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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:美の乞食に問う:醜さとは何か?)

美の乞食に問う:醜さとは何か?

このQ&Aのポイント
  • 美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。
  • しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。
  • この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。

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  • MOG56222
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回答No.1

>(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 肉体単体を美しいとは思えない私としては、誇らしげなギリシャ彫刻などは駄目ですね。 (2)醜さとは何かを定義する。 見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さでしょうか。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 売り出しの女優さんが持つエキゾチックさが醜さの極地で、見慣れたり内面を理解したりするにしたがって美を感じていきます。 その後、冷静になって、あるがままに観れたとき、何とも言えない侘びさびを感じてしまいます。 結局、美は愛着であり煩悩であるのでしょうが、美に醜さを観、醜に美を観るというプロセスは煩悩を越える真美であると思うのです。

noname#145704
質問者

お礼

ありがとうございます。そして徹底した態度を示した見事な回答です。 >見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さ。 これが醜さの定義ですか! 美の定義かと一瞬思いましたよ。そしてこの最たるものが、ギリシア彫刻であると仰る。 確かにそうかもしれません。つまり評論家らは、ギリシア彫刻を美と思うわけでしょうが、「見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異」な美がある、と言うかもしれない。そのまま裏を返して、人が美と思うものを醜さと呼び換える。驚きました。この回答だけで、スレッドを作った意味があったというものです。 そして美の序列をつけるにあたっては、一人の女優を例に出す。同じ女優でも、初期の慣れない時が醜い、とは。実によいですね。 私が御回答から引き出した定義とは、 ――初々しさ、未成熟は醜さである。

noname#145704
質問者

補足

さて、そろそろ締めることにいたしました。約五十もの投稿、どうもありがとうございます。BAをNo1と選んだのは、おどろおどろしい質問に対して、最初に回答してくださったからであり、また、私の考えた遊戯の仕掛けを、よく理解してくださっていたと考えるからです。 一般的には、未熟や初々しさを、特に異性に対しては媚態と考える方が多いのではないかと思います。いわゆる、萌え、あるいは海外で浸透しつつある、Kawaiiという概念です。その一方、それが醜いのだとおっしゃる。まさに独自の視点がよく出ていると思いました。結局、このスレッドの課題になっていたのは、主観的な問題であって、社会的な通念としての「醜さ」とは違うのです。 なぜこのような問いのたて方をしたのか。他の投稿者からもちらほらと意見が出ていましたが、所詮、美や醜は定義できないものです。他人が美だというものが、自分にとっては醜さとなりうる。このスレッドでは、そういう愚痴をこぼし合って、和気あいあいと議論をしたいと思ったのでした。ここで私が拾い上げた醜さの定義を拾っておきます。 ――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。 ――イドラに踊らされること。 ――諍い。 ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。 ――他を見下すための自己顕示。 ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。 ――作品に注ぐ愛情の欠如。 ――ナルシシズムに耽溺すること。 ――他人を不毛さに巻きこむこと。 ――飢えた虚栄心。 ――初々しさ、未成熟。 醜さとして提示しているが、もし美学に関心がある方なら、一瞬で、どれもが、とある芸術家の美意識に結び付くものだと見抜かれるでしょう。オナニーでさえも、ジュネであったら、的確な意見となるでしょう。イドラに踊らせることも、バロック期の芸術家ならば、望むところ、と言えないでしょうか。私としてはこれまで建てた問いの中でも、なかなか豊かな収穫があったと思います。 さて、美の乞食が乞食ではなくなるとはどういうことか。この身近にある醜いものに愛情を注いでみる、というのが一つの答えです。無論、私はそれを声高に主張するお節介な趣味はありません。しかし、一つの可能性として、もし醜さの中に美を見いだせるようであれたら、世界が変わって見えるだろうな、ということくらいは、言えそうなものではありませんか? 私の趣旨は非常に、単純なので、もう看破していらした方もいるかもしれませんが、こうやって敢えて定式めいたものを出すことで、心の中にある感覚を言語化し、自分からつき放してみるための契機となれば、と思ったのです(aliénationといいますか)。しかしその中でも個人的に、諍いに美があるとは、ちょっと考えたくありませんね(笑。やはりダメなものはダメか)。 最後に、このタイミングで締めることにした理由について触れておきます。その理由はいくつかありますが、議論が十分になされたということに加え、一つには、美の乞食が自分だと名乗り出たNo10の方が、未だに自分だと考えているらしいと判明し、思いこみの強さを気の毒に思い、また質問そのものが楽しいものではなくなってしまったからです。上述の醜さは、一つくらいは誰にでも身に覚えがあることだが、全部自分のことだとお考えになってしまった。そういう醜さの権化みたいな人がいるものでしょうか。いや、いないでしょう。要するに、彼が美学を何にも勉強していないから、全部、自分のことに思えるだけなのです。これはこれで哀れだと思うべきでしょうか。 しかし、私は彼に対して、まったく関係ない、と伝えたはずでした。それで、本当に自分のことだと考えているのかどうか、私は疑問に思っています。というのも、彼はこの手口で、複数回、関係ないことを関係あると言って、私を追いかけてきているからです。口実を作り、是が非でも私と議論したいのかな?と私には見えています。普通なら、「関係ない、あっそ」で終わりだし、勘違いした投稿を消してしまえばいいのだが、どうしても「関係ある、日本のためだ、議論しろ」とおっしゃる。勝手な理屈をこねた、ネットストーカーの類と私には見えています。私のアカウントは、これで様々なカテで交流ができていたため、まことに残念ですが、ストーカー対策として、私はアカウントを消してしまうことにしました。 ――というわけで、リトルキスちゃん、雨合羽さん、マシュマロさん、木造の親方、では、さようなら。良いお年を、ジョワイユーズ・フェット! (※パリだと、年末年始の挨拶が、ジョワイユー・ノエルではなく、ジョワイユーズ・フェットJoyeuses fêtes「よいお祭りの日々を!」というようです。クリスマスがキリスト教だから、多国籍に配慮して、わざと「お祭り(複数形)」というんだろうな、と感心していました)。

