では、お言葉に甘えさせていただきますね。
あの彫像の女性は豊満で、さも誇らしげに映ります。
ボードレールならずとも、誰もが官能的と褒め称える古典的な美しさに満ちあふれています。
それがシャネルの登場によって、マヌカンのほっそり美志向が顕著になって今に至るのですから、美とは何とも不思議なものですね。
そしてまた、バルザックの墓標を意識していたとは・・・知りませんでした。
「人間喜劇」と入力検索して、どうりで、肝心の美しい彫像以上に彼の美しくない?肖像画が目立った理由がわかりました。
それとも彼ならよろこんで美の引き立て役を買ってでてくれるでしょうか。
美術書のご教示も嬉しかったです。機会があれば手にしてみたいものです。
チュイルリーのモノクロ画像も悪くないと思います。
野外鑑賞は絵画と比べて騙し難い?彫像ならではの醍醐味が感じられるかのようなので。
"Paris, Tuileries (Ier arrt), La Comédie humaine ou le Masque par Christophe"(INHA)
>ボードレールは基本的には、とても我儘で女性にあまえたがりの詩人です。
何だか・・・伺うほどに彼の強烈な個性が一段と色濃く増してくる気がします。
"Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal(私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです)"なんて、この箇所だけ切り取って解釈したら、まるで男と女は理解し合う仲になったら最期、とでも言いたげな。
でもまさか、そんな俗悪な意味ではないのでしょう?
あとでその詩を読んでみますね。
>一度激しい感情を味わって、心が焼き切れ、追憶に耽る以外にもう心が働かなくなったということなのでしょうけれど、なぜ彼にそんなことが起きたのか。
>ともあれ、女に余所行きの顔をしてもらうというパターンは「秋の歌」の後半でも見られます。「賛歌」でサバティエ夫人に告白した際も、idoleという語を連発。ともかく、崇拝できる対象であってほしく、俗なところなど見せないでほしい、と思ったようです。こういうところが、子供っぽいと言われたりもします。
それというのは、お相手の女性にもよるのでしょうが、女のあしらい方がいまいち巧くなかったということでしょうか、子どもっぽいって。
ダンディというと、もっと女慣れしたスマートなイメージが浮かびますが。
彼は違ったのでしょうか
>でも、「仮面」「告白」を読むと、この偶像の内面に、実は見かけでは推し量れないものがあることを知っていたと言えます。そして散文詩「窓」では、「俺の思いこみであるという人もいるかもしれないが、何が悪い?」と開き直って見せさえするのです
>ボードレールの場合、自分にとっては救いの偶像と女性を見ておきたいのだが、本当は違うのだろうな、と達観していたところが、幾分、特徴的です。
上述の子供っぽさとは裏腹に、これはこれで何だか冷ややかな笑みを浮かべているかのようですね。
・・・・などと一寸頭に留めて読みすすめていけばおもしろいのでしょうね、そして一段と色鮮やかに読めそうな気が致します。
語学力も素養も乏しい私にとって、ボードレールの詩は難解なものには変わりないのですけれども。
クリストフについてもご教示とても参考になりました。 ありがとうございます。
ご指摘の「騙し絵」彫像もなかなかなものですね。
「両性具有の美」の幾つかはヘレニズム期の彫像や中世の図像に散見できるようですし、
先には女らしい輪郭線の「擬人化した葡萄の木とディオニュソス(バッカス)像」やらヘルマフロディトス小像が来日していました(顕著な両性具有ではないのですが)。
"Marble figure of a the young Bacchus with a personification of the vine (Ampelus)"(the British Museum)
あるいは、両性ならぬ双面ならシェーンブルンのヤヌスとベッローナの彫像、あるいは興福寺の阿修羅像などが浮かびますが、でもどうでしょう、「騙し」の趣向とはやはり異なりますものね。
※"Skulpturen und Plastiken um Schloss Schönbrunn"(29 Janus und Bellona)
あらためてボードレールxクリストフの「騙し絵」の試みが絶妙なものに感じられてきます。
何か彼を執拗に駆り立てるような激しい経済的な逼迫性とかがあったなら・・・あるいはボードレールのさらなる賛辞があったなら・・・とも思います。
そうですね、エドモン・ダンテスの彫像なんて見てみたかったです。
(Gérard Depardieu似以外の美青年でぜひ!)
