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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:美の乞食に問う:醜さとは何か?)

美の乞食に問う:醜さとは何か?

このQ&Aのポイント
  • 美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。
  • しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。
  • この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。

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  • MOG56222
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回答No.1

>(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 肉体単体を美しいとは思えない私としては、誇らしげなギリシャ彫刻などは駄目ですね。 (2)醜さとは何かを定義する。 見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さでしょうか。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 売り出しの女優さんが持つエキゾチックさが醜さの極地で、見慣れたり内面を理解したりするにしたがって美を感じていきます。 その後、冷静になって、あるがままに観れたとき、何とも言えない侘びさびを感じてしまいます。 結局、美は愛着であり煩悩であるのでしょうが、美に醜さを観、醜に美を観るというプロセスは煩悩を越える真美であると思うのです。

noname#145704
質問者

お礼

ありがとうございます。そして徹底した態度を示した見事な回答です。 >見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さ。 これが醜さの定義ですか! 美の定義かと一瞬思いましたよ。そしてこの最たるものが、ギリシア彫刻であると仰る。 確かにそうかもしれません。つまり評論家らは、ギリシア彫刻を美と思うわけでしょうが、「見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異」な美がある、と言うかもしれない。そのまま裏を返して、人が美と思うものを醜さと呼び換える。驚きました。この回答だけで、スレッドを作った意味があったというものです。 そして美の序列をつけるにあたっては、一人の女優を例に出す。同じ女優でも、初期の慣れない時が醜い、とは。実によいですね。 私が御回答から引き出した定義とは、 ――初々しさ、未成熟は醜さである。

noname#145704
質問者

補足

さて、そろそろ締めることにいたしました。約五十もの投稿、どうもありがとうございます。BAをNo1と選んだのは、おどろおどろしい質問に対して、最初に回答してくださったからであり、また、私の考えた遊戯の仕掛けを、よく理解してくださっていたと考えるからです。 一般的には、未熟や初々しさを、特に異性に対しては媚態と考える方が多いのではないかと思います。いわゆる、萌え、あるいは海外で浸透しつつある、Kawaiiという概念です。その一方、それが醜いのだとおっしゃる。まさに独自の視点がよく出ていると思いました。結局、このスレッドの課題になっていたのは、主観的な問題であって、社会的な通念としての「醜さ」とは違うのです。 なぜこのような問いのたて方をしたのか。他の投稿者からもちらほらと意見が出ていましたが、所詮、美や醜は定義できないものです。他人が美だというものが、自分にとっては醜さとなりうる。このスレッドでは、そういう愚痴をこぼし合って、和気あいあいと議論をしたいと思ったのでした。ここで私が拾い上げた醜さの定義を拾っておきます。 ――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。 ――イドラに踊らされること。 ――諍い。 ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。 ――他を見下すための自己顕示。 ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。 ――作品に注ぐ愛情の欠如。 ――ナルシシズムに耽溺すること。 ――他人を不毛さに巻きこむこと。 ――飢えた虚栄心。 ――初々しさ、未成熟。 醜さとして提示しているが、もし美学に関心がある方なら、一瞬で、どれもが、とある芸術家の美意識に結び付くものだと見抜かれるでしょう。オナニーでさえも、ジュネであったら、的確な意見となるでしょう。イドラに踊らせることも、バロック期の芸術家ならば、望むところ、と言えないでしょうか。私としてはこれまで建てた問いの中でも、なかなか豊かな収穫があったと思います。 さて、美の乞食が乞食ではなくなるとはどういうことか。この身近にある醜いものに愛情を注いでみる、というのが一つの答えです。無論、私はそれを声高に主張するお節介な趣味はありません。しかし、一つの可能性として、もし醜さの中に美を見いだせるようであれたら、世界が変わって見えるだろうな、ということくらいは、言えそうなものではありませんか? 私の趣旨は非常に、単純なので、もう看破していらした方もいるかもしれませんが、こうやって敢えて定式めいたものを出すことで、心の中にある感覚を言語化し、自分からつき放してみるための契機となれば、と思ったのです(aliénationといいますか)。しかしその中でも個人的に、諍いに美があるとは、ちょっと考えたくありませんね(笑。やはりダメなものはダメか)。 最後に、このタイミングで締めることにした理由について触れておきます。その理由はいくつかありますが、議論が十分になされたということに加え、一つには、美の乞食が自分だと名乗り出たNo10の方が、未だに自分だと考えているらしいと判明し、思いこみの強さを気の毒に思い、また質問そのものが楽しいものではなくなってしまったからです。上述の醜さは、一つくらいは誰にでも身に覚えがあることだが、全部自分のことだとお考えになってしまった。そういう醜さの権化みたいな人がいるものでしょうか。いや、いないでしょう。要するに、彼が美学を何にも勉強していないから、全部、自分のことに思えるだけなのです。これはこれで哀れだと思うべきでしょうか。 しかし、私は彼に対して、まったく関係ない、と伝えたはずでした。それで、本当に自分のことだと考えているのかどうか、私は疑問に思っています。というのも、彼はこの手口で、複数回、関係ないことを関係あると言って、私を追いかけてきているからです。口実を作り、是が非でも私と議論したいのかな?と私には見えています。普通なら、「関係ない、あっそ」で終わりだし、勘違いした投稿を消してしまえばいいのだが、どうしても「関係ある、日本のためだ、議論しろ」とおっしゃる。勝手な理屈をこねた、ネットストーカーの類と私には見えています。私のアカウントは、これで様々なカテで交流ができていたため、まことに残念ですが、ストーカー対策として、私はアカウントを消してしまうことにしました。 ――というわけで、リトルキスちゃん、雨合羽さん、マシュマロさん、木造の親方、では、さようなら。良いお年を、ジョワイユーズ・フェット! (※パリだと、年末年始の挨拶が、ジョワイユー・ノエルではなく、ジョワイユーズ・フェットJoyeuses fêtes「よいお祭りの日々を!」というようです。クリスマスがキリスト教だから、多国籍に配慮して、わざと「お祭り(複数形)」というんだろうな、と感心していました)。

