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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は 人間以前か?)

日本人は人間以前か?

このQ&Aのポイント
  • 日本人は人間以前の状態にあるか問い求めています。
  • 岩井克人が述べるところによると、コミュニケーションする意図を持たない人は人間以前であるとされています。
  • 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることにより、日本人は人間以前の存在とみなされる可能性があります。

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  • kurinal
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回答No.6

bragelonneさん、こんばんは。 >「もうおそいか? そんなことはないと思われる」 「もうおそい」ということはないのかもしれませんが、「おそい!」ってことはあるのかもしれません。 「政教分離」ということをモンダイとするのなら、何周遅れなんでしょうか。 ・・・3周くらい遅れていると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。いろんな事柄がからんで来て――おっと くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――いろんな事情がからんで来て 広く見渡した議論が必要になりましょうか?   ★ 政教分離  ☆ について触れるとしたならば。  特に日本の場合は いわゆる宗教法人としての組織宗教とそして言わずと知れたブディズムからクリスチアニズムからシントイズムからさらには――イスラームはどうなりましょうか その前にはしっかりと――コミュニズムまでを包み込んだ大日本教という非組織宗教もまだまだ活火山の状態にありますから 果たしてどう扱えばよいでしょう?   * 組織ならざる宗教 これを 《観念の運河 クウキとしての   水路網――人びとのゴンドラはきょうもゆく――》として取り上げ   たことがあります。  この日本教というのは 誰でしたか小説家が《無限抱擁》と言ったかと思いますが 言ってみればそのような状態であり人びとの情感がどこまでも限りなく互いに毛布にくるまって多少なりともそこにヌクモリを感じ合うという情況であると考えられるのではないでしょうか?  情感の共同性 これが 日本教であり 組織のない組織宗教です。  義理と人情のシガラミ構造とも言いますね。    それに比べるなら あちらの世界では 意識の流れを基調としており そこにおのづから起こる衝突をも辞さず互いに競争する。そのような意識の主張と破綻とさらにそれらの統合といった動態過程を その共同自治の方程式としているとでも言うのでしょうか?  したがって クリスチアニズムの基礎――それは 根っ子なのか それともただの幹か――があるとしても この《意識の突出による競争》型が 社会の方程式になっているとすれば むしろそれが 目に見えない・組織ならざる組織宗教であるのかも知れません。  意識にもとづく慣わしとしての宗教は いわば――時には嵐をも呼ぶ――風を吹かしている。つまり 情感にもとづくナラワシとしての宗教は あくまで――うわべは和を以って貴しとなす――クウキである。  言いかえると この情感ないしクウキの宗教は 何週遅れであっても そこを取り繕うすべに長けている。  その全体をクウキで・あるいは情感で覆い包み そこここの綻(ほころ)びはやはり情感とクウキで埋め合わせればよいと思っている。どうも人びとは自信がありそうである。  内弁慶なのかどうか分かりませんが この日本国内という情況にかぎっては自信がある。らしい。    政教一致の政党および宗教団体も 情感とクウキの甘い調べに乗せて 社会力学上の圧力をふんわりとかければ だいたい誰に対してでも言うことを聞かせることが出来るという寸法になっているのでしょうか? あっ カネの力も必要でしょうね。  ということは コミュニケーションを互いに取り合うことをしない主義の場合というのは 義理と人情とカネとうことばで 人びとは互いに話し合っているのでしょうか? どうなんでしょう? あっ もうひとつ 《権威》という力のようなクウキのようなスイーティーのような閻魔様のような最後の印籠もありましたか。  政教分離の主題 だれか取り上げてくれませんかねぇ。当方 じっさいの当世宗教事情にくわしくありません。  宗教批判 この主題については 別建てであつかおうかと考えました。  くりなるさん ありがとうございました。

その他の回答 (13)

