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ニーチェの言う獅子について
竜が「汝なすべし」と言い、獅子は「我欲す」と言いますが、獅子は何を欲しているのでしょうか。 『自由』という回答は駄目ではないかと考えます。既に獅子は自由なのですからね。(もし『自由』でしたら、根拠を添えて教えて下さい)
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まず、端的に問われていることに回答することが必要でしょう。 (わたしは、ドイツ語ができませんし、またニーチェの『ツァラトゥストラ』は、基本的には通して読んでおらず、ごく部分的であり、しかも、先に少しでも本を見たのは、十年以上前であるという前提での話ですが。いま見ようとして、本が見つからないです)。 >竜が「汝なすべし」と言い、獅子は「我欲す」と言いますが、獅子は何を欲しているのでしょうか。 これに対する答えは、「自由(Freiheit)」です。問題は、「何の自由」か「何を成せる自由」かということです。「我欲す」が可能であるには、「自由が必要」という意味の自由ではないのです。自由は、精神(Geist)に根元的に備わっており、ただ、駱駝の状態では、「自由」の自主的発動は抑制されているのです。 No.1/No.2 の回答者が引用されている英文サイトでの英語訳では、「ライオン(獅子,Loewe)」が、駱駝の精神のなかに出現する、あるいは、駱駝の精神が「ライオンの精神」に変貌するのは次のような契機においてです: >But in the loneliest wilderness happeneth the second metamorphosis: here the spirit becometh a lion; freedom will it capture, and lordship in its own wilderness これを訳すと、 >しかし、もっとも深い孤独の荒野にあって、第二の変貌が起こる。ここにかの(駱駝の)精神はライオンとなる。ライオンは自由を捕捉するだろう[ライオンは自由の捕捉を意志する]。また、それ自身の荒野における主権[の捕捉を意志する]。 この英語の訳文では、will(意志する)という動詞は、「 will capture freedom 」と、「will capture lordship 」の二つの対象についての「話法助動詞=意志未来の動詞」として使われています。ドイツ語では、ここはどうなるかというと、次のサイトのドイツ語文では: (http://www.sekten.ch/ex-site/texte-folder/zarathustra.htm) >Aber in der einsamsten Wueste geschieht die zweite Verwandlung: zum Loewen wird hier der Geist, Freiheit will er sich erbeuten und Herr sein in seiner eignen Wueste. このようになっていて、これがニーチェの原文のはずですが、大体を訳すと(いい加減な訳ですが): >しかして、もっとも深き孤独の荒野(砂漠)にあって、第二の変貌が起こる: ここにおいて、精神(Geist)は、ライオン(Loewe)になる。彼(ライオン)はみずから自由(Freiheit)の捕獲を意志(will)し、また「彼固有の荒野」の主たることを意志する。 「彼固有の荒野の(in seiner eignen Wueste)」とは、どういうことかということで、日本語訳では、色々意訳しているようですが、英語訳では、「 in its own wilderness 」と、eigen(固有の)という形容詞を、そのまま「 own 」で訳しています。 ここで、英語だと、「will」は、単純未来と意志未来があるのですが、ドイツ語の「 wollen(will は、その現在単数一人称/三人称)」は、「意欲・必要・傾向・主張」であって、「未来」の意味は基本的には持っていないはずなのです。 ------------------------------ そこで、「我欲す」というのは、どういう文脈で出てくるかというと、英語では: >What is the great dragon which the spirit is no longer inclined to call Lord and God? "Thou shalt," is the great dragon called. But the spirit of the lion saith, "I will." これに対するドイツ語原文は: >Welches ist der grosse Drache, den der Geist nicht mehr Herr und Gott heissen mag? "Du-sollst" heisst der grosse Drache. Aber der Geist des Loewen sagt "Ich will". 