手にするのはやはり仮面かあるいは背後の金塊か・・・
・・・でもきっと、彼等の趣向としては相応しくなかったのでしょう、そんな気がします。
質問者
お礼
>それがシャネルの登場によって、マヌカンのほっそり美志向が顕著になって今に至るのですから、美とは何とも不思議なものですね。
そうですね。美は時代とともに変わります。ボードレールは、こういうことが分かっていたのか、様々な種類の美を楽しもうとしたようです。内縁の妻のジャンヌは、ボードレールのイラストによると、豊満な胸をしていたそうです。でも、彼は「痩せているほど淫らである」などと言っています。「死の舞踏」では、骸骨の女を称賛しています。
様々な美を。となると、バルザックの彫像だと、ロダンが有名ですね。麻袋に入ったアザラシと揶揄されもしましたが。あれだけ華やかな世界なのに、作者はアザラシみたいなのですから、それもまた、リアリティがあっていいような気がします。こうした美は、現代からすると、ちょっと認めにくいものかもしれません。
>"Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal(私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです)"なんて、この箇所だけ切り取って解釈したら、まるで男と女は理解し合う仲になったら最期、とでも言いたげな。
ははは。そうかもしれませんね。初恋を終えてしまったら、もう心は終わってしまい、目の前にいる女など目に入らなくなる、と言っているのと同じですから。おそらくスタンダールの『恋愛論』を思い浮かべるといいのでしょう。彼によると、音楽は、一度目は味わうことができるが、十度も聞くと、最初の楽しかった印象を追憶しているに過ぎなくなるのだそうです。
ボードレールは、女性の扱いは下手です。阿部良雄が『群衆の中の芸術家』という著作でドラクロワと比較していますが、貴族の御落胤と噂のあるドラクロワが情事を遊びと考え「甘美であった」と次々と重ねて行ったのに対し、ボードレールは叫んだり、暴力を振るったりします。感情移入してしまうのですね。彼はダンディになれないから、ダンディに関心があったのかもしれません。
>(Gérard Depardieu似以外の美青年でぜひ!)
この役者は若い時は本当に、息を飲むくらいの美少年だったのですけれど、なぜあんな巨漢になってしまったのでしょうか。美を自ら捨てる選択をして、それでも演技力で生きているというのは、なかなか強いことですが……。
しかし、拒食症の気があるモンテ=クリスト伯爵が、彼であった時にはがっかりしました。パスカル・キニャールの「めぐり合う朝」で食の細い音楽家サント=コロンブの主演も彼。堂々としているのもいいですが、せめてデュマとか、バルザックという大食漢の役を引き受けるのみにしてもらいたいものです。
ところで、Semper Eademの私の訳です。
ツモ同ジク(※ラテン語なのでカタカナ)
あなたは私にお尋ねだった、「あなたに訪れる、この奇妙な悲しさは、どこに源があるのかしら?
あなたの悲しさは、黒くて剥き出しの岩に打ちつけては引き、また打ちつける海のよう」。
――私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませると、
その先も、生き存えていることは、一つの悪となるのです。こんなことは誰だって知っている秘密であり、
苦しみは、非常に単純で、神秘などないのです。
これは、すべてに注がれる、あなたの喜びが輝いているのと同じことです。
だから、私の悲しさを探ろうとすることなど、おやめ下さい、おお、知りたがり屋の美しい人よ!
あなたのお声は甘美だけれど、お黙り下さい!
お黙り下さい、ものを知らぬ人よ! 喜び浮かれた魂の持主よ!
子供っぽく笑う口をした人よ! 〈生〉が我々を捉えるよりも、
しばしば、〈死〉が、ささやかな繋がりで私たちを捉えるのです。
どうか、どうか、私の心が「嘘」に酔いしれるままにしておいてください。
美しい夢に浸るように、あなたの美しいまなざしに浸るままにしておいてください。
あなたの睫毛の影で、長い間、微睡むままにさせておいてください。
たくさんありがとうございます。先に「仮面」のことについてお答えしてみます。そうですか、「仮面」がお好きとは。興味深く伺いました。これは実体験がおありになる方ではないと、ちょっと分からないものかもしれませんね。なるほどな、と思ったものです。
ボードレールは基本的には、とても我儘で女性にあまえたがりの詩人です。しかも、自分が相手に理解されるなどとは夢にも思ない人です。いや、相互理解に意味があると考えていないのか、何なのか。「イツモオナジク」Semper Eademでは、「いつも悲しいみたいね。ねぇどうしたの?」と聞いてきた女に「黙っていたまえ」などと言って、崇拝される偶像であってほしいなどというのです。彼の悲しみの理由が面白く、Semper Eademでは、Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal「私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです」などと応じます。ボードレールの詩のハイライトとなる一節ですが、謎めいていますよね。しかも、これが誰でも知っていることだ、というのですから。一度激しい感情を味わって、心が焼き切れ、追憶に耽る以外にもう心が働かなくなったということなのでしょうけれど、なぜ彼にそんなことが起きたのか。
