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聖書に関する疑問です
「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」 という言葉があります。 因果応報の基本原則だと思うのですが、ここで疑問があります。 昔、スペインは南米を征服し、略奪のかぎりを行いました。 南米で蒔いた種を、スペインは自分の手で刈り取ったのでしょうか? (皮肉なことに、当時スペインはキリスト教を世界に普及しようと努めていました。) この事実を、キリスト教を信じる人達は、どのように受け止めているのでしょうか。 皆さまのご意見をお聞かせください。 よろしくお願いします。
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>昔、スペインは南米を征服し、略奪のかぎりを行いました南米で蒔いた種を、スペインは自分の手で刈り取ったのでしょうか? >皮肉なことに、当時スペインはキリスト教を世界に普及しようと努めていました。 スペインが南米を征服したこととキリスト教を世界に普及させようとしたことは当時の価値観からすれば矛盾でもなんでもありません。 当時の価値観からすれば植民地を獲得してスペインに繁栄をもたらしたことが刈り取ったことになります。 ご質問はキリスト教の歴史というか当時のキリスト教を誤解されている結果生じた疑問かと思います。 キリスト教は博愛主義の宗教だという考え方は極めて最近のことです。 キリスト教というのは、新約聖書のマタイ伝にもありますようにキリスト教を信じない異教徒を徹底的に排除する思想を持っています。 参考 マタイ伝第10章第35節 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させる ために来たからである。 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はいずれも唯一絶対神を奉じていますので自分達が奉じる神以外の存在を認めません。 しかも三つの宗教の聖地がエルサレムにあり重複しています。 自分達の聖地を護ろうとすれば他を排除する必要があります。 結果的に排他的になり先鋭化して行きました。 15世紀末から始まる植民地主義時代の初期にはスペンとポルトガルが大国でした。 この両国による確執を解消するために絶大なる影響力を持ったローマ教会が地球を二分してスペンとポルトガルの支配地を決めていました。 スペインが南米を征服したのは当時のローマ法王によって認められた正当な権利でした。(トリデンリャス条約) 権利を認められる代わりにキリスト教を南米大陸に普及させる責任も負わされていました。 つまりスペンにとっては異教徒である原住民を虐殺して排除してキリスト教徒の土地とすることは崇高な任務でした。 結果としてヨーロッパ文明の影響を受けることなく独自に発達していた中南米のインカ文明やアンデス文明を滅ぼしました。 >この事実を、キリスト教を信じる人達は、どのように受け止めているのでしょうか。 単に歴史的な出来事として受け止めています。 数世紀も前の事件と現代のキリスト教徒とは何の関係もありません。 歴史的な問題の責任が現代人にもあるとする考え方は儒教思想です。 キリスト教にはこのような考えはありません。
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- veradico
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長文かつ固い話で失礼致します。 まず、その言葉は、実際にはガラテア6章7,8節の聖句を元にしているのではないでしょうか。 「6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(新共同訳1987) そこで、全体をよく見てみまと、まず、この聖句は「人は」とか「蒔く者は」と書かれています。(聖書のさまざまな訳がありますが、聖句の趣旨は変わりません) そうしますと、この言葉は、「人」が行なうことについて述べていると読み取れるのではないでしょうか。 次に、文脈が大事です。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる」というのは、「自分の肉に蒔く者」と「霊に蒔く者」について述べていることがわかります。 以上のことから、この聖句を「国家」にもあてはめるとすると、もともと「人の行ない」について述べているので、無理があるといえないでしょうか。さらに、上記の通り、この聖句は「肉」つまり、利己的な態度や行ないをする場合と、「霊」つまり神の霊に調和したことを行なう場合に特に注目して述べています。すると、これを「因果応報の基本原則」として一般的なものとしてしまいますと、聖句の趣旨から合わなくなっていくのではないでしょうか。もとより、「因果応報」のように感じられるのは理解できます。しかし、聖書は神の霊が人に感化を与えて書き記させた言葉ですから、もともとの趣旨目的および意味に注目し、それを悟ろうとするべきだと思います。 それで、ガラテア6章7,8節の聖句は、パウロが活動していた地域の、キリストと結ばれるための召しを受けたクリスチャンたちに対して、神とキリストの教えを知っていながら行ったことは、肉または霊のいずれにせよ、必ずその人にそれぞれ報いとして返されると告げているのです。 それで、人間の国家の過去における野蛮な行為に対しては、なるほど神からの報復がただちに執行された形跡はありません。しかし、重要な点があります。それは、当時の人はすべて「死」という「報い」を受けたということです。もちろん、邪悪な行為に対する個別の処罰が残らず執行されたということではないでしょう。しかし、死という報いには大きな意味があります。(この点は、また別の主題になっていきますので、ここまでに致します。) ここで、「マタイ伝10章35節」を「キリスト教を信じない異教徒を排除する思想」に関係づける見方について、重要ですから証言いたします。 まず、イエスは、だれを対象に話していたのでしょうか。イエスは、イスラエル人に対して遣わされた、とご自身で言っておられます。マタイ15:24に 「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。」