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その他の回答 (46)

  • amaguappa
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回答No.40

18です。ひさしぶりに覗いていますが、なかなか華やかになりましたね。 マシュマロさんのご投稿をざっと拝見したところですが、後日あらためてゆっくり読ませていただこうと思います。 ボードレールの文体で幕をあけたこの質問を見た時は、正直度肝をぬかれました。 わたしも特に19世紀後半と現代を視座において時代精神の照らし合わせをおこなっている人間の一人なので、見通し的にサイコロさんと共有する地平があると思いますが、美に対峙するかぎりの醜さとなると複雑なテーマだなと思いました。 ラスキンとボードレールとその後世は、既存の美のカテゴリーを打ち破って拡げていけばよかったし、過程がどんなに荒れた魔境の過程であろうとそこからエッセンスを抽出して美の真髄を追いかけていたと言えるのですが、その陰画的手法で醜さのエッセンスを抽出しようというのは驚くべき発想ですね。 細かいことは抜きにしますが、おそらくこう言ってよければ、西欧19世紀から20世紀初頭は、瞬間的なもの、うち捨てられたもの、形をとどめないものが、永遠性と結び付けられ、知覚と記憶の表象に結び付けられ、秘密のふくみを持たされて、死の不安と恐怖に対抗する感性を醸成した時代であると思います。 日本では上代平安の和歌随筆から心性に溶け込んでいたような事柄ですが、西欧社会というのはロゴス的対象を明確に捕えようと言語も美術も音楽も表現してきましたから事情が違いますね。科学の進展に乗じて関心が自我と現象そのものとの関わりへ向かっていく19世紀半ばの価値観転覆は、芸術にとって意味深いでしょう。写真は醜さを表象しうるか、という問題へも繋がるように思います。 18では、『現代生活の画家』を引き合いに出しながらネットと関わらざるを得なくなった時代の人間精神について述べようとしてみましたが、やはり上記に関連して、永遠性に触れること・知覚と記憶の表象であること・秘密があること、という点からすれば、ネットというのは、刹那的流動体であり、情報の表象形式であり、システム的な事象としていかなる秘密もないというところが要なのではないかと思うのです。 それはボードレールの時代でいえば屑拾い人の屑であり、都市改造されつづける都市であるということになるのかもしれませんが、ネットでは他律的に排出される量とスピードが桁違いではあるでしょう。ポーの『群衆の人』がすでに自律性を失っていたのを今思いだしましたが、ああした熱を帯びたフローの中で身体性が希薄になっていくことの終点にインターネット・コミュニケーションがあるのかなと思います。 何よりも、脳髄のほうは、刹那的流動体に永遠性を重ね、情報に対して知覚と記憶による書き換えを行い、システム上の明快なプロセスから隔たった場所で不明の代替に秘密を思い描く、それがファンタスマゴリー脳の劇場だからでしょう。屑と改造の凄まじい情報フローであるにもかかわらずネットは人間の脳のこういう部分を引き出しやすいと思うのです。 ファンタスムが入り乱れる場であるインターネット・コミュニケーションはある意味恐ろしいですね。ファンタスムに内在する原動力としての欲求、心の要請が、清く正しく美しく理路整然としているとはかぎらないですから。エドゥアール・ムンクが『ALPHA et OMEGA』という話を書いたとき、精神科の主治医は仰天しておぞましい話だからと捨てさせようとしたのですが、患者であるムンクの言語表象にはやはりファンタスマゴリーとしての一人格の心の要請がいろいろと出ていて、話の筋が醜いというよりは言語化において情報を咀嚼しているムンク自身が為す無意識の解釈のほうがおぞましいわけです。 なかなかまとめにくい内容になって申し訳ないですが、回答を得る質問であるよりもボードレールを土台にアンチテーゼを立てるという試みからどれだけの問題圏を切り出せるかということのように思われますので、その意欲を称えつつこのへんでお暇しようと思います。

noname#145704
質問者

お礼

褒め殺しの部類ですね。ははは。それにしても、雨合羽さんは、この文体を見破っておられましたか。おっしゃる通り、ボードレールの散文詩のパロディです。私はこうやって設問そのものを詩にすることで、設問に応答してきた回答までをも、詩の延長に捉えることができないか?と思ったのです。 マラルメは、詩の読者をゲストと呼びましたね。ネットでの応答は、実にこれによく似ています。一つのテクストを読み、それについて、匿名の応答がなされるわけですから。この一つのテクストが、スレッドの質問文であるわけです。普通、質問は事務的な用件を示すように書かれています。しかし、そうではなく、問いが、詩的次元を視野に入れる文体で提示されていたとしたら?――そのスレッドは少なくても、強烈に詩的次元の支配に置かれることになるでしょう。この侵犯は、ちょっと面白いことではないでしょうか。 無論、ここで示した「詩的」次元は、抒情的なものではなく、むしろ、現代的な滑稽を描くというボードレール流のものではあるわけです。猪突先生とも話したことですが、現代詩はジャーナリスティックな要素を含んでいます。しかしもっと言えば、ジャーナリスクティックな現代詩は新聞に載ってこそ、効果を発露したとも思うのです。つまり、事務的な情報を本来書くはずの場に、詩を書いてしまうからこそ、領域の侵犯によって、面白いことが起きてくるのです。 ネットについて雨合羽さんが展開なさる議論は、まさに同意するところです。しかし、私はそこから、もう一歩、別のところに歩みを進めてみました。つまり、この自明である表象形式を変容させることで、何かしらシステムへ介入することができないか、と。新たな関与の仕方の模索と言えば、雨合羽さんは面白がってくださるでしょうか。そして、私には、これが文体という技術によってファンタスマゴリを制御する試みに思えているのです。私ができたかどうかは、まったく別問題として。 私の場合、課題としては、詩的変容を試みようというのに、お礼欄で何を書くべきかが、あまり見定まっていないということがあります。もっとも質問文の「詩人」のディスクールを続けても面白くないことでしょうし、私は私で、雑談をしたいという欲求に敗けてしまいました。おそらく、「人の道」というアカウントのやった、ソクラテスになりきった問答が、ネットという場を別の次元(演劇的な次元とこの場合は言えるのではないでしょうか?)に変容させようとする、何かしら新しい方向性の一つではあったのでしょう。しかし、あれは最終的にあまり成功なさらなかったようでした。