回答No.3

皆さん宗教家なのですね。善とは、自分を偽らないことです。自分の弱さが自分でわからなければ、ずうっーと偽善です。これは、はっきりいって深いです。自分の弱さ認めてみる旅に出かけてみては。それが宗教家のつとめでしょ。がんばって。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。皆目見当がつきにくいご文章ですね。  まづは つふじふじさん ご回答をありがとうございます。  ★ 皆さん宗教家なのですね。・・・それが宗教家のつとめでしょ。  ☆ わたくしは 《宗教家》ではあり得ませんし ほかの方々もちがうはずでしょう。  わたしの定義する《宗教》は 個人がその信仰をつうじて得られた観想(テオーリア)からそれを何とか人間の言葉にして表わしたものについて 普遍性があるなら 思想ないし理論(テオリ=セオリ)として定立する。  人は人をころさないものなのだなぁという観想を得て これを《汝 ころすなかれ》という規範とし さらにこれを信仰者の集団においてその《教義》とするなら そのとき個人の信仰は組織としての宗教に衣替えする。    こういう理解のもとに わたしは宗教は 個人の信仰の自殺行為であると断定し 宗教組織の自己解体を勧めています。ですから 《宗教家》ではあり得ません。  ★ 善とは、自分を偽らないことです。  ☆ 但し書きがつくと考えますが いま そのとおりだとします。  ★ 自分の弱さが自分でわからなければ、ずうっーと偽善です。  ☆ 《弱さ》もわが心の迷いとしてありましょうし またぎゃくに《強さ》もわが心の言わば誇るところとして 時として 起こると思われます。  もうひとつに この《わが心》の内実をそのままに 表現するかどうかは また別問題です。全体として・つまり言葉だけではなくその振る舞いや表情などすべてを含めた人格全体としては 自己表現であるしかなく たいていはその内実が自分にも人にも分かられてしまうということでしょう。  ですが いま交通(まじわり)ないしコミュニケーションの場で いつもいつもその場でこの《内実》が話題になるとは限りません。  意図せざる偽善も表わされることがあれば 同じく意図せざる偽悪も生じましょう。あるいは 意図した偽善も偽悪も 悪びれず自己表現としておこなう場合もあるかも知れません。  ★ これは、はっきりいって深いです。  ☆ ですから どういう場合の《偽善》が深いのか? これは よくつかめませんでした。  自己の心の弱さを隠したというのではなく その弱さをそもそも知らないという事態を言うのですね? でしたら それは 知らずに自己表現しているという意味での《善意》であるようにも思われます。そこから 自覚を持つようになれば済むのではないでしょうか?  ★ 自分の弱さ認めてみる旅に出かけてみては。それが宗教家のつとめでしょ。がんばって。  ☆ こういう決めつけは 占い師のそれでじゅうぶんです。ではないでしょうか?

  • MOG56222
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回答No.2

考え過ぎではないでしょうか? 引用文は、世界宗教性という言葉が示す通り、一神教的な思想への疎遠さと偽善の関係性を指摘しているだけでは? あと、引用文の趣旨を尊重すれば「ある意味で」という言葉をタイトルに付ける必要があるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 もぐさん ご回答をありがとうございます。  ですが その内容は 誤解にみちていませんか?  ◆ 世界宗教性  ☆ これは 唯一神を信じる信仰もしくはそこから派生した宗教のことをそのまま言ったものではないと考えます。  この経験世界は 相対の世界であり これを超える絶対なる領域もある。ただしこの神(もしくは 無い神)の領域は――相対の世界を超えているからには――言葉で言い表すことが出来ず 思惟によっては捉えることが出来ないということ。  この相対と絶対との区別をきちんと持つということ。  その上で 経験相対の世界におけるものごとをとおして・つまりは人間の言葉をつうじて 基本的には一般には 人と人との交通(まじわり)をおこなうということ。――このことを言っているのではないですか?  ★ 引用文は、世界宗教性という言葉が示す通り、一神教的な思想への疎遠さと偽善の関係性を指摘しているだけでは?  ☆ そうですね。  ★ 一神教的な思想  ☆ とは どういうものを言うのか? 基本的には信仰は 非思考ですから――つまり《考える》のではなく《信じる》というのですから―― 《思想》ではあり得ません。わづかにその非思考のいわば心の伸びもしくは明けなる状態から 観想や瞑想をとおして 人間の言葉で表わすところの思想が派生することになるわけですが そうは言っても すでに経験思想として表わされているのなら それは 元が一神教であろうと多神教であろうとあるいは汎神論であろうと 問題にはなりません。経験思想なのだから 経験合理性によってすべて判断されます。  ですから  ★ 一神教的な思想への疎遠さと偽善の関係性  ☆ というとき この《疎遠さ》は もしあるとしたら やはり上と同じく 一神教の場合に限らないでしょう。《偽善》という現象についても まったく同じことです。  信仰――非思考の庭――と 経験思考と これらふたつの世界を互いにきちんと区別するということ。これが 《世界宗教性》――《宗教》という用語はわたしは使いたくありませんが――という意味であるはずです。  このように考えますが どうでしょう?  その上で 質問の問い求めるものは まだ目の前に横たわっている。こう考えます。果たして日本人は 人間以前の状態にある人間なのか?

