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気勢感をめぐって さらに 美とは何か?

 先般の   ( a ) 【Q:わび・さびは どうして美しいと感じられるのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7117520.html    の質疑応答を承け   ( b ) 【Q:非対称の美の鑑賞から】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7139296.html  を通過するかたちで 表題について問います。  § 1 いきなり 美とは何か?  (1) あちらでは《美的快感》と定義するようですが これを《みづみづしさ・息吹き・あるいは存在感》と――( a )のやり取りでは――捉えました。    (2) さらにこれを 《対人的な関係性を重視する美徳、美意識》と規定される場合も見られ それは ひとつには 共通感覚や共同主観につうじるところの相互主観性ということをないがしろには出来ないと言っていると思われます。人は 社会的に独立して存在するが それは社会的に関係性を有するということだと考えます。  孤独とは 孤独関係なりと。  (3) もうひとつに 美徳ともなりますと 倫理観にまでつながり いわゆる真善美というときの善にまで通じるかとも思われます。おそらく  こうでしょうか?   (3-1) 作品にしろ風景にしろ何らかの対象に向き合うとき    わが心にみづみづしい息吹きを呼び起こすほどの美は わ    れここにありという《わたし》の存在を自覚するきっかけにな    る。     そのとき 《われもまた アルカディアにあり》と言ったかど    うか分かりませんが それはともかく われは孤ならず必ず    隣り有りといった人びととのかかわりや まじわりを想い起    こさせてくれるものだということかと。  (4) 言いかえると 人と人との関係性や交通の現実性は ほかでもなく《生活世界》のことを言っている。何のことはない 日常生活なる基礎にもとづく美感・美意識ないし美学が 問われている。と言ってよいでしょうか?  (5) かたちにおいて枯れたものと華やかなものとがあり それぞれ 《わびさび》と《みやび》とに分けて捉えてみる。    (6) おそらく ミヤビとしての美的感覚は 人びとの生活日常とすれば 市民にとっての一次的な基礎ではなく その上に別の階層をつくりそこに第二次の生活世界を築こうとしたところに見られる。のではないか?  (7) 基礎ないし土台としての生活は つねに侘びしく寂しくなければならないものではないが おそらく 一度は枯れてしまって底に突き当たってのごとくさらにそこから なお残るみづみづしいちからを感じ得て 生きるというところに 美的感覚をおぼえるものと捉えられる。  (8) ワビサビの美を感じる心を 言葉としては あやまち得るスサノヲ人間語に対応させて捉え 対するにミヤビの美は あやまたざることを旨とするアマテラス人格語で捉えることとする。  (9) ひとつの問いは (3-1)の《人とのきづなを感じさせるところの・わが存在になお残るみづみづしい息吹きの自覚》は スサノヲ人間語やアマテラス人格語それぞれの単独の世界において見い出せるものか? これです。  (10) 言いかえると――質問者によるたたき台としては―― 両者あいまって 美的感覚をかたちづくるであろうと仮説してみる。  (11) 言いかえると スサノヲ人間語はみづからの中に倫理観などを潜在性として含むことにおいて その荒削りとしてのアマテラス人格語を宿していると見るのだし それに対して アマテラス人格語も ただそれだけでは無味乾燥なのであって どこまで洗練して行ってもそこに言わば土臭いスサノヲ人間語を失わず備えているはずだ。こう見るのが よさそうだとなります。  § 2 具体的な美の鑑賞へ  (12) さて § 1の作業仮説にもとづき(もしくは それを批判し修正しつつ) ( b )に挙げられている次の作品について われわれは では どう見るか?    ○( b ) ~~~~~~~   参考例  ( c ) 尾形光琳 紅白梅図          ( d ) 龍源院   枯山水石組の立石   ~~~~~~~~~~~  (13) ひとつの焦点は ( d )が パッと見としては スサノヲ語の枯れた美であり ( c )がアマテラス語の華やかな美であると見られるというとき ほんとうのところは どうか? になります。  《気勢感》は みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょう。  (14) ここからは 一人ひとりの美的感覚の問題になって その十人十色なる多様性はあたかも収拾がつかなくなるほどであるかも分かりません。が とにもかくにも 美とは何か これをさらに問い求めてみたい。こういう出で立ちです。  * 質問者は 理屈はこねますが 美術史の素養もなく 個々の作品は画像で見たというくらいの知識と経験なのですが その非力をも省みずあつかましくもこのように問います。よろしくどうぞ。

みんなの回答

  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.1

「氣」は美しいw

bragelonne
質問者

お礼

 趣旨説明におぎないを添えます。  (あ) 《気勢感》については (13)で《みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょう》と書きましたが それは 気勢ということにかんして一般化して捉えているという意味です。  《左右非対称》やそのときの《左から右への上昇の流れ》などにこだわらないという意味です。それはそれで ひとつの鑑賞内容なのであろうと見るという意味です。  苦言を持ったその内容をしるしますと こうです。  手紙を縦書きの場合にも 右から左へと行をすすめていくわけですが そのとき一枚の紙に書かれたそのひとまとまりの文章ないし文字列のその縦長の四角のかたちについて そこでも左下から右上への動きが見て取れるなどと言われてしまっては 困ったものだと思ったのでした。  (い) 質問者じしんは 次の作品について あまりよい印象を持っていません。国宝にまでなっている美術作品についても そうだからと言って 誰もが同じくうつくしいと感じるかどうかは また別だという思いを持ったことからも みなさんにたずねて見ようと考えました。    ( c ) 尾形光琳  紅白梅図    ( d ) 龍源院   枯山水石組の立石  ( c )は初め ひょうたんのお化けかと思いました。右の紅梅は みごとにその枝っぷりをしめしていると感じましたが 左の白梅は 今度もやはり何かのお化けがうらめしやぁとさぞ言っているかに見えます。色合いだとかについて 実際に見てみるなら また違った感想を持つのかも分かりませんが 第一印象は そんなふうです。美とは感じません。けばいとも感じられる金色は ぎゃくにあざやかだとも感じられますが。それは アマテラス語の成熟度を表わしましょうか。  ( d )は 真ん中の島がなぜあるのか? と感じます。苔や草が生えていて まわりの石庭とは別の世界をあらわしているのでしょうか? つまり意図的にそうしていましょうか? その必要がないように思います。石だけでいいように思います。  正面の奥に木々が植わっています。これも 構図に入れるのなら もう少し何とかならないものか? 活かすなら活かすで もう少し何とかならないか。  そして 周りを囲む塀ですが けっきょく隣の塔頭か何かの家が見えていますので これもわざと見えるようにしたのか?  木々は無しで 塀を高くして 小石の地面といくらかの大きい石で織り成す庭だけの世界をつくったら どうか?   それにくらべるなら 竜安寺の石庭は ふつうに落ち着いているように感じます。落ち着いている中に 気勢をも感じ得ます。塀の壁の色がよいでしょう。  * こんな減らず口をたたくまでにとは言いませんが みなさん 鑑賞とその感想をのべるにあたってはお行儀がおよろしいようです。スサノヲ人間語だけで述べよとは言わずとも それをまじえてほんとうのところを――国宝認定といったようなクウキを取っ払って――お聞かせいただきたい。こう思います。言いかえると いや おまえの見間違いであり勘違いだ ふたつの作品例はともに すぐれていいぢゃないかという目利きのあり方をおしえてください。(例の質問へのご投稿と重なるのかも分かりませんが あらためてご見解をお寄せいただけるなら さいわいです)。