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  • Nucleus_
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回答No.39

訂正 「牧畜民族の羊がいれば 飢える心配がない・生活が安定する・安心するから 心が満たされ、充足する」ということです。 ⇒「牧畜民族の、羊がいれば 飢える心配がない・生活が安定する・安心する、という、つまり心が満たされ、充足する気持ちをあえて表現するなら美しいとなるのでろう」ということです。 それにしても、質問者さんは頭と理屈で物事を認識しようとしているんですね。 良くも悪くも、でしょうか。

noname#145704
質問者

お礼

>それにしても、質問者さんは頭と理屈で物事を認識しようとしているんですね。 というより、心で認識したことを書かない癖がある、ということだと思います。まぁ、感受性が豊かな人にしてみると奇妙なことでしょうが、私も歪な美の乞食の一人ですから。

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  • Nucleus_
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回答No.38

>争いもなく分けられる大きな羊こそ、美だというのでしょう。  いえ、私はそのような意味で書いたのではなく、「牧畜民族の羊がいれば 飢える心配がない・生活が安定する・安心するから 心が満たされ、充足する」ということです。漢字の成り立った頃の時代状況においては、たまたま羊だったのではないでしょうか。 >酒と鬼はどうお考えですか?  前文で書いたとおりです。 >そう思います。  いや、限定して「これが美しい、これが醜い」と、言うことはできないのではないか、と思いました。人によって・状況によって異なり、変わってくるだろうから。ともかく、美であれ醜であれ、そのように感じるその人の精神がまさに美であったり醜であったりする、と考えます(思います)。 http://www.worldfolksong.com/songbook/classical/arabesque.htm 先にあげた曲よりも、こちらの方が綺麗で、透き通っていて良いのではないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B9 「情緒に溺れない解釈」だそうです。

noname#145704
質問者

お礼

なるほど、私が誤読したというか、イマジネーションを働かせすぎてしまったようですね。ご訂正、ありがとうございます。 >いや、限定して「これが美しい、これが醜い」と、言うことはできないのではないか、と思いました。人によって・状況によって異なり、変わってくる 究極的なことをいえば、おっしゃる通りだと思いますよ。しかし、まぁ、このスレッドではやや雑談的ではあるが、自分はどう思うか?というお話しをするのも一興ではないかと思ったのでした。 私はドビュッシーは何でも好きですよ。この音色は、ホロヴィッツみたいに落ち着いていますね。サンソン・フランソワのようなピアニストを思い浮かべれば、「情緒に溺れない」というのは、その通りなのでしょう。

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noname#145099
noname#145099
回答No.37

では、お言葉に甘えさせていただきますね。 あの彫像の女性は豊満で、さも誇らしげに映ります。 ボードレールならずとも、誰もが官能的と褒め称える古典的な美しさに満ちあふれています。 それがシャネルの登場によって、マヌカンのほっそり美志向が顕著になって今に至るのですから、美とは何とも不思議なものですね。 そしてまた、バルザックの墓標を意識していたとは・・・知りませんでした。 「人間喜劇」と入力検索して、どうりで、肝心の美しい彫像以上に彼の美しくない?肖像画が目立った理由がわかりました。 それとも彼ならよろこんで美の引き立て役を買ってでてくれるでしょうか。 美術書のご教示も嬉しかったです。機会があれば手にしてみたいものです。 チュイルリーのモノクロ画像も悪くないと思います。 野外鑑賞は絵画と比べて騙し難い?彫像ならではの醍醐味が感じられるかのようなので。 "Paris, Tuileries (Ier arrt), La Comédie humaine ou le Masque par Christophe"(INHA) >ボードレールは基本的には、とても我儘で女性にあまえたがりの詩人です。 何だか・・・伺うほどに彼の強烈な個性が一段と色濃く増してくる気がします。 "Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal(私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです)"なんて、この箇所だけ切り取って解釈したら、まるで男と女は理解し合う仲になったら最期、とでも言いたげな。 でもまさか、そんな俗悪な意味ではないのでしょう? あとでその詩を読んでみますね。 >一度激しい感情を味わって、心が焼き切れ、追憶に耽る以外にもう心が働かなくなったということなのでしょうけれど、なぜ彼にそんなことが起きたのか。 >ともあれ、女に余所行きの顔をしてもらうというパターンは「秋の歌」の後半でも見られます。「賛歌」でサバティエ夫人に告白した際も、idoleという語を連発。ともかく、崇拝できる対象であってほしく、俗なところなど見せないでほしい、と思ったようです。こういうところが、子供っぽいと言われたりもします。 それというのは、お相手の女性にもよるのでしょうが、女のあしらい方がいまいち巧くなかったということでしょうか、子どもっぽいって。 ダンディというと、もっと女慣れしたスマートなイメージが浮かびますが。 彼は違ったのでしょうか >でも、「仮面」「告白」を読むと、この偶像の内面に、実は見かけでは推し量れないものがあることを知っていたと言えます。そして散文詩「窓」では、「俺の思いこみであるという人もいるかもしれないが、何が悪い?」と開き直って見せさえするのです >ボードレールの場合、自分にとっては救いの偶像と女性を見ておきたいのだが、本当は違うのだろうな、と達観していたところが、幾分、特徴的です。 上述の子供っぽさとは裏腹に、これはこれで何だか冷ややかな笑みを浮かべているかのようですね。 ・・・・などと一寸頭に留めて読みすすめていけばおもしろいのでしょうね、そして一段と色鮮やかに読めそうな気が致します。 語学力も素養も乏しい私にとって、ボードレールの詩は難解なものには変わりないのですけれども。 クリストフについてもご教示とても参考になりました。 ありがとうございます。 ご指摘の「騙し絵」彫像もなかなかなものですね。 「両性具有の美」の幾つかはヘレニズム期の彫像や中世の図像に散見できるようですし、 先には女らしい輪郭線の「擬人化した葡萄の木とディオニュソス(バッカス)像」やらヘルマフロディトス小像が来日していました(顕著な両性具有ではないのですが)。 "Marble figure of a the young Bacchus with a personification of the vine (Ampelus)"(the British Museum) あるいは、両性ならぬ双面ならシェーンブルンのヤヌスとベッローナの彫像、あるいは興福寺の阿修羅像などが浮かびますが、でもどうでしょう、「騙し」の趣向とはやはり異なりますものね。 ※"Skulpturen und Plastiken um Schloss Schönbrunn"(29 Janus und Bellona)  あらためてボードレールxクリストフの「騙し絵」の試みが絶妙なものに感じられてきます。 何か彼を執拗に駆り立てるような激しい経済的な逼迫性とかがあったなら・・・あるいはボードレールのさらなる賛辞があったなら・・・とも思います。 そうですね、エドモン・ダンテスの彫像なんて見てみたかったです。 (Gérard Depardieu似以外の美青年でぜひ!) 手にするのはやはり仮面かあるいは背後の金塊か・・・ ・・・でもきっと、彼等の趣向としては相応しくなかったのでしょう、そんな気がします。  