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その他の回答 (46)

回答No.7

(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 街一番のお大尽が有名建築家先生に依頼して作らせた街で一番の目立つ家。 (2)醜さとは何かを定義する。 醜さとは、機能に裏打ちされない造形のうち、他との相違を際立たせたもの。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 本質的に美と相容れない芸術作品。その芸術作品の存在意義とは、生命の機能と物理の法則に裏打ちされた大自然の草木、樹林の美しさを再発見させることにある。 有名建築家の奇抜な目立つ造形。その奇抜建築の存在意義は、地場の建材を利用し地域の気候から人を守る機能に徹した伝統建築の美を再発見させること。 今、人は、新建材を思うままに使い、精密な構造計算によって、丈夫で快適な家を手に入れたと思っている。 その高機能な新建材の利用と合理的な構造強度計算がなぜ建築美に収れんしないのか? 人間の審美眼は、表層的な材料科学や構造計算の裏に隠された反人間的、反自然的な本質を”嗅ぎつけてしまう”からではないでしょうか。 自然界の高機能、なかでも人間の”高機能性”はダントツですから、反自然、反人間は、すなわち「高機能ではない」という仮説もなりたちますね。 性能が良い飛行機、機能が豊富な建設機械などに美を感じてしまうのはアッシだけでは無いですよね。