「汝なすべし」に当たる英語は、「 Thou shalt 」です。他方、原文のドイツ語では、「 Du-sollst 」で、ハイフンで結ばれて一語になっています。「我欲す」は、英語では、「 I will 」ですが、ドイツ語では、「 Ich will 」となっています。 ドイツ語の文章を勝手に訳してみると: >精神がもはや、主とも神とも呼ぶことを望まない( nicht mehr ... heissen mag )、かの偉大な龍とは何であるか? 「汝かくあるべし」龍はそう呼ばれる。しかしてライオンの精神( Geist des Loewen )は言う:「我は、意志する」。 龍は、「 Du-sollst(汝かくあるべし)」と一つの単語として、名称として、「呼ばれている(heissen)」のです。それに対し、ライオンの精神は、「我は、意志する」と主張するのであって、そう呼ばれているのではないのです。sollst は、sollen の変化形ですが、ゾルレン(Sollen)とは、「当為・格率」です。 龍は燦然と燿く黄金の鱗で覆われていて、その黄金の鱗の一枚一枚に、「汝かくあるべし」と記されているとツァラトゥストラは述べています。 >"Aller Werth ward schon geschaffen, und aller geschaffene Werth - das bin ich. Wahrlich, es soll kein "Ich will" mehr geben!" Also spricht der Drache. >「あらゆる価値は、すでに生成されており、すべての生成された価値-それは、私である。まこと、「我は、意志する」とは、もはや存在していなのだ(しているはずがない)!」かく龍は語る。 「我は意志する」とは、ライオンの呼称ではないのです。少なくとも、これらの文脈では、精神のライオンが、「我は、意志する」と主張し、それに対し、もっとも偉大な龍が、「汝かくあるべし」というみずからの名が記された黄金の鱗を無数に煌めかせつつ、「我は、意志する」は、存在する訳がないのだ、と主張しているのです。 従って、「何を欲するか=意志するか」は、「自由」を意志するのですが、また、「意志すること」を意志するのだとも言えます。「意志への意志」です。 ------------------------------ 話が、紛らわしく訳が分からないような感じですが、「何を意志するか」の答えは、このようになります。無論、更にその先があるのですが。 >「我欲す」というのは、受動的ニヒリズムの象徴として、価値を生み出すことをせずに、道徳は唾棄して、別の価値を欲す、ということだと思っていたのですが、どうです? 駱駝からライオンへ、そしてライオンから子供へ。この三つの変容の姿において、「駱駝からライオン」への変容において、「我は意志する」が出てきます。 >我が兄弟たちよ、何のために、精神のライオンは必要なのか?(Meine Brueder, wozu bedarf es des Loewen im Geiste?) こうツァラトゥストラは尋ね、述べます。 >Neue Werthe schaffen - das vermag auch der Loewe noch nicht: aber Freiheit sich schaffen zu neuem Schaffen - das vermag die Macht des Loewen. >新たな価値を生成すること-これは、いまだライオンには可能ではない。しかして、新たな生成に向けて、自由をみずから生成すること-これは、ライオンの力によって可能である。 ライオンは、「自由」を捕捉するため必要であるが、「新たな価値の生成」は行わない-行えないのです。そこで、「子供( Kind )」へと、更に精神は変容する必要があると、ツァラトゥストラは言います。では、「子供」は何をするのか。 >Unschuld ist das Kind und Vergessen, ein Neubeginnen, ein Spiel, ein aus sich rollendes Rad, eine erste Bewegung, ein heiliges Ja-sagen. >無邪気(無垢)なるは、子供そして忘却。新たな始まり。遊戯(シュピール,Spiel)。みずから回転する環。始源の運動。聖なる「然り」の言葉。 