noname#145704
質問者

お礼

>それがシャネルの登場によって、マヌカンのほっそり美志向が顕著になって今に至るのですから、美とは何とも不思議なものですね。 そうですね。美は時代とともに変わります。ボードレールは、こういうことが分かっていたのか、様々な種類の美を楽しもうとしたようです。内縁の妻のジャンヌは、ボードレールのイラストによると、豊満な胸をしていたそうです。でも、彼は「痩せているほど淫らである」などと言っています。「死の舞踏」では、骸骨の女を称賛しています。 様々な美を。となると、バルザックの彫像だと、ロダンが有名ですね。麻袋に入ったアザラシと揶揄されもしましたが。あれだけ華やかな世界なのに、作者はアザラシみたいなのですから、それもまた、リアリティがあっていいような気がします。こうした美は、現代からすると、ちょっと認めにくいものかもしれません。 >"Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal(私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです)"なんて、この箇所だけ切り取って解釈したら、まるで男と女は理解し合う仲になったら最期、とでも言いたげな。 ははは。そうかもしれませんね。初恋を終えてしまったら、もう心は終わってしまい、目の前にいる女など目に入らなくなる、と言っているのと同じですから。おそらくスタンダールの『恋愛論』を思い浮かべるといいのでしょう。彼によると、音楽は、一度目は味わうことができるが、十度も聞くと、最初の楽しかった印象を追憶しているに過ぎなくなるのだそうです。 ボードレールは、女性の扱いは下手です。阿部良雄が『群衆の中の芸術家』という著作でドラクロワと比較していますが、貴族の御落胤と噂のあるドラクロワが情事を遊びと考え「甘美であった」と次々と重ねて行ったのに対し、ボードレールは叫んだり、暴力を振るったりします。感情移入してしまうのですね。彼はダンディになれないから、ダンディに関心があったのかもしれません。 >(Gérard Depardieu似以外の美青年でぜひ!) この役者は若い時は本当に、息を飲むくらいの美少年だったのですけれど、なぜあんな巨漢になってしまったのでしょうか。美を自ら捨てる選択をして、それでも演技力で生きているというのは、なかなか強いことですが……。 しかし、拒食症の気があるモンテ=クリスト伯爵が、彼であった時にはがっかりしました。パスカル・キニャールの「めぐり合う朝」で食の細い音楽家サント=コロンブの主演も彼。堂々としているのもいいですが、せめてデュマとか、バルザックという大食漢の役を引き受けるのみにしてもらいたいものです。 ところで、Semper Eademの私の訳です。 ツモ同ジク(※ラテン語なのでカタカナ) あなたは私にお尋ねだった、「あなたに訪れる、この奇妙な悲しさは、どこに源があるのかしら? あなたの悲しさは、黒くて剥き出しの岩に打ちつけては引き、また打ちつける海のよう」。 ――私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませると、 その先も、生き存えていることは、一つの悪となるのです。こんなことは誰だって知っている秘密であり、 苦しみは、非常に単純で、神秘などないのです。 これは、すべてに注がれる、あなたの喜びが輝いているのと同じことです。 だから、私の悲しさを探ろうとすることなど、おやめ下さい、おお、知りたがり屋の美しい人よ! あなたのお声は甘美だけれど、お黙り下さい! お黙り下さい、ものを知らぬ人よ! 喜び浮かれた魂の持主よ! 子供っぽく笑う口をした人よ! 〈生〉が我々を捉えるよりも、 しばしば、〈死〉が、ささやかな繋がりで私たちを捉えるのです。 どうか、どうか、私の心が「嘘」に酔いしれるままにしておいてください。 美しい夢に浸るように、あなたの美しいまなざしに浸るままにしておいてください。 あなたの睫毛の影で、長い間、微睡むままにさせておいてください。