noname#145704
質問者

お礼

親方、どうも、お久しぶりです。ありがとうございます。私も、多機能のものが好きですよ。私がもっている機械など高が知れていますが、わかりやすいところでは、ペンなど、ジェットストリームの多色ボールペンを愛用しています。一番、性能がいいですから。どれだけ乱暴に書きなぐっても、万年筆のようにスラスラ書けます。性能がいいと便利ですし、安心します。さて、少し補足回答のお願いをしてみたいと思います。 >醜さとは、機能に裏打ちされない造形のうち、他との相違を際立たせたもの。 「他」が何かが問題ですね。たとえば、ボディビルダーの筋肉など、あまり役に立たないようですから、これなど、醜いものに部類されるでしょうね。それよりは、労働によって磨かれた筋肉の方が美しい。この場合、「他」とは自然な状態のものということでわかります。 しかし、建築の場合はどうでしょう。建築がそもそも人工物ですので、「他」がそのまま自然とはならないでしょう。鳥やビーヴァ―の巣のような建築物こそ、自然であって、美しいということにはならないでしょう(いや、そういう現代建築はいくらでもありますが、奇抜な現代建築が醜いと仰るので、こういう意味ではないでしょう)。やはり、世間一般と比べて「他」ということかな、と思うのです。 そこで安藤忠雄の「住吉の長屋」を考えてみましょう。まず建築物の特徴ですが、天井が問題でしょうね。雨が降ったら、傘を差さないとトイレにいけません。もっとも安藤は、天井がないから自然と共に暮らしていける家だと言っていますが。加えて、壁面に窓一枚無く、棺桶の類です。機能性はコンクリートなので丈夫。間違いなく、街で一番どころか、その当時の日本で一番奇抜な建築物の一つでした。 しかし、これは金満家の自己顕示ではありません。もともと建築費用が一千万円で、特にお金があるわけでもないという代物です。安藤も、大学さえ出ていない建築家。結局、何もない中で「ゲリラ的」と称する精神で、奇抜なことをやったわけです。大金持ちが、これ見よがしに、豪邸を建てたのとは異なります。限られた中で、目立つ限り目立ってやろうとしたわけです。普通にしていれば、生き残れませんから。 こういうのを語源的な意味で「ダンディ」といってよろしいと思うのです。つまり貴族ほどのお金はないが、社交界に出入りするブルジョワが、凡庸なお金持ち(=他)と異なることをやったというわけです。これもこれで、社会的な機能や、意味はあるわけです。いや、醜いと仰ってよいですよ。そういうスレッドですから。しかし案外親方は、ダンディを認めるのではないかとも思えるのです。というのも、親方が醜いと思うのは、金満家は放っておいても抜きん出ているが、さらにそれを皆に見せつけようとしているという過剰な虚栄心が嫌だ、とおっしゃっているように思えるからです。 今のところ私の理解した範囲でいえば、醜さとは、 ――他を見下すための自己顕示。

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  • TANUHACHI
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回答No.6

 こんにちは。話が少しずれるかもしれませんので、お気に召さなければ読み飛ばし、若しくは削除を求めて下されば幸甚です。  日本でも松本幸四郎氏が演ずる作品として知られる「ラ・マンチャの男」というミュージカル作品があります。 作品自体は投獄されたセルバンテスが地下牢で自らの著した物語を演ずるという多重構造の作品です。セルバンテスはドラマの主人公である想像上の人物ドン・キホーテと彼を妄想の中で生み出したアロンソ・キハーナという老人、そして自らが彼らを冷静に観察する人物として登場します。ここに登場するのは「理想家のドン・キホーテ」と「現実観察者としてのセルバンテス」二人は一見、対極に位置するようにも見えますが、その実は互いに惹かれあう存在ではなかろうか、と僕は個人的に理解しています。  この作品で象徴的な台詞がありこれは様々な文章に引用されています。「狂気とは何か。理想ばかりを見て現実を顧みないことも狂気かもしれない。一方現実のみを見て理想を見ないことも狂気かもしれない。だがしかし最も憎むべき狂気とはあるがままの人生に折り合いをつけてあるべき姿を見ようとしないことだ」との一言です。  作品中には作品を著したセルバンテスに対し、現実主義者のカラスコが登場し鮮やかな対比を見せています。卑俗な喩えで恐縮ですが、生きていくためには何らかの形で収入を得なければならず、そのためには韓信の股くぐり的な事に出会わないとも限らない。それを「自らのポリシーにはそぐわない」と拒絶ばかりしていては生活することも儘ならなくなってしまう。けれど「ささやかながらも自らの目指す理想」は心の片隅か何処かに持っていたいと葛藤するのが殆どだと思うのです。  この言葉を御題の「美と醜」に置き換えてみたらどうだろう、と考え駄文を綴らせていただきました。同じく松本幸四郎氏の作品に「ZEAMI」があり、ここでは世阿弥は「猿楽能を能楽へと深化発展させた人物」であり彼がそのために何もかも捨て「一つの価値観に縛られる狂気」若しくは「能楽そのものと同化してしまう」、さながら「能の虜」の如き存在になってしまう悲劇性と同時に、彼が拘る「幽玄美」(=評論の対象としての存在・価値基準としての存在)と息子の元雅が求める「舞踊」(=自らが踊って楽しむ盆踊り)と対立し、最後は世阿弥自らが「能楽の大成者」として祭り上げられ孤高の存在となってしまう模様を描き出しています。  僕はセザンヌの「林檎とビスケット」を観ていて、あの林檎は果たして本当に「静物」として動かないのだろうか、との疑問を感じ、高校時代に美術の先生に「この林檎の絵を見ていて、果たして林檎が転がらないのか?」と質問した憶えがあります。絵画や美術には余り詳しくはないので質問者様かららは鼻の先で笑われるかもしれません。でも僕にはあそこに描かれた幾つかの林檎の中の一つはコロコロと転がり出しそうな雰囲気を感じてしまうのです。僕がこの御題で感じたことは「対極にあるモノが無ければ検討は可能だろうか?」との素朴な疑問でした。「美」を問うために「醜」に光をあてる、けれどその「美」なり「醜」といってもそれぞれに何らかの形で客観的な指標が必要ではないでしょうか?。僕は空海の「聾瞽指帰」も好きですが藤原佐理の「離洛状」も好きです。筆致の違いに甲乙など付けようがない、との持論が僕の感想です。取り留めのない話になってしまいましたが如何でしょうか?。

