※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:美の乞食に問う:醜さとは何か?)
美の乞食に問う:醜さとは何か?
このQ&Aのポイント
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。
しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。
この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。
私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。
私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。
しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。
私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。
が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か?
美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。
念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。
(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。
(2)醜さとは何かを定義する。
(3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。
これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。
それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
お礼
ありがとうございます。そして徹底した態度を示した見事な回答です。 >見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さ。 これが醜さの定義ですか! 美の定義かと一瞬思いましたよ。そしてこの最たるものが、ギリシア彫刻であると仰る。 確かにそうかもしれません。つまり評論家らは、ギリシア彫刻を美と思うわけでしょうが、「見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異」な美がある、と言うかもしれない。そのまま裏を返して、人が美と思うものを醜さと呼び換える。驚きました。この回答だけで、スレッドを作った意味があったというものです。 そして美の序列をつけるにあたっては、一人の女優を例に出す。同じ女優でも、初期の慣れない時が醜い、とは。実によいですね。 私が御回答から引き出した定義とは、 ――初々しさ、未成熟は醜さである。
補足
さて、そろそろ締めることにいたしました。約五十もの投稿、どうもありがとうございます。BAをNo1と選んだのは、おどろおどろしい質問に対して、最初に回答してくださったからであり、また、私の考えた遊戯の仕掛けを、よく理解してくださっていたと考えるからです。 一般的には、未熟や初々しさを、特に異性に対しては媚態と考える方が多いのではないかと思います。いわゆる、萌え、あるいは海外で浸透しつつある、Kawaiiという概念です。その一方、それが醜いのだとおっしゃる。まさに独自の視点がよく出ていると思いました。結局、このスレッドの課題になっていたのは、主観的な問題であって、社会的な通念としての「醜さ」とは違うのです。 なぜこのような問いのたて方をしたのか。他の投稿者からもちらほらと意見が出ていましたが、所詮、美や醜は定義できないものです。他人が美だというものが、自分にとっては醜さとなりうる。このスレッドでは、そういう愚痴をこぼし合って、和気あいあいと議論をしたいと思ったのでした。ここで私が拾い上げた醜さの定義を拾っておきます。 ――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。 ――イドラに踊らされること。 ――諍い。 ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。 ――他を見下すための自己顕示。 ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。 ――作品に注ぐ愛情の欠如。 ――ナルシシズムに耽溺すること。 ――他人を不毛さに巻きこむこと。 ――飢えた虚栄心。 ――初々しさ、未成熟。 醜さとして提示しているが、もし美学に関心がある方なら、一瞬で、どれもが、とある芸術家の美意識に結び付くものだと見抜かれるでしょう。オナニーでさえも、ジュネであったら、的確な意見となるでしょう。イドラに踊らせることも、バロック期の芸術家ならば、望むところ、と言えないでしょうか。私としてはこれまで建てた問いの中でも、なかなか豊かな収穫があったと思います。 さて、美の乞食が乞食ではなくなるとはどういうことか。この身近にある醜いものに愛情を注いでみる、というのが一つの答えです。無論、私はそれを声高に主張するお節介な趣味はありません。しかし、一つの可能性として、もし醜さの中に美を見いだせるようであれたら、世界が変わって見えるだろうな、ということくらいは、言えそうなものではありませんか? 私の趣旨は非常に、単純なので、もう看破していらした方もいるかもしれませんが、こうやって敢えて定式めいたものを出すことで、心の中にある感覚を言語化し、自分からつき放してみるための契機となれば、と思ったのです(aliénationといいますか)。しかしその中でも個人的に、諍いに美があるとは、ちょっと考えたくありませんね(笑。やはりダメなものはダメか)。 最後に、このタイミングで締めることにした理由について触れておきます。その理由はいくつかありますが、議論が十分になされたということに加え、一つには、美の乞食が自分だと名乗り出たNo10の方が、未だに自分だと考えているらしいと判明し、思いこみの強さを気の毒に思い、また質問そのものが楽しいものではなくなってしまったからです。上述の醜さは、一つくらいは誰にでも身に覚えがあることだが、全部自分のことだとお考えになってしまった。そういう醜さの権化みたいな人がいるものでしょうか。いや、いないでしょう。要するに、彼が美学を何にも勉強していないから、全部、自分のことに思えるだけなのです。これはこれで哀れだと思うべきでしょうか。 しかし、私は彼に対して、まったく関係ない、と伝えたはずでした。それで、本当に自分のことだと考えているのかどうか、私は疑問に思っています。というのも、彼はこの手口で、複数回、関係ないことを関係あると言って、私を追いかけてきているからです。口実を作り、是が非でも私と議論したいのかな?と私には見えています。普通なら、「関係ない、あっそ」で終わりだし、勘違いした投稿を消してしまえばいいのだが、どうしても「関係ある、日本のためだ、議論しろ」とおっしゃる。勝手な理屈をこねた、ネットストーカーの類と私には見えています。私のアカウントは、これで様々なカテで交流ができていたため、まことに残念ですが、ストーカー対策として、私はアカウントを消してしまうことにしました。 ――というわけで、リトルキスちゃん、雨合羽さん、マシュマロさん、木造の親方、では、さようなら。良いお年を、ジョワイユーズ・フェット! (※パリだと、年末年始の挨拶が、ジョワイユー・ノエルではなく、ジョワイユーズ・フェットJoyeuses fêtes「よいお祭りの日々を!」というようです。クリスマスがキリスト教だから、多国籍に配慮して、わざと「お祭り(複数形)」というんだろうな、と感心していました)。