- ベストアンサー
責任とは覚悟?
私の上司は震災の後、少しの自宅待機ののち人より早く出社したそうです。 皆がまだ自宅待機期間でも、水が復旧していなくても、責任のある立場なら行かなければならなかったのでしょうか。 責任とは覚悟なのですか?この1年間ずっと思っていました。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
哲学における責任とは自由と関係します。 つまり、甲という選択もできるし、乙という 選択もできる。 それなのに甲という選択をする。 何故、甲を選択したのか、と言えば、それは 責任があるから、ということになる。 その人の地位や何かから、甲を選択すべきときは 甲を選べば責任を果たしたことになる。 乙を選べば、無責任ということになり非難される。 あのイタリア人船長のように。 甲を選ぶとき危険が伴うときがある。 その時は覚悟が必要になる。 こういうことであって、責任と覚悟が必然的な 関係にある訳ではないでしょう。
その他の回答 (5)
上司の人が置かれている状況が分かりませんが ごく一般的な責任論でいえば 部下に的確な指示を出さなければならないのが上司の務めだと思います。 部下に先んじて現場の状況を把握して、なすべき事と、その工程を明らかにしておかなければ、的確な指示は出せません。 部下の配置や、指示の出し方の方法、言葉さえも吟味しておかなくてはならないと思います。 指示の言葉は、できるだけ簡単で分かり易く、強く言わなければなりません。 はっきりしない指示は部下を迷わせるだけになってしまう怖れがあるからです。 上司という、人を動かす立場にある者は、常に的確な指示を出す責任があります。 それは気の休む間もない重責でもあると思いますが、同時に大変にやり甲斐のあることだと思います。 自ら進んで重荷を背負い、なすべきことをやり遂げていくところに、人としての生き甲斐をもつ事ができるからです。 時には金銭面を無視してまで、その責任を果たさなければならない時もあるかと思います。 仕事上の責任を果たしてゆくことは、辛くもあり、またやり甲斐もあることです。 わりあいに、覚悟といった悲壮感はないものです。 仮にあっても、それを上回るやり甲斐がある場合が多いと思います。
お礼
ありがとうございます。
貴方の上司はすばらしい人格の持ち主なのでしょう。 でも、誰もができることではなく、まして、そうしなければならなかったのか?と問われれば、必ずしもそうでもないだろう、としかいえないと思います。責任の取り方自体、様々な状況が考えられますし、当人の価値観にもよります。もっと貴方の上司がそのときに置かれていた立場の実態がわからなければなんともいえないと思います。 世の中には、キリストのような、他人の、世界中の人間の罪を背負って自ら死んでいった人間もいますし、戦後の日本人の一部のように、日本が引き起こした戦争についてそれを自らの罪であると認識して贖罪の日々を送ったひともいます。それはそれで意味のあることかもしれませんが、価値観の違うひとにもそれを押しつけることはできないと思います。 一般的な常識として、人間はまず何よりも自分が生き延びることを考える生き物です。これを卑しい生き方だとする人もいますが、この価値観を捨てて、キリスト的な生き方でで生きれば、いずれ自身はもとより家族や社会、国家は競争から脱落し、崩壊するかもしれません。 まったく逆の考えもあるかもしれませんが、要は程度の問題です。 >責任とは覚悟なのですか? そうですね、上記の文脈から言えば、責任を受けた時点で、この責任を全うするために何をせねばならないのか、それはどんな場合を含むのか、船長に任命された時点で、船が沈没する時は船と運命を共にする覚悟も決めねばならない、責任者がそういう無私の価値観を持てば、最良の船長にもなれるということでしょう。
お礼
ありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「労働とは、お金をもらうための義務である」と考えれば、 その義務の範囲をこえた行動は、“損”であるが、 「労働とは、社会生命としての助け合いである」ならば、 お金はそのため(生きて働くため)の手段であって、 より社会の役に立つ可能性があれば、それを行うのが 「社会生命的自覚=愛」による社会行動として、自然な 帰結である(上司であれ部下であれ)。 ところが、人類の分業化の発達において、その自己の 生命性の社会的拡張を、自己の生きる意志の延長とし て把握する認識の深まりを省略し、自己チューな意識の まま、お金や出世、権力といった「馬車馬の目の前の ニンジン」によって他律的に操って、社会性のコースを 走らせる方策をとった。 それにより、助け合いとしての労働とは別に、ボランティア (意識的な助け合い)という妙なものが生じたのだ。
お礼
ありがとうございます。
私も震災の責任について考えています。覚悟を決めないと、責任は取れないと思います。しかし私は同時に、覚悟とは漠然と命や身を投げ出すというようなものではなく、何をどうするべきかを明確に認識し、建設的な行動をとることであるとも考えています。その顕著な例を挙げますと、被爆の可能性のある食品を、我が身を呈して食べることでは、責任は取れないと思います。何を自分の責任と見定めるべきかを考えることから始めてはどうでしょうか。私自身、模索中ですけれども。
お礼
ありがとうございます。
- entap
- ベストアンサー率45% (78/172)
言葉の定義が全然違います。カテゴリミステイクです。 私とは地球である、とか、神とは大地である、とか、そういう詩的な言い回しです。 そのような定義はあなたの中の心理的風景の事故整理には役立つでしょうが、世界の把握を妨げる一因ともなりえるので、気をつけてください。 責任とは何か、ですか、responsibilityという言葉と責任という言葉は微妙に違うため、定義が難しい言葉でもあります。 責任を負っているとは、そのことについて任せられている、という意味であり、その人が何もしなければ、その部分については何も動かない、という状態です。 状況が悪化しており、責任を負っている人が何もしなければ、状況は悪化するに任せられます。 様々な要因により、それを肯んぜずとしない状況が発生しており、そのためにそこに向かわれたのでしょう。 責任を負っていても、もっと大事なものがあるだろう、という人がいます。 話は単純で、もっと大事なものよりも、責任を守ることが(結果として)もっと大事だ、とその人が判断したから(ここが重要です。責任を負っていることそのものがその行動を取らせるのではありません)、責任を負った任務を遂行しようとしたのでしょう。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。