Unschuld は、キリスト教的に考えると、Schuld(罪)に対する「無罪」を意味し、「子羊なりしキリスト」が、こう呼ばれます。しかし、Unschuld は、「無邪気・無垢」の意味のはずです。 これは、ニーチェの「無限循環」と呼ばれているもので、後期ハイデッガーが取り上げた、ヘーラクレイトスの断片的な言葉のなかに、「宇宙の時間」とは「子供の遊び」であるというような表現が提示されます。 「Schaffen」をわたしは、「生成」と訳しましたが、これは、ギリシア語の「φυειν,pyuein(ピュエイン)」に対応するものでしょう。「子供( Kind )」は、キリストではなく、古代ギリシアの前ソクラテス自然哲学者の「生成する自然」の象徴の「子供」であるのだと考えるべきでしょう。 > http://www.geocities.com/thenietzschechannel/zarapt1.htm
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- ghostbuster
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補足要求を再度出しておられますが、私は哲学を専門に勉強しているわけでもなく、その理解も非常に浅いものですので、質問者さんがなさった解釈の当否を論じることなどできません。 すでに哲学史の流れにおけるニーチェの位置について#3の方から、 そして、この部分についての詳しい説明が#4の方から(大変勉強になりました。ありがとうございました)出されているので、もはや私が書くことなどないように思えます。 ということで、この部分から受けた印象を簡単に書いて、回答に代えたいと思います。 ・「汝なすべし」 ニーチェはみずから「神」という言葉を用いていますが、むしろこの言葉から私が受ける印象は、カントの道徳律です。 カントは、人間は理性の命じる定言命法(~すべし)に従うことで、初めて自由になれると考えた。 こうしたカントの「自由」を否定するものであるのではないか。 ニーチェの時代というのは、進化論の時代でもあるわけです。 たとえばカントは人間と動物の違いを、動物は本能に縛られているが、人間は理性を持っている(本能や欲求の束縛を受けない=人間の自由)と考えた。 けれども、進化論というのは、こうした動物対人間という図式をぶち壊すものです。 すべての生物は自然選択の作用によって、進化していく。 人間も、動物と同じ起源を持つものである。 このことがどれほど思想にも影響を与えていったか、想像に難くありません。 質問者さんがおっしゃるように、ニーチェの自由とは、最終的には、力への意志ということになっていくと思います。 ニーチェの言う「あらゆる生」が求めていることは「生きること」ではなく「強くなること」であるというのは、進化論を背景にしていると考えると、非常に納得のいく結論です。 近代までの哲学というのは、世界の中には絶対的な真理というものがあって、理性を働かせて正しく思考していけば、その真理にたどりつく、というものだったのに対し、まずキルケゴールがヘーゲルの体系化された哲学のありかたを批判していくことから実存主義が始まっていきますね。そうした大きな思想的流れの中に、ニーチェも位置づけられる。 ですから、たとえばカントは自分の著作を誰が読んでも同じ結論にたどりつくように、非常に厳密に言葉を定義づけながら、レンガで建物を建てていくように論理を積み上げていくのだけれど、キルケゴールなどは意図的に体系化を避け、合理的客観的な理解を拒むような書き方をしていきます。 そういう意味でニーチェの著作を読んでいくのはむずかしいな、と私なんかは思うんですが(よくわからないところもたくさんあります)、まぁそれはそれでいいのがニーチェじゃないかな、とも思ってるんですね(なんていい加減な回答……)。
お礼
補足ありがとうございます。 ニーチェ、難しいですね。特に、同情の禁止が僕にはサッパリです。 何故、同情は恐れへの復讐になるのか……。 それはさておき、とりあえずここで終了させて頂きます。 回答者の皆さん、ありがとうございました。
私は日本語の哲学用語には慣れていませんが、倫理分野での著作家として、Nietszche の論法や概念の解説という面からお役にたてればと考え投稿します。 ご質問にあるdragon と lion の metaphors は、Zarathustra の冒頭(第一章)に出てくる "The Three Metamorphoses" との連関だけでなく、Nietszche 自身のとらえる "神なるもの" の概念と深く関ります。 ここでは、人間が camel (= a beast of burden) つまり感情や感覚すら抑制された状態から脱却して lion (= the future man, controller, master of the environment) として自己、自我や自制心を持つ存在となることで、(内在的な)人権としての自由を獲得すること段階へ至ります。