noname#145704
質問者

お礼

タヌハチさん、こんにちは。御病気はどうなりましたか。お元気らしい、と受け取ってもよろしいでしょうか。私のことはサイコロとでもお呼びください。賽は投げられたのだ、という意味のハンドルネームですから。 >「美」を問うために「醜」に光をあてる、けれどその「美」なり「醜」といってもそれぞれに何らかの形で客観的な指標が必要ではないでしょうか? タヌハチさんは、感受性に恵まれてらっしゃる方ですね。何をご覧になっても楽しめるようですから。だからいっそ、基準がないと混乱してしまう、とおっしゃるように思います。 ところが、私など、どちらかと言えば、何を見ても楽しめない。質問文を自分で書いておきながら、あとあと自分で考え直してみると、「評論家の書いた美の定式を後生大事に抱え込む」というのは、ああ、私のことかもしれないな、と思ったものです。ボードレールの美の定式、「美とは常に奇矯なるものである」だとか、スタンダールの美の定式「美とは幸福の約束である」など、私こそ、文人らの美と思う定式を検討している段階です。 白州正子はどこかで、比較的安い骨董品を購入するのは勇気がいる、自分の美の価値観が晒されてしまうのだから、と言っていました。なるほど、と思ったものです。評論家の美の定式に沿ったものは、もう名品とされて高値で取引されている。が、その価値からこぼれるものでも美があるはずだと思って、いわゆる二級品にも目を向けてみるわけです。そこまでの経済的なゆとりもないが、心のゆとりもないのが私だな、と思ってみたりします。 こう考えるので、客観的な指標に、私はあまり意味を見出しません。権威ある文人の価値観は、世間で認められているという意味で客観性を獲得するに到ったかもしれません。が、それは借りモノなのです。価値がないとは言いませんし、それを言ったら、私など困り果てますが、これを知りたければ、対話するのではなく、本を開けばいいのです。立派に説明してくれている名著がいくつもありますから。 それよりほかに面白いことがあります。たとえば逆説的にも、このスレッドで醜いと定義されたものが、美術史では実は美の定式であるということが既に発生しています。なかなか興味深いことではありませんか。さらに実は、もう一つ、「美の乞食」が乞食でなくなるという点をめぐって、実は、私なりの持論に基づく仕掛けを施しているのですが、これは締める時になって書こうかなと思います。 タヌハチさんのご意見でもあるかな、と次の一節に注目してみます。「だがしかし最も憎むべき狂気とはあるがままの人生に折り合いをつけてあるべき姿を見ようとしないことだ」。ここでいう醜さとは、 ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。

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noname#144707
noname#144707
回答No.5

