じようと、「自分自身」という立脚点を外すわけにはいかないということです。 そうして、それは「他者においても他者自身が立脚点」だということの裏返しでもあります。 そういった「立脚点」そのものを否定するような「信じる」は決してありえないということを常に念頭に置くべきです。 たとえば、一方的ないし相互に否定しあう者同士は、それぞれの「信じている」立脚点としての自分自身があるということです。その「どちらか一方のみを信じる」というのは、他方の「信じる」立脚点を否定しかねないということに相当します。 すなわち、「自分自身以外の何か」を「信じる」ということの難しさは、「自分自身を信じる他者」を否定することに繋がりかねないということです。 その点を踏まえ続けさえすれば、もしかしたら「救われる・救われたい」ということの本質に繋がっていくのかもしれません。 よろしければ、 http://okwave.jp/qa/q6869412.html?pg=1 の回答番号No.27も参考にしてください。

回答No.14

>信じるものは救われる。。   最近この言葉は胸にすっと入るようになったんですが。    これはキリスト教の方からの言葉ですか。   みなさんの御意見をお聞かせ下さい。  他の方々の回答も読んでみましたが、信じる対象があるようですね。そしてキリスト教から来ている様です。でも、ヤコブの手紙には、少し違うことも書かれてあります。 1:6~7『 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。』 1:22『御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。』 1:25『 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。』  以上では“行なう”事がポイントと言ってます。又、他の多くの箇所には“祈り”や”願い求める”“祈りと断食”とかがキーワードとなっている箇所もあります。  ※それらを総括すると、聞いて信じる事から始まると言えますが、それらは究極的に”キリストを信じて従って行く事の救い”を語っていると思います。

ri-zyu
質問者

お礼

   有難うございました。

回答No.13

信じない人は救われないんですか。何か選民意識を感じますね。 すでに皆さんの意見があるように、その言葉はお金が儲かるからという意味合いを感じます。 もちろん何を信じるかは、それぞれが個人の自由意志です。 どれを信じるかで現実は変わっていきます。それをパラレル・リアリティ= 平行した別の現実(世界)といいます。

ri-zyu
質問者

お礼

    有難うございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.12

信じるものは救われる。 ○簡単なようで難しい言葉ですね。この言葉自体は「人間が発する方便言葉」ですから、特に宗教に特有の言葉ではありません。 宗教でも開祖が使った言葉でもありません。一般的には弟子が使う言葉です。その場合必ず「・・・を信じるものは・・」になっています。開祖、例えば、ブッダやイエス、モーゼは「我を信ぜよ。」と言っているのですね。一方、弟子は「私はあなたを信じます、といって帰依するのですね。」 これを取り巻きが見て、揶揄して「信じるものは救われる」というのです。 ほとんどの場、信じたからといって救われるものではありません。信じる対象が問題なのですね。 余談ですが、親鸞は清水の法然上人を信じたのですね。法然が念仏で救われるというのだから、私は法然の言葉を信じよう、それで地獄に落ちても構わない、と言ってますね。 つまり、信じる対象がないと信仰にはならないのですね。 私は、お金を信じる、いや地位や名誉を信じる、マルクスを信じる、誰それを信じる、その結果救われるものかどうかですね。 イエスの弟子はイエスが捕まった時に皆逃げてしまいましたから、本当に信じていたのやらどうかですね・ 信じるというのは救われるかどうかではなく、信じきることが出来るかどうかなんですね。 親鸞のようにたとえ地獄に落ちても構わない。というのが信じることですね。 give and take とおなじように 信じる=救われる というのは宗教にはないのですね。 まあ、宗教詐欺が蔓延してますので間違いが常識化していることも事実ですね。 でも、間違いは間違いなんですよ。人の子は信じる対象を見出すために永遠の旅をしているのかもしれませんね。