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回答No.36

が、醜いのではないだろうか。

noname#145704
質問者

お礼

そう思います。

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回答No.35

ただいま皆既月食中。 首を左右に振るのみで、人間社会に対しての井戸端会議に終始するその精神。

noname#145704
質問者

お礼

はい

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回答No.32

こんばんは、iacta-alea-est2さん。 お賽ちゃんが絆創膏をとらないでと まだ、痛いのかな? うん、わかった。 おまじないひとつ  ちちんぷぃぷぃ イタイタイの飛んでけ~♪(*^^*)/~~~ (*^^*)vお賽ちゃん、だいじょうぶ? 今度は何の本の紹介って?(BGMつき) 『チタンのおはなし (おはなし科学・技術シリーズ) 』[単行本] 鈴木 敏之・森口 康夫 著 / 日本規格協会 出版 http://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97-%E3%81%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%83%BB%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E6%95%8F%E4%B9%8B/dp/4542902668/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1323444606&sr=1-1 ポルノグラフィティ 『アポロ』 http://www.youtube.com/watch?v=ghEcMCXTP0Q&feature リサイクル云々の話をぶったから ああ、「ぶった」と言ったからて「ビンタ」したわけじゃないし「ブッダ」でもないからね。心配しないで。そうそう、「双六」サイコロ コロコロ「振った」出た目の数だけ進むみたいな感じ?で、前の話「絵の話」から続いてるからね。感想寄せてくれてたわよね?「まぁマネだもんね。」と。うんうん。日本で初めの頃の電球といえば、フィラメントが熱に耐えられずに落ちちゃてたんだってね。松下のおっちゃん毎晩寝ずにどないしたら電球がちゃんとついてくれるんやろかと考えてはったみたいやね。ものの本によれば、フィラメントの素材探しにあっち行ったりこっち行ったりと日々飛び回ってはったとか。松下のおっちゃんも炭素フィラメントをつくり白熱電球を発明したエジソンのおっちゃんからヒントを得ててんてね。先駆者がいるわけだ。お手本。 「科学と工業の先覚者」の銅像が完成 1968年(昭和43年) http://panasonic.co.jp/history/person/132.html 『プレステージ』 http://www.youtube.com/watch?v=99x64HQH6LM ポルノグラフィティ『 元素L 』 http://www.youtube.com/watch?v=Gdjj3UQ7EQY&feature=results_main&playnext=1&list=PL4FA00881C4A5E1AF 【チタン合金製造用母合金(マスターアロイ)の製造フロー・製法】 http://kunisan.jp/gomi/master_alloys_for_titanium_alloys.html チタンは純チタンとしてだけでなく、チタン合金としても多く利用されている。特に航空機向け用途としては、バナジウム(V)、アルミニウム(Al)、モリブデン(Mo)、クロム(Cr)などを添加した合金が使用されており、純チタンよりも強度的なメリットが得られる。 こうした添加物は単体金属ではなく、例えばバナジウム+アルミニウムといった形の「母合金(マスターアロイ)」を粉砕したチタンスポンジと混ぜて合金化する手法が取られることが多い。 ここでは、その母合金の製法について紹介する。 バナジウムアルミニウム(VAl): 酸化バナジウムにアルミ粒を混ぜてテルミット反応を起こさせる。スラグ(酸化アルミニウム)を取り除き、ブラストの後、磁石で鉄分を取り除き、それから粉砕で粒を小さくする。これにアルミ粒とVAlを再び混ぜた上で、真空炉で溶解させて酸化アルミ分をさらに取り除く場合もある。その後、再び洗浄、粉砕、磁石で鉄分を取り除くなどした上で、航空機用の場合にはブラックライト検査で酸化アルミ成分を検出・除去したり、X線検査でタングステン成分を検出したりすることもある。出荷前に化学分析を行う。 クロム(Cr): 酸化クロムにアルミ粒を混ぜてテルミット反応を起こさせる。スラグ(酸化アルミニウム)を取り除き、ブラストの後、磁石で鉄分を取り除き、それから粉砕で粒を小さくする。航空機用の場合にはブラックライト検査で酸化アルミ成分を検出・除去したり、X線検査でタングステン成分を検出したりすることもある。出荷前に化学分析を行う。 ※テルミット反応: 金属酸化物に純アルミニウム粉を投入することで、金属酸化物が還元されて純金属となり、アルミニウムは酸化されて酸化アルミニウムとなる。この際に高熱を発するため、還元された金属は融解温度まで達して融塊となる。 ※航空機用母合金でX線検査が必要な理由:X線検査はタングステン(W)などの重金属を発見するために行う。母合金にタングステンが入っていると、チタンを溶融する1800~2000℃で融点の高いタングステンが溶融せず、タングステンが存在しているところが圧延時にひび割れの原因になったり、ひどいケースではタービンブレードなどの使用中にヒビが入ってしまったりする可能性も考えられるため。 【タングステンの回収処理方法】 http://www.ekouhou.net/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%9B%9E%E5%8F%8E%E5%87%A6%E7%90%86%E6%96%B9%E6%B3%95/disp-A,2011-47013.html 【背景技術】 近年、電子材料や電極材料としてタングステン含有薄膜が用いられており、成膜用ターゲット原料として高純度タングステンの需要が高まっている。しかし、タングステン原料の資源は限られており、その安定な供給が問題になっている。一方、超硬合金は炭化タングステンなどを含有しており、超硬合金スクラップにはタングステンが含まれているので、このスクラップからタングステンを回収し、有効に利用することが求められている。 【半導体デバイスの故障メカニズム】 http://japan.renesas.com/media/products/common_info/reliability/reliability_handbook/pdf/rjj27l0001_04.pdf 【走査型電子顕微鏡(SEM)で分かること】 http://gtech.yz.yamagata-u.ac.jp/technicalreport/SEM-EDS.pdf 平成22年度「レアアース等利用産業等設備導入補助金(一次公募)」 採択事業一覧 http://www.meti.go.jp/press/20110225001/20110225001-3.pdf 【公募概要】 本事業は、我が国主要産業の高い国際競争力を維持・強化するために必要不可欠な原料であるレアアース等の使用を極力減らす技術、使用しない技術を活用した製造プロセスの事業化や、レアアース等の国内循環に資する設備の導入等を促進することで、我が国において、レアアース等の供給不安に左右されない強靱な産業構造をいち早く実現することを目的とするものです。

noname#145704
質問者

お礼

リトルキスちゃん、優しいね。甘えておこうかな。でも、私はどちらかと言うと、写楽ホウスケかなぁ。アブドルダムラルオムニスノムニスベルエスホリマク……って、知ってるでしょう? ポルノグラフティは、いいね。リトルキスちゃん、テーマソングつながりで、鋼の錬金術師とかも好きでしょう? マネはねぇ、真似じゃなくて、彼のジャポニスムは有名で、私もよく知っている画家なんだ~ボードレールの年下の友達だもの。 次のサイコロはどこに転がるかな?