回答No.1

日本人は、自分の内なる行動原理に従っているのではなく、 稲作農耕文化の集団主義的かつ島国文化の日和見主義的に、 周りに合わせて生きることで安心するのである。 「うわべを取り繕っている」という点で「偽善」とも言えるが、 そもそも善悪の内なる規範がない以上、『偽』でさえない。

bragelonne
質問者

お礼

 さいてっくすさん ご回答をありがとうございます。  ★ 自分の内なる行動原理に従っているのではなく、  ★ ・・・日和見主義的に、周りに合わせて生きることで安心する  ★ 「うわべを取り繕っている」  ★ そもそも善悪の内なる規範がない  ☆ 脈絡をくづしてしまって要素部分だけを書きだしましたが まづは これらの要素が見られることにおいて  ○ 顔がない。のっぺらぼう症候群である。  ○ その意味で 《人間以前の状態にある人間》として社会生活をいとなんでいるようだ。  ☆ となりましょうか?   これを  ○ 大衆(あるいはつまり 大衆の原像)  ☆ と言った人がいましたが そのような意味合い(ないし文脈)では そう言えると見ることができましょうか?  ★ 稲作農耕文化の集団主義的かつ島国文化  ★ そもそも善悪の内なる規範がない以上、『偽』でさえない。  ☆ たぶんこの二点は もう少し詳しく説明しなければならない主題ではないでしょうか?   たとえば 《汝 ころすなかれ》といった善としての規範は 持っているはずです。西欧文化が入る前からです。  たとえば 《集団志向(ないし チームワーク)》と《集団主義》とは やはり違うはずです。  或る程度昔の話ですが 一国が戦争状態ともなれば 農耕民族では必ずしもない欧米の国々でも 全体主義としての集団主義にはなり得ます。  アメリカでは いわゆるキリスト教原理主義としての・有無を言わせない一種の集団主義が 部分的にしろ 見られるようです。  ちょっと休憩を取ってから ふたたび考えてお応えいたします。あしからずご了承ください。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ★ 稲作農耕文化の集団主義的かつ島国文化  ☆ たとえばこういったことは考えられませんか?   ☆☆(お礼欄) 《集団志向(ないし チームワーク)》と《集団主義》とは やはり違うはずです。  ☆ を継いで考えるのですが:  集団の力がうまくはたらくのは 一人ひとりが集団志向において力を合わせるからであって 前へならえで大合唱をするときではないと考えられます。  稲作を取って考えてみても それは家族ないし世帯別に田んぼを所有してはたらくのであって ソホーズやコルホーズといった集団農場をおこなうのではないと考えられます。  すでにこの問題は ひどっちさんからおそわって確かな議論を得ています。   ○【Q:自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?】その回答No.2以降です。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6751708.html  すなわち 次の研究書であり その抜粋が 著者の HP に載せられています。   ○ 高野陽太郎:『「集団主義」という錯覚― 日本人論の思い違いとその由来』2008  ▲ (『日本人は集団主義的』という通説は誤り) ~~~~~~~   http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_200930_j.html  (著者自身のHPより)  2.発表概要:   日本人論では、長らく「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。現在では、「集団主義」は、「日本人」の基本的なイメージになっている。   ところが、この通説が事実なのかどうかを確認するために、心理学、言語学、経済学、教育学などにおける実証的な研究を調べたところ、日本人は、欧米人より集団主義的だとは言えないことが明らかになった。  また、「日本人は集団主義的だ」と広く信じられているという現状は、人間の思考を歪める心理的なバイアスによって作りだされたものであることも明らかになった。  3.発表内容 〔* (5)のほかは 項目のみです。〕  (1) 心理学的研究  (2) 言語学的研究  (3) 教育学的研究  (4) 経済学的研究  (5) エピソード ~~~~~~~~~~        日本人論は、個別のエピソードを主な論拠としてきた。    そこで、エピソードは日本人論の通説を支持しているのかどうかを検討するために、新聞や雑誌に掲載された集団主義・個人主義に関連するエピソードを調べた。その結果、「集団主義的な日本人」という通説に一致するエピソードと同様に、「個人主義的な日本人」や「集団主義的なアメリカ人」を表すエピソードも多数見つかることがわかった。    このことは、エピソードについても、公平に調べてみれば、日米間にはっきりとした違いは見られないことを物語っている。日本人論において通説に合致したエピソードばかりが取り上げられてきた理由は、自説に合致した事実ばかりに注意が向く「確証バイアス」という思考のバイアスではないかと推定される。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (6) 過去の日本人  (7) オリエンタリズムとしての「日本人 = 集団主義」説  (8) 「日本人 = 集団主義」説が広まった理由  (9) 文化ステレオタイプ  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (5)のエピソードは あまり核心にせまらない議論ですが 案外その全体的な情況を示していると思って その箇所を引用してみておきました。  ★ そもそも善悪の内なる規範がない以上、『偽』でさえない。  ☆☆(お礼欄) たとえば 《汝 ころすなかれ》といった善としての規範は 持っているはずです。西欧文化が入る前からです。  ☆ この問題は 言い過ぎをなさったという勇み足だと考えますので 特におぎないはありません。

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