しかし、その一方で、自分よりも更に大きい存在(一般に "神なるもの" 或いは創造主として理解認識される対象)に対峙することで、 "神なるもの"の存在やその価値への疑問から、これを圧倒し克服することで、初めて Ubermensche (Overman, Superman) としての人間の自己の変性改革の最終段階へ到達できると考えるため、the great dragon (= the last master) を倒す事が lion の持つ欲望の ultimate concern となります。この結果到達できる child の段階では、自己を確立した、善悪を超越した無実な存在として、全く新しい価値を見い出します。 ただし、こうしたNietszche の世界観や人間観については、論法や論旨の点で、他の実存主義論の哲学者と共通するだけでなく、(特に)西洋宗教観を充分に理解している人間には、ごく自然に解釈できます。 仮に Nietszche が "神なるもの" を否定する方向で理論を構築したと解釈された場合でも、dragon と戦うことで結果的に"神"という概念をことごとく消しさることが人間には可能だとか、自分が新しい"神なるもの"へ到達できるとか、といった結論までは、Nietszche には出しえていません。 人間個人の(或いはNietszcheの)理解できる範囲での"神なるもの"の概念について、既成概念を破壊して新しい世界観や価値観を創造しそれと一体化できる存在になることが目標であるという点では、神そのものを人間にとっての ultimate concern とする Kierkegaard が "神" と "実存" の一体化を理想とした論法をとる事と流れは一緒で、人間として生きる道をNietszche なりに表現したものに外なりません。 更に、最終的に、"神" との対峙接触をとおして何らかの revelation (天啓) を受ける(或いは自身で勝取る)という経験なしには最終段階へ到達できない、という点では、人間には理性の枠のみで "神なるもの" を全て理解することはできないとする、例えば Kant の時代の哲学の限界から抜け切ることはできていません。しかも、最終段階で child になる比喩表現は、その無実さという点で、キリスト教での "子供" の概念を共有しており、また論理的には、必要条件として創造主や親の存在が常に前提となるため、神と子の一体関係及びキリストと人との関係を駆逐することになりえず、Nietszche が否定しようとした宗教観が再び彼の理論の限界として甦っています。 "神なるもの" の定義がNietszche 自身に出来得なかった点だけからでも、"Nietszcheも悩みぬいた人間だった" という親近感が沸き、Nietszcheの哲学や著作を無神論と位置付けて一概に批難や否定できない一方で、全く斬新な理論や思想とも必ずしもいえない理由が、こうした "The Three Metamorphoses" の論法からも読みとれます。 +++++ 他の哲学者とは根本から違うという観念からではなく、他の哲学者やご自分自身の人生観と如何に共通するか、というアプローチで読む限り、Nietszche の論法やスタイルは、文学的な価値についての批評をのぞいては、必ずしも難解ではなく、不快にすらなりえず、賛否の立場を超えて読みすすめる事が可能となります。
補足
随分と専門的ですなぁ。 獅子が竜に戦いを挑むのは、自由を奪取するためではなく、超人になるため、ということですか? そるすると、「我欲す」の目的語がいよいよ気になりますね。
- ghostbuster
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補足拝見しました。 ご質問の趣旨は、そういうことだったんですね! 確かにそう言われればそう読めますね。 私が持っているのは中公文庫の方なのであまり疑問も抱かずに読んでました。 こういうときはオリジナルにあたるのが一番なんですが、残念ながら私はドイツ語がわかりません(質問者さんがおわかりになりましたら、ぜひそちらでお読みください)。ということで、英語版を見てみましょう。 http://www.geocities.com/thenietzschechannel/zarapt1.htm 翻訳は、ニーチェ訳ではたぶんこれ、かなり一般的な訳だと思うのですがThomas Commonです。 