(同)と書かれているとおりです。すると、イエスが話されたのは、だれに対してでしょうか。明らかに当時のイスラエル人に対してです。ところが、大方の“キリスト教”という名の組織的な宗教や神学者のような権威を持つ人たちが、長い間、イエスの言葉を「全世界、全人類」を対象にあてはめて、もしくは「用いて」きました。そうではないでしょうか。 では、マタイ10章35節は、何を言っているのでしょうか。それは、イエスが活動しておられた当時のユダヤ人(イスラエル人)の世の中の状態を考えればわかります。福音書の筆記者たちは、パリサイ人、サドカイ人、書士たちなどが強い権威を持って、ユダヤ人社会をさまざまな仕方で支配していた事を記しています。 例えば、ヨハネ12:42は、「 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。」(新改訳1970)と記しています。 それらパリサイ人、サドカイ人、書士たちのうち、権威を振るっていた者たちは、イエスに対してどのような反応をしたでしょうか。ご存じの通り、イエスを激しく憎み、敵対し、滅ぼそうと相談し、最後には殺したのです。 なるほど、マタイ10:35では「地上に」と書かれているので、全世界に当てはまるかのように見えますが、上記の通り、もともと当時のイスラエル人に対して話された言葉であることは明らかです。それを全世界に拡大してあてはまるかのように見なすべきではなかったのです。もっとも、教訓を学ぶことはできます。例えば、イエス・キリストの真実の教えを受け入れ、守ろうとする人々と、それを認めず、拒絶するだけでなく、信者に対する迫害などの敵対的な態度を取るものたちが現れるだろう、などです。 そのようなわけで、マタイ10章35節は、「(イエスの活動は)ユダヤ人に教えをめぐる分裂を生じさせるものとなるだろう」という意味であることは明らかです。そして、歴史は、実際にその通りの結果になったことを示しています。それでイエスは、例えば「ユダ王国の再興」によりローマによる占領支配を駆逐し「平和」を取り戻す、などの目的で来たのではない、とおっしゃっているのです。 ヨーロッパの強国が「キリスト教」の名で侵略を行った事は、組織化された“キリスト教”を標榜する宗教が、イエス・キリストの言葉を守り行わなかった結果の一つです。それらの宗教組織については、昔から政治支配と関係してきたことは誰もが認めている事であり、聖書でも、例えばヨハネ黙示録17:2で「 地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった。」と書かれている「女」に属するものとして預言されています。黙示録の言葉によれば、「神の裁きの時が到来した」(14:7)ときに、「野獣」(明らかに人間の政治国家)の上に座っているこの「女」に対して「獣は、この淫婦を憎み…裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう。」(17:16,17)と預言されています。 それで、イエスは、神に敵対するよう決意しているわけではない人々に争いをふっかけるためにマタイ10章35節の言葉を語られたのではありません。むしろ、当時は神との契約関係にあったユダヤ人がまず神と和解し、イエスの言葉を守り行ない、互いに平和をつくり出すようにとお教えになりました。しかし、実際にはどうしてもその教えを憎むものが現れ、争いと分裂が起きることは避けられないのだということも率直に予告されたのです。
お礼
詳しい回答ありがとうございます。 「肉or霊」どちらに種を蒔くかで、「単に滅びて終わり」なのか、もしくは「永遠の命」を刈り取れるかが、変わるのですね。 この点が、本質だということが理解できました。 ~~~~~~~~~~~~ 死は誰にでも訪れます。 それを言い始めたら、全ては「死」により解決されてしまいます。 キリスト教的には、死んだあとに「神の横に座れる」のか否かが、分かれるので、確かに重要なのかもしれません。 ただ、「目に見える報い」がなければ、神の存在を疑わざるを得ません。 私見ですが、人は「死んだあとの世界」に意味があるのではなく、「どのように生きたか」が大切だと考えます。 そして、目に見える報いがないのであれば、人生の価値は 「楽しく」生きる事に集約されるはずです。 上記の論理展開は、極めて重要です。 ~~~~~~~~~~~~~ キリスト教というよりも、イエスの説いた言葉は、イスラエルの民向けなのですね。
イスラム教のサウジアラビアにおいて、宗教上の決りで今まで禁止していた女性の自動車の運転および国民の映画鑑賞をそれぞれできるように改めました。 当然のことです。宇宙の世界が、この地球の世界が、どんどん変化しています。その変化に対応するように、過去につくられて宗教も勇気をだして改めるべきです。 キリスト教も同様です。核兵器で世界を破滅することができる世の中です。キリスト教もバージョンアップすべきなのです。 しかし、バージョンアップしようとすると、争いに発展するのが宗教の特性です。だから、いつまでも、古い価値観のままで人を縛っていると、わたしは思っています。キリスト教においても例外ではありません。 そういう意味では、人類はあまり賢いと言えません。わたしは、いろいろな宗教の教えのなかで、現代社会に適合するものだけを、自分の人生哲学に組み入れるようにしています。いわば、超宗教の生活です。
お礼
回答ありがとうございます。 >キリスト教もバージョンアップすべき 指摘の通りです。 ただ、難しいでしょうね・・・ 宗教自身が、自分自身を「権威」だと考えているからです。
- edogawaai
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個人的な考えですが キリスト教は、個人の宗教です 自分の属する、国 または 団体が過去に何をしても 個人が、告白等 悔い改めるなら 個人の責任は免責されます 過去にスペイン国が何をしようとも 彼または彼女が キリスト教徒として、正しく生きるなら 問題も無いと、思います
お礼
悔い改めることがポイントなのですね。 回答感謝します。
お礼
回答ありがとうございます。 キリスト教は、そもそも博愛ではないのですね。 >植民地を獲得してスペインに繁栄をもたらしたことが刈り取ったことになります この世には、勧善懲悪は、やはりないのですね。