ri-zyu
質問者

お礼

   有難うございました。

  • hisya
  • ベストアンサー率22% (65/285)
回答No.11

「信じるものは救われる」 信仰(信心)の根本です。 これは単純ですが実は奥が深いです。 「信じて行えば救われる」 実際の宗教のほとんどこれになります。 人間は信じるだけ救われると思えにくいのです。 人の心は見えないし揺れやすいからです。 団体になると信仰の証し=良い行いが求められます。 勤めや戒律やお金や布教などが救いには必要となります。 しかし、救いの条件に行いが入ると問題が起きます。 それで、偉大な宗教家は行いの問題を見抜いて 「信じるものは救われる」 再度、信仰(信心)の根本に戻すのです。 キリスト教のイエス=律法主義の批判(律法を守れば救われるを批判) プロテスタントのルター=信仰義認説(信じるだけで救われると強調) これは仏教でも同じであって 浄土真宗の親鸞=信じたら救われるです(念仏さえ救いの条件ではないです)

ri-zyu
質問者

お礼

  貴重な御意見を聞かせていただいてありがとうございます   勉強になりました。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.10

たしかに「信ずるものは救われる」という言葉のもとは聖書の以下のようなカ所に源を発しているかもしれません。 ”真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。”(使徒の働き16:25-34) 聖書ではなんでもかんでも信じなさいとは述べておりません。明確にイエスキリストを信じなさいと述べています。またイエスは次のように述べております。 ”イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」 ”(ヨハネによる福音書14章6節) 世界のクリスチャンと呼ばれている方々が信じているのはこのイエスキリストです。重要なのは誰を信じるかということだと思いますが、いかがでしょうか。旧約聖書ではイエスの出現が語られ、新約聖書ではイエスが地上で行なったことが主に語られています。

ri-zyu
質問者

お礼

 私はクリスチャンではないのですが何度か聖書は読んだ事があります、こいう一文が書かれていなんですね  色々勉強になりました有難うございます。

noname#155457
noname#155457
回答No.9

■・・・信仰とは何か・・・・・ イエスキリストは数々の科学を否定する奇跡を行いました。 空中から6000人分のパンを取りだし、物質不滅の法則を否定した。 盲目を治し、中風を治し医学を否定した。 水の上を歩いて万有引力の法則を否定した。 嵐を一喝で静め、気象学を否定した。 イチジクの木を一言で枯らして、生物学を否定した。 水を葡萄酒に変えて、化学を否定した。 これは、物理的な科学の法則は真理(真実)ではないという意味です。 人間にこの業が行えないのは原罪のせいなのです。 イエスキリストは神様なので奇跡が起こせる。と考えていませんか? イエスキリストは次のようにいっています。 ********************************************** 《まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。》 (新約聖書) ********************************************** つまり、誰でも奇跡は起こせますよ。といっているのです。 ただし、『信じて疑わなければ』です。 人間は科学を信じて疑わないため、科学的な法則に縛られているのです。 だから、この神の業を見て、科学を信じるのではなく、神の法則を信じなさい。 つまり、神の法則を信じる者は何でも与えられ、救われるのです。 という意味です。これが『信仰』です。

ri-zyu
質問者

お礼

  有難うございます参考になりました。

回答No.8

 こんにちは。  ★ これはキリスト教の方からの言葉ですか。。  ☆ 組織宗教と個人にとっての信仰を峻別している者ですが 聖書から要約した結果の言葉だと思われます。  中身については:  1. 《信じる》ことも 人間の能力と努力とを超えたところで作用するチカラにもとづくと見ます。  2. つまりは 《信じる》をあたえられるという意味です。そしてそれが すくわれることです。  3. 魚がたも(網)に掬われるようにです。ただし そのことを人間であるこちらもみづからの意志で受け容れることが 具体的におこなわれます。つまり信じるとは 受け容れるという行為です。  4. ただし いかんせん・かなしいかな 人間の意志行為は 相対的で移ろいゆくものであり限りあるものです。信じるを保つのも人間の意志行為が要求されます。そしてすべては 網の中に掬われてあるという土台のうえに展開されます。  5. この信じるは すべて 主観の問題でしかないと言われるほどに個人の行為です。しかもそれも わざわざ組織をつくって集団でおこなおうというのが宗教です。おしえとヒエラルキアとがあります。むろん 教祖や教団や教義は 《信じる》の対象では断じてありません。それらは 経験世界に属するものであり 《考える》の対象です。 

ri-zyu
質問者

お礼

   なんとなく言っている事が伝わってきますご回答頂き有難うございました。

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