But in the loneliest wilderness happeneth the second metamorphosis: here the spirit becometh a lion; freedom will it capture, and lordship in its own wilderness. ;の後は倒置で、通常文にすると it will capture freedom, and lordship in its own wilderness. ですよね。 なのでやはり、精神は自由と、自分自身の砂漠の統治権を得ようとする、と読めると思います。 ついでにドラゴンとライオンの名前を。 What is the great dragon which the spirit is no longer inclined to call Lord and God? "Thou shalt," is the great dragon called. But the spirit of the lion saith, "I will." "I will"が「我欲す」。 ん~、なるほど、という感じですね。 確かに強い意志未来を表すには、その言葉が最適なのか。 >「我欲す」というのは、受動的ニヒリズムの象徴として、価値を生み出すことをせずに、道徳は唾棄して、別の価値を欲す、ということだと思っていたのですが、どうです? それぞれの解釈があると思います。 私はごく単純に、重荷に耐えて砂漠を進む駱駝の精神が、自由を欲して獅子となり、神を体現する竜に相まみえて、竜を打ち倒し、そののち幼子になる、と読みました。獅子とは、神(および神によって体現された道徳を含むもろもろの価値)を倒すための存在なのだと。
お礼
ツァラでニーチェは自由を奪取するためには獅子が必要と書いているので、獅子が自由を奪取するためにあるのは間違いないみたいです。 ただ、「我欲す」と自由の奪取の直接的な連関が見られないので、やはり「我欲す」の意味が気になりますね
補足
なるほど。 英語版でいくと、自由を欲していますな。 当然、ニーチェの言うように、解釈は多様ですから、どれが正しいとは言えませんけれど、新しい解釈を見つけました。 駱駝はキリスト教が育んだ「誠実への意思」によって獅子になります。つまり、キリスト教を唾棄します。 次に、「誠実への意思」はそれさえにも向けられて、その正体は「力への意思」ということになります。 そして、「力への意思」の象徴こそ、「我欲す」となります。ニーチェは「自由とは、押されもせず引かれもせず、力が勝っている状態」と言っていまして、「我欲す」と言える状態=「自由の象徴」ということです。ですから、これは別に何を欲しているわけでもなく、ただ単に自由の象徴なのかもしれません。 という解釈でして、実のところ眉唾なんですけどね。 ただ、獅子になる→自由を欲する、ではなくて、自由を(誠実への意思によって)得る→獅子になる→聖なる否定をする、のほうが自然な気もしますが、うーん……、と言う感じですね。
- ghostbuster
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逆に質問です。 なぜ獅子はすでに自由なのですか? いまもう一度確認してみたのだけれど、 『ツァラトゥストラ』では 重荷に耐える駱駝の精神は、孤独の極みの砂漠の中で二度目の変身を遂げる。それは 「精神は自由を我がものにしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする」 からです。 当然「我欲す」が求めているのは自由であり、「汝なすべし」と闘って、自由を強奪し、そののち小児になるのだと書いてあると思うのですが。
お礼
うーん。でもやはり「自由」なのかもしれません。 精神は「自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になる」ことを欲したのかもしれませんね。 「我欲す」というのは、受動的ニヒリズムの象徴として、価値を生み出すことをせずに、道徳は唾棄して、別の価値を欲す、ということだと思っていたのですが、どうです?
補足
う……。 僕のツァラトゥストラはこう言ったは、岩波文庫、氷上さん訳のものなのですが、 「精神は自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になろうとする」と書いてあります。 つまり、この訳書でいうと、自由になった結果、砂漠にいって竜に戦いを挑むように思えます。 ですから、「我欲す」は自由ではないと思ったのです。 それに、「我欲す」は自由だからこそ言いうる言葉だと思いますが、どうお考えですか?
お礼
なるほど、よく分かりました。ありがとうございます。 二通りの自由があるわけですね。 1.元来から備わっている自由意志 2.「汝なすべし」=「定言命法」への自由 で、獅子の言う「我欲す」は2の自由を指すということですな。