こんにちは。 質問の趣旨にそぐわず牽強付会になることをどうかご容赦下さい。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 日本の絵巻物や屏風絵をネット上にて静止状態、平面状態のものとして観た際に感じる違和感、あるいは何も感じない感想の欠如。 または、美術館において無機質に飾られているのをガラス越しに観たときに受ける違和感。 (2)醜さとは何かを定義する。 多少の配置の趣の違いは否めないとしても、西洋絵画や彫刻、調度品の場合、ある意味自己完結型というか、どこの部屋に持っていってもその作品自身の本質や評価はだいたい不変である。 ところが絵巻物や屏風絵といった日本の古典作品の場合、設置や鑑賞法いかんによっては、作品の良さが生かされるどころか、かえって野暮で見劣りし存在そのものが不要に思われかねない余地が否めない。 西洋由来の一律的な美術館博物館内における展示鑑賞法が必ずしも最適とは言い切れない面がある。 よって、醜さとは不利である。 間の悪さ。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のように、あるいは少なくとも京都の智積院の収蔵庫のように、ガラス越しではなく鑑賞者が靴を脱いで入り、板の間に上がって鑑賞する手法のほうがまだ好ましいように思われる。 絵巻物の場合、オリジナルの展示の際には鑑賞者が自由自在に見開きできる復元品の設置が望ましい、等々。 日本の古典美術一つ一つの装飾性の特質に鑑み、作品が美にも醜にもうつろいかねないもっと粋で優雅な鑑賞手法の柔軟さが模索されるとするなら、《醜さ》とは既存の与えられた設置鑑賞手法を何ら疑うことなく受け身に徹する姿勢に他ならず、そしてそれに結果的に非力を痛感し現状に甘んじている私自身、文字通り美の乞食でしかないのです。

noname#145704
質問者

お礼

いえ、質問の趣旨に反するということなどありませんよ、質問は、いわゆるサーヴィスです。どうもおどろおどろしいが、やってきてみたら、案外、居心地がよいではないか?というのが、この問いのコンセプトであり、今回のおもてなしの仕方です。 本来はもっと美しく鑑賞できるはずの素材が貶められていることが許せない、という風に読みました。マシュマロさんは、確か、学芸員さんか、元学芸員さんでしたよね。私はそうした側に身を置くことがないので、ちょっとない発想でした。そして、これは世界中の美術館を回ったらしいマシュマロさんならではですね。 >多少の配置の趣の違いは否めないとしても、西洋絵画や彫刻、調度品の場合、ある意味自己完結型というか、どこの部屋に持っていってもその作品自身の本質や評価はだいたい不変である。 ヘーゲルもそう書いていますよね。いかなる環境でも魅力を発揮できるように創作しなければ、芸術は装飾物の一つに過ぎない、というようなことを。そう、芸術は、装飾物などになってはならず、そのためには、装飾という実用性とさえ、かけ離れたものにならなければならなかった。 日本の美術品はそんなことを考えはしなかったのでした。日本において、最大の価格がかつてつけられたものとは、茶器でしょうが、これなど、使ってこそ、美が現れます。茶を入れてみるとか、薄暗い茶室で使ってみるとか。ガラスケースに入れて展示されても、抒情性が剥奪されてしまいます。そして、照明器具のあり方が変わった今となっては、真価を発揮することはないのかもしれません。絵巻物の絵も、やはり、環境に依存します。 ヘーゲルの信奉者なら、日本はなんて立ち遅れているんだろう?バロック以前のレヴェルにあったのだな、などと思うかもしれませんが、私は、特にロマン主義がいいと思わない(!)ので、日本風が好きですね。 実際、ロマン主義より時代がずっと下った二十世紀の初頭から、西欧でも「装飾芸術」というものが生まれますよね。たとえばオランジュリー美術館のモネなど、他の美術館にもっていくことも不可能なら、他の美術館にもっていっても、魅力を発揮できないでしょう。ご承知のように、巨大な睡蓮の絵が部屋の四方をぐるりと囲んでいます。しかも、外光を当てることで、時間によって、四季によって、絵の表情が変わります。日本の美術品にも、これくらいの配慮が欲しいな、とは思います。 美術品を人間のように愛するのなら、美しい一面も、醜い一面も、両面が分かってこそです。図らずも、このスレッドで明確に私にもそれと認識できましたが、人が醜さと感じるものが、また別の人にとっては美と思えることもあるわけですから、作品の表情が変わることは幻滅を引き起こすとは限らないでしょう。あたかもスタンダールの語る恋のように「結晶化作用」が起き、醜さの中にさえ、美を見出すかもしれません。さて、こういうわけで私なりに醜さをまとめると、 ――作品に注ぐ愛情の欠如。