noname#145704
質問者

補足

ところで、リトルキスちゃんって、へうげもの、観てる(読んでる)? あれ、結構面白いよね? 物欲の権化と化した数寄者の姿って、ブルータス片手にマストアイテムを集める今日のチョイ悪オヤジらみたいで、笑える。

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noname#144984
noname#144984
回答No.31

何度も本当にごめんなさい。。。  ○「素晴らしい見せかけで光かがやいているこの顔の方は。」の陰に隠れてしまっていますね、本当の顔は。 (×「素晴らしい見せかけで光かがやいているこの顔の方は。」が陰に隠れてしまっていますね。)

noname#145704
質問者

お礼

いえ、何度でもお気軽にいらしてください。文法ミスはお気づかいなく。私もミスだらけです。

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noname#144982
noname#144982
回答No.30

>女性のことを軽蔑する一方で、女性の参政権を唱えた女性闘士を詩に登場させもするのです。彼の場合、ああいえば、こういう、という曖昧さを常に持っているので、一概に、言い切れないのです(これが扱いにくさだと言われます)。 「仮面」についてです。 オルセーのサイトでは角度的に「惑わしの装飾」しか見えないのですね。 「素晴らしい見せかけで光かがやいているこの顔の方は。」が陰に隠れてしまっていますね。 角度によっては、一見あの官能的な「聖テレジアの法悦」を彷彿とさせるようでいて、でも、このLa Comédie humaineというタイトルからして、やはりどこか自信ありげに挑発しているのでしょう。 そしてボードレールはあらたに見出し、巧みに表現しているのでしょうか。 "Mais pourquoi pleure-t-elle ? " などとこの彫像の内に上述のご指摘に通ずるような、更なる二律背反の曖昧さのようなものを?

noname#145704
質問者

お礼

たくさんありがとうございます。先に「仮面」のことについてお答えしてみます。そうですか、「仮面」がお好きとは。興味深く伺いました。これは実体験がおありになる方ではないと、ちょっと分からないものかもしれませんね。なるほどな、と思ったものです。 ボードレールは基本的には、とても我儘で女性にあまえたがりの詩人です。しかも、自分が相手に理解されるなどとは夢にも思ない人です。いや、相互理解に意味があると考えていないのか、何なのか。「イツモオナジク」Semper Eademでは、「いつも悲しいみたいね。ねぇどうしたの?」と聞いてきた女に「黙っていたまえ」などと言って、崇拝される偶像であってほしいなどというのです。彼の悲しみの理由が面白く、Semper Eademでは、Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal「私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです」などと応じます。ボードレールの詩のハイライトとなる一節ですが、謎めいていますよね。しかも、これが誰でも知っていることだ、というのですから。一度激しい感情を味わって、心が焼き切れ、追憶に耽る以外にもう心が働かなくなったということなのでしょうけれど、なぜ彼にそんなことが起きたのか。 ともあれ、女に余所行きの顔をしてもらうというパターンは「秋の歌」の後半でも見られます。「賛歌」でサバティエ夫人に告白した際も、idoleという語を連発。ともかく、崇拝できる対象であってほしく、俗なところなど見せないでほしい、と思ったようです。こういうところが、子供っぽいと言われたりもします。 でも、「仮面」「告白」を読むと、この偶像の内面に、実は見かけでは推し量れないものがあることを知っていたと言えます。そして散文詩「窓」では、「俺の思いこみであるという人もいるかもしれないが、何が悪い?」と開き直って見せさえするのです。わかっているくせに、相手に理想を押し付けざるを得ないというところが、ボードレールの悲しいところです。生に希望を見出すためには、憧れるアイドルが必要な精神構造だと言ったら、ちょっと通俗的過ぎる表現でしょうか。でも、ロマン主義の詩人らは、このテーマを連発します。詩人が暗闇にいるとき、女性が救いに来てくれる!というテーマはネルヴァルに顕著です。ボードレールの場合、自分にとっては救いの偶像と女性を見ておきたいのだが、本当は違うのだろうな、と達観していたところが、幾分、特徴的です。 彫刻「仮面」については、人文書院の解説をお持ちのようですし、マシュマロさんは仏語がお読みになれるらしいので、下手な解説は不用と思いますが、一応、話のタネということで。 ご存じのように、韻文詩「仮面」はエルネスト・クリストフの「仮面、あるいは人間喜劇」という彫像がモチーフです。クリストフは、もともとレアリスムの巨匠と言われるフランソワ・リュードの弟子でしたが、リュードの死後の辺りから、作風が一変。ロマン主義へと偏ります。もっともロマン主義と一口に言っても、ロマン主義の中には、バロックへの回帰という要素があり、最初にクリストフが手掛かりにしたのは、どうもこれであるようです。 「仮面」では、ご承知のように顔が二つあり、一つの身体に一つのイデーが宿る、という古典主義的なテーゼが裏切られています。顔が二つあって、一方の顔が死角に入ることで、表情が変化するようになっています。あれは彫刻における騙し絵です。いかにもバロック的なテーマですが、たとえばルーヴルにある「両性具有者」の像において顕著です。前から見ると性器が見えるので男性ですが、後ろから見ると、女性に見えます。でも、もしマシュマロさんが他にご存知なら、教えてください。結構、面白いなと思うので。 http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=car_not_frame&idNotice=887 写真が、少しましなのは次のサイトでしょうか。 http://www.insecula.com/oeuvre/O0005343.html こうした事情をもしかしたらご存じなのかなぁと思いつつも、ベルリーニの傑作に似ているとは、本当に、マシュマロさんの御見識には感服しました。私もそううっすらと感じていましたが、あらためてバロック的であるということを考えても見れば、ベルリーニと結びつけるのが当然かもしれません。 この彫像は表題に「人間喜劇」とあるように、バルザックの墓標をイメージして造ったようです。おそらく、創作立案の段階から、クリストフはボードレールと話をしたのだろうなと思います。ボードレールは『1846年のサロン』で彫刻はなぜ退屈か?と弁じ、批判点は複数ありますが、その最大のものとして、空間芸術であることがそもそも悪いんだ、と言っているのです。ディドロの辺りから、こうした論評の仕方はよくある話しなんですよね。しかし、彫刻もやってやれないことはない、とクリストフにいさめられたというところなのだろうな、という印象です(印象でしかありません。クリストフの研究はすごく少ないので、カチッとしたことは言えないのです)。 まぁ変に一方が一方に影響を与えたというよりは、いわゆるボードレールお得意のバロック復興ということで、二人とも、この時期、趣向が似ていたと言った方が正確かもしれません。それでも観る位置を変えることで表情が変わるとは、面白い発想だと私は思うのですが、クリストフはこの作風を極めるようなことはしませんでした。彼は実家がお金持ちで、作品を売る必要が無く、悠々自適だったのですが、やはりお金持だったのが問題?と惜しく思ったものです。ちなみにクリストフでは、これを三回作りなおします。一回目はボードレールに見せたが、サロンに出展せず(消失)。二回目はサロンに(三等)。三回目はボードレールの思い出に。二回目のものだと女性が少し太めで、これがオルセーにあります。三回目の復元が、ロッシュにあります。画像はAtelier de Baudelaireが掲載するものが角度を変えて写真を四枚も並べ、いかに騙し絵であるのかを鮮明に伝えてくれています。が、これは専門書で、ちょっと普通の図書館にはありません。googleの検索で、christophe, masque, baudelaireと入れると、少しオルセー以外の写真が出るようです。

