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江戸期古文書の解読
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- moto_koukousei
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みちなり 文字 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/212249/m0u/ みちなりにひく 意味 http://okirakubirder2.blogspot.com/2010/10/google.html ふりだし 意味 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/14795/m0u/ 方位 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D#.E6.9D.B1.E6.B4.8B.E3.81.AE.E6.96.B9.E4.BD.8D 松平信綱による鷹場の寄進(1633)尾張徳川家は将軍より江戸西方の地を鷹場として賜る。 「鷹場を囲んで境界線に83本の石杭が立てられた」 http://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/bunkazai/sitei32.html 「江戸時代、幕府は狩猟を行う鷹狩りのため、江戸城を中心に五里(20km)以内の村々を鷹場とした。三鷹の地は、上連雀・野崎・大沢から東は幕府の鷹場であり、西の井口・野崎・深大寺・大沢は尾張徳川家の鷹場であった。 村々には境界を示す石碑が建てられ、三鷹市内には4本が現存している。」 https://www.library.mitaka.tokyo.jp/pdf/rekisi.pdf 「三鷹という名前自体が鷹狩に関係深い三鷹市の市役所敷地内の中庭に、「鷹場標石」がある。この標石は三鷹市内に7基建てられていたそうだが、現在は3基が残っている。左写真の三鷹市役所敷地内にある標石は、江戸期にこの場所にあったものではなく、市内寺社にあったものを移設したという。標石は明和7年(1770)に造作され、3基は大沢新田、野崎新田、井口新田に建っていたという。三つの新田は享保期の幕府の政策である武蔵野新田開発で誕生した地域である。井の頭池から最も近いのが井口で、2キロ余り離れている。写真を拡大すると標石に刻まれた文字が、「従是東西北尾張殿鷹場」とあるのが読める。これより東西北の地域が尾張家の鷹場であることを示している。 おそらく現在の大沢四丁目に建っていたものではないか。御三家、御三卿(田安・一橋・清水)、家門、有力大名の鷹場は江戸より5里~10里の間に貸与されていた。これを「御借場」(おかりば)というが、尾張家の鷹場は武蔵国入間・新座・多摩の三郡内とされていた。しかし、多摩のどこが境界なのかわたしが読んだ資料には出ていなかった。標石に東西北と刻まれているが南がない。よって標石が建っていた場所は尾張家鷹場の南端と思われる。であれば、三鷹市の南端は大沢四丁目か中原一丁目。中原一丁目は江戸より5里以内になろうから、これは幕府の鷹場となり、尾張鷹場の南端が三鷹市大沢四丁目と推定できる。」 http://sito.ehoh.net/takabaseido1.html 展示は終わっています http://www.city.asaka.saitama.jp/cgi-bin/news/article.cgi?id=7617 http://www.city.asaka.saitama.jp/pdf/bunkazai/takagari02.pdf 多摩のあゆみ50号に次のような記事があるそうですから、見比べながら古文書を読んではいかがでしょうか。 http://www.tamashin.or.jp/ayumi.html 特集 御鷹場 その1 尾州藩の鷹場について 槙本晶子 第一章 鷹場の研究 (1)鷹場に関する研究動向 (2)主題の設定 第二章 鷹と鷹狩 第三章 武蔵野 (1)地域的特色―近世以前の武蔵野― (2)武蔵野の新田開発―近世の武蔵野― 第四章 小川家文書 (1)小川家と小川村 (2)小川家文書と「武州様御鷹場御定杭場所書上帳」 第五章 尾州藩の鷹場 (1)尾州鷹場の概要 (2)鷹場村とその負担 (3)鷹場の範囲とその変遷 (4)鷹場杭 (5)御鷹場御預り御案内について まとめにかえて 史料紹介 小平市小川家文書「尾州様御鷹場御定杭場書上帳」 蛭田廣一 小平市小川家文書「尾州様御鷹場御定杭場所書上帳」と尾州鷹場 蛭田廣一 http://www.tamashin.or.jp/ayumi/backnumber41_50.html http://library.kodaira.ed.jp/pdf/olddoc0321.pdf こんなのがあったのでしょうか http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/12/12/img_0058.jpg http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b029.html http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b031.html
- fujic-1990
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当方、素人ですが、たぶん、よみは 「おんさかい、みちなりにひき」 「○○どう、みちなりにひき」 (立川 は固有名詞でしょうからどう読むのか不明。たちかわ?) 意味は、たぶん 鷹場との境界線は、道が通っている状態にあわせてひき 鷹場との境を示す杭を、道が通っているようすに合わせて、振っていけ というような意味なのでは?、と思います。 それで意味は通じませんでしょうか? 引くのはやっぱり線でしょうし、曳くのはズリズリと引きずっていくという意味ですから、杭をたくさん振っていくのか、杭と杭の間に縄でも付けるイメージでしょうか。 ちなみに、新潟には「行形亭」という有名かつ歴史のある料亭があります。「ぎょうけいてい」ではありません。 「形」を「なり」と読みますし、新潟では今でも「ここから、道なりに5キロほど行った所」とか使います。 直線距離、ということではなくて、道が東に曲がれば東に行き、道が南へくねればくねって進むことを言います。走行メーターは5キロになったあたりが目的地です。 そちらでは「みちなり」という言葉、つかいませんか?
お礼
いろいろの情報をいただき、ありがとうございます。 御鷹場に関心をお持ちの方がいて心強い思いです。