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noname#202494
noname#202494
回答No.4

あくまで私の美意識に基づく見解ですので、反論はいかようにもお受けいたします。 1)カラヴァジォの一連の作品は、私にとっては醜いものの代表としか感じられないのです。彼の作品は日本での評価は高いようですし、NHKで製作された彼の生涯についてのテレビ番組も、英語版を見て、イタリアで再評価されているのも知っているのですが。 2)昇華されることのないもの。自意識の周りをブンブンと飛び回っている、アブのような低い精神性。 3)彼の作品は、何を描いても主人公の顔は全て自画像になっています。マタイ、ダビデ、マリア、さらにゴルゴンを描いても、顔は自らを映した、鏡の中の自分そのままです。 ルネッサンス後期に生まれ、周りの画家達がマンネリズムの泥沼で苦しんでいる時に、いち早く光と影の魔術を画布に再現させ、次の時代の幕開けをになった人であるのに、惜しいことだと思います。もう少し長く生きて、世界を客観視できるようになったなら、素晴らしい画家に成長したかもしれないのです。 醜さの序列、というのは、私には理解できませんでした。

noname#145704
質問者

お礼

Cipaopoloさん、こんにちは。よいご投稿、ありがとうございます。カラヴァッジョですか。これは手厳しい。しかし、彼のことをよく御存じなのですね。その上で、醜いと判断なさった、と。反論は致しませんよ。というのも、これが議論の入り口であって、それを疑うと結局、「話が合いません」という詰まらない結論にしかなりませんから。いや、一般論として、そもそも顔も知らぬ人間同士、話が合わなくて当然なのです。が、それでも何か有益なことを探るのがネットの議論というものです。すでに指摘が来ていますが、不毛さは醜いのであって、これを避けねばなりません。 醜さの序列と面妖なことを書きましたが、結局、私の問いは、 (1)定義のモデルとなる事例の提示 (2)エッセンスの抽出 (3)その応用例 の手順でどうぞ、ということに過ぎません。これ、サロン評の手順です。(1)もっとも優れた作品を示し、(2)褒める中で評論家の審査基準を明らかにし、(3)あまり優れていないが無視できない作品を評価する。こうすると最後には、一等、二等、と序列がついているのです。 数多ある出展の中で、みるべき作品を来館者に教えるのがサロン評の役割です。だから、上記は序列をつけるための議論の手順だとも言えますが、こうなると、定義がさらに細かくわかるというメリットがあります。 というわけで、ガラヴァッジョについてお考えになったことを他にあてはめるとどうなるでしょうか。文学者でいうとジョイス、ジュネ、画家でいうとダリなどどうでしょう。彫刻家なら、村上隆かな、と思ってみたりもします。音楽家にこの基準を当てはめるのは難しそうですね。というのも、あからさまに「自意識」を示す手掛かりがないからです。強いていうと、演奏中に陶酔して、唸り、両手で弾くべき箇所を片手演奏に切り替えて、身をくねらせているグレン・グールドなど、どうでしょうか。 末尾で私は、確認の意味を込めて、私の言葉で改めて醜さの定義をまとめてみることにしていますが、ここでいう醜さとは、次のようなものと同義と考えられます。 ――ナルシシズムに耽溺すること。

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noname#150106
noname#150106
回答No.3

実態は美の乞食でもなんでもないただの議論に飢えた乞食でしょう。 ですから審美性とか美の探求などとは一切無縁のただの俗物だということです。 終始不毛な議論を繰り返すだけでなんの生産性もありません。 真面目な人は神経症に陥るだけです。

noname#145704
質問者

お礼

ありがとうございます。鋭い。必要性がないのにスレッドを立てるのだが、実は虚栄心というのではなく、単に話をしたいだけかもしれません。私も時折そうです。 ここでいう醜さとは、 ――他人を不毛さに巻きこむこと。

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  • kurinal
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回答No.2

(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 「求めること」 (2)醜さとは何かを定義する。 「求めること」 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 「「求めること」が、(個別具体的な?)必要性から離れていれば、離れているほど、醜い」 「腹八分」というのが良いのだと思います。

noname#145704
質問者

お礼

ありがとうございます。 ここでいう醜さとは、 ――飢えた虚栄心。

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