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noname#144978
noname#144978
回答No.29

拙文にお付き合いくださりこちらこそありがとうございます。 >いかに西欧化されているか、西欧の文化に敬意を払っているかという指標を示すものであったと思います。しかし今後、西欧との関係は、また変わっていくだろうと私は思います。その時によく変われるといいなと思います。 本当、そうですね。 では、私も失礼して。 マエストロのために捧げられたものの、タンゴ=ラテアメの舞踊曲というイメージからずっと敬遠してきた末に、弾いたら大層気に入ったという逸話つきの殊更エンディングにかけてが官能的で美しい曲です。でも人によって好き嫌いがはっきり分かれそうな感じ。 youtube "Piazzolla Le Grand Tango Mstislav Rostropovich (Audio Only) " >いえいえ、ボードレールもシャネルがいたら、きっと気に入ったことだろうと思います。 >安価な宝石で身を飾った恋人の姿に、万物照応の幻影をみたのですから(「宝石」)。 「宝石」の彼女、ご指摘を頂きあらためて驚きました。 あるいは「赤毛の女乞食」で「まがいものの安宝石、そっと横眼で見て通る、御免よ!僕にはそれさえも買ってやれない。 お行き、飾りなんかは要りはせぬ、香水も、真珠も、ダイヤモンドも、痩せたお前の裸が一番綺麗、可愛い娘よ!」(ボードレール全集 人文書院)などはどうでしょう。 ギャルソンヌのシャネル、そして彼女の心意気に通じるかのようですね。 ボードレールなら「仮面」が好きです。 日本の能面というのは故意にですが微かに左右非対称に仕向けているので、傾き加減でいかようにも表の容貌が怪しくうつろい、まるで生きているみたいですよね。 一方、イタリアのカーニバルの仮面などはその容貌のせいか表情を変えず硬質で、それがいつしか鏡に思えてくるのです。 自意識過剰かもしれません。  >この記事の書き手にしてみると、稀代のプレイボーイであるということが重要なことであるらしいのですが、この点は、私から見ると、どうでもよろしかった。 小気味良いご感想ですね。 良かった、「危険な関係」のヴァルモン子爵をダンディの筆頭に挙げようと思っていたのですから。 あの記事の書き手は600億の数字をタイトルに掲げていますね。でも、当のバロンにとっては実はどうでも良かったのだとは思いませんか。 ご指摘下さった「つき」や彼の資質の真の理解者や機会にこそ恵まれたかったのではないでしょうか。 案外自身の学や才能のかげりを直感して早々と達観し、パトロンを含めた散財にこそ天賦の才能を自負していたのかもしれず、だとすれば財産尽きて物書きに携わったというのは何とも皮肉なものですよね(勝手な解釈)。 でも私財の目減りに一喜一憂しない潔さは凡人ならずも大富豪にもなかなか真似できないのではないでしょうか?(想像)。 サイコロさんはもしかして白洲次郎など思っていらっしゃった? >有名建築家が賞をとった作品らしいですが、浴室がガラス張りで、普通の住人は(室内だから誰も見ていないが羞恥心として)、目隠しのポスターなどを貼って、誤魔化すのだそうです。しかし、浴室がせせこましくなくて、浴槽にずっと入っていられるというメリットもあるなぁと思ったものです。 貴重なそして素敵な体験をなさったのですね。いいなあ。 そのガラス、パッと曇りガラスに変わったら、逆に悩ましく演出できて良さそうな。どうでしょうか。 それはフランスのアパルトマンなのですか。 私が最初の滞仏で一番印象的だったのは、ゲリラ的にいつ友人宅を訪れてもきちんと整理整頓されていた点です。 さすが百科全書の国だなあってとても感心したのでした。 あと、一番最初に「醜い」と思ったのが中世の教会で見かけた"l'homme vert"や"mascaron"などの一連の奇怪な存在たちで、それが何と銀食器までにしつこく装飾されているのですから、当時は無理解もあいまってかなり可笑しく思えたものです。 >ご自宅が、現代建築とは。自由に改造もできるでしょうし う~ん、勝手に増改築してもよいのかしら、事務所の許諾が必要かもしれませんね。 私が何気に耐震性について伺ったことがありまして、その建築家は「どんな地震が来てもびくともしない建築なんて僕は興味が無いしつくりませんよ」と言ったので思わず仰天したことを憶えています。 傍らの主人まで笑っていたのをみて、ようやくホッとしたのですけれども、この国では不謹慎な話で洒落にもなりませんよね、まったく。

noname#145704
質問者

お礼

どうもありがとうございます。楽しく拝読いたしました。 >でも私財の目減りに一喜一憂しない潔さは凡人ならずも大富豪にもなかなか真似できないのではないでしょうか?(想像)。 確かにそうですね。虚構の世界に生きるモンテ=クリスト伯爵でもない限り、お金を気にするものです。そして、虚構の中とはいえ、モンテ=クリスト伯爵が散財する度に、人知を超えた印象が増していきます。「カエサルのものはカエサルに、俗世は私に関係ありませんよ」と言っているかのよう。バロンも、おそらく、非キリスト教圏から来た超人に見えたことでしょうね。 しかし、私はお金を使いはたすことがあまり大した才能だとは思っていないのです。芸術家を見れば、こういう人はいくらでもいるのですから。ジェームズ・ジョイスはお金持ちではありませんが、一晩で、お給料を飲んでしまうような豪放さ。シャルトリューズを飲みに飲んだのでしょう(確かに美味しいお酒なので、もしご経験が無かったら、お勧めです。クリスマスのお酒なので、時期的にもいいですね)。そしてうろ覚えですが、ジョイスは「こんなにも楽しくお金を使えるのだから、私は才能があるということであって、この才人に金を心行くまで使えるように与えるのが当然であるはずだ」などと言ったそうです。借金をしても返さず、「天才、間違わず」と放言したとか。酒を飲んだと言うといかにも愚かしいのですが、これで詩が湧くのですから、やはり無駄な金ではないわけです。こういう伝説をもつ芸術家は、モディリアーニなど、いくらでも名前を挙げていくことはできると思います。 バロンの方は華やかではありますが、お金が無くなり、明日食うにも困るという境遇に追い込まれるなどとは、想像しなかったでしょう。だから、金を使いはたすという点にかけては、詩人らの方が自覚的であったと思うのです。でも、私は、職や財産を失うかもしれない時に、タナトスの衝動に飲まれて散財するとか、俗世を超えたことをしてしまうより、涙をのんで留まる詩人らが好きです。 たとえばゴーティエ、マラルメなど。ゴーティエは自分がキレて喚いたら、他の若い詩人が職を失うことをわかって、黙って泣いていたそうです。マラルメなど、結局、恋人と逃げることもできなかった。言い訳を延々と書き連ねた手紙は、情けないものですが、私はこれが好きです。永井荷風が「文学は金がかかる」と言って、守銭奴であったことは有名ですが、人生に緊張感があるという意味で、私はこの方に味を感じます。 >サイコロさんはもしかして白洲次郎など思っていらっしゃった? 白州次郎は興味深いですね。しかし、彼自身は、日本の社会では勝っていたのだと思います。敗けと言っても、彼は決して、日本の社会では敗けてはいませんから。やはりお金持ちの才人という範囲に思えるのですが、これは間違いでしょうか。結局、私の場合、限られた手持ちの中で、つまらない生活をいかに面白くするか、という人が好みのようです。 でも、白州次郎の名前が出て分かりましたが、マシュマロさんにとって重要なのは、外交上の要所を担ったというところにポイントがあるのでしょう。確かに、白州もバロン薩摩も、私人としてかかわったに過ぎないのですから、これはすごいことです。 それにしても、ピアソラの曲は堪能しました。一時期、毎日聞いていた曲です。リベルト・タンゴよりも、私はこちらの方が好きでした。怪しい感じが好きですね。タンゴも日常を豊かにするものだと思います。決して超大金持ちの道楽ではなくて、タンゴは庶民的なものだそうですね。 日常的な感覚から、どうしてこういうものが生まれてくるのか。私の想像を完全に超えていますが、これもまた、日常を輝かせるという意味で、ダンディを生む揺籃なのかと思います。 >あと、一番最初に「醜い」と思ったのが中世の教会で見かけた"l'homme vert"や"mascaron"などの一連の奇怪な存在たちで、それが何と銀食器までにしつこく装飾されているのですから、当時は無理解もあいまってかなり可笑しく思えたものです。 ゴシックは好みが分かれますよね。私も最初、首を捻っていました。大聖堂の怪物らも、一体何なのだろうか?と。しかしノートルダム大聖堂のミサに参加した時(正確には「見学した」ということになりますが)、ゴシックの怪奇趣味も美しいなと思ったものです。聖なる儀式というより、一つのイベントとしてみても、美しいと思います。巨大な円柱が並ぶ中で、お香がもうもうと立ち上って、パイプオルガンが鳴り響き、ラテン語で連祷が始まると、あたかも柱が「曖昧な言葉」を漏らしているかのように思えます。「万物照応」の世界だなぁ、と思ったものです。案外、信仰心というより、美を愛好するという感覚で、通う人がいてもおかしくないと思ったものです(そういうことを述べているロマン派の作家がいますが、嘘ではないのだな、と思いました)。しかしこちらは、タンゴと違って、歴然と特権階級が牛耳る儀式ではありますから、庶民が内奥に入っていくのは、容易ではない世界です。いや、二つを美から受ける快楽という観点から比べてしまうのが、間違いなのかもしれませんが。

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