ともあれ、女に余所行きの顔をしてもらうというパターンは「秋の歌」の後半でも見られます。「賛歌」でサバティエ夫人に告白した際も、idoleという語を連発。ともかく、崇拝できる対象であってほしく、俗なところなど見せないでほしい、と思ったようです。こういうところが、子供っぽいと言われたりもします。
でも、「仮面」「告白」を読むと、この偶像の内面に、実は見かけでは推し量れないものがあることを知っていたと言えます。そして散文詩「窓」では、「俺の思いこみであるという人もいるかもしれないが、何が悪い?」と開き直って見せさえするのです。わかっているくせに、相手に理想を押し付けざるを得ないというところが、ボードレールの悲しいところです。生に希望を見出すためには、憧れるアイドルが必要な精神構造だと言ったら、ちょっと通俗的過ぎる表現でしょうか。でも、ロマン主義の詩人らは、このテーマを連発します。詩人が暗闇にいるとき、女性が救いに来てくれる!というテーマはネルヴァルに顕著です。ボードレールの場合、自分にとっては救いの偶像と女性を見ておきたいのだが、本当は違うのだろうな、と達観していたところが、幾分、特徴的です。
彫刻「仮面」については、人文書院の解説をお持ちのようですし、マシュマロさんは仏語がお読みになれるらしいので、下手な解説は不用と思いますが、一応、話のタネということで。
ご存じのように、韻文詩「仮面」はエルネスト・クリストフの「仮面、あるいは人間喜劇」という彫像がモチーフです。クリストフは、もともとレアリスムの巨匠と言われるフランソワ・リュードの弟子でしたが、リュードの死後の辺りから、作風が一変。ロマン主義へと偏ります。もっともロマン主義と一口に言っても、ロマン主義の中には、バロックへの回帰という要素があり、最初にクリストフが手掛かりにしたのは、どうもこれであるようです。
「仮面」では、ご承知のように顔が二つあり、一つの身体に一つのイデーが宿る、という古典主義的なテーゼが裏切られています。顔が二つあって、一方の顔が死角に入ることで、表情が変化するようになっています。あれは彫刻における騙し絵です。いかにもバロック的なテーマですが、たとえばルーヴルにある「両性具有者」の像において顕著です。前から見ると性器が見えるので男性ですが、後ろから見ると、女性に見えます。でも、もしマシュマロさんが他にご存知なら、教えてください。結構、面白いなと思うので。
http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=car_not_frame&idNotice=887
写真が、少しましなのは次のサイトでしょうか。
http://www.insecula.com/oeuvre/O0005343.html
こうした事情をもしかしたらご存じなのかなぁと思いつつも、ベルリーニの傑作に似ているとは、本当に、マシュマロさんの御見識には感服しました。私もそううっすらと感じていましたが、あらためてバロック的であるということを考えても見れば、ベルリーニと結びつけるのが当然かもしれません。
この彫像は表題に「人間喜劇」とあるように、バルザックの墓標をイメージして造ったようです。おそらく、創作立案の段階から、クリストフはボードレールと話をしたのだろうなと思います。ボードレールは『1846年のサロン』で彫刻はなぜ退屈か?と弁じ、批判点は複数ありますが、その最大のものとして、空間芸術であることがそもそも悪いんだ、と言っているのです。ディドロの辺りから、こうした論評の仕方はよくある話しなんですよね。しかし、彫刻もやってやれないことはない、とクリストフにいさめられたというところなのだろうな、という印象です(印象でしかありません。クリストフの研究はすごく少ないので、カチッとしたことは言えないのです)。
まぁ変に一方が一方に影響を与えたというよりは、いわゆるボードレールお得意のバロック復興ということで、二人とも、この時期、趣向が似ていたと言った方が正確かもしれません。それでも観る位置を変えることで表情が変わるとは、面白い発想だと私は思うのですが、クリストフはこの作風を極めるようなことはしませんでした。彼は実家がお金持ちで、作品を売る必要が無く、悠々自適だったのですが、やはりお金持だったのが問題?と惜しく思ったものです。ちなみにクリストフでは、これを三回作りなおします。一回目はボードレールに見せたが、サロンに出展せず(消失)。二回目はサロンに(三等)。三回目はボードレールの思い出に。二回目のものだと女性が少し太めで、これがオルセーにあります。三回目の復元が、ロッシュにあります。画像はAtelier de Baudelaireが掲載するものが角度を変えて写真を四枚も並べ、いかに騙し絵であるのかを鮮明に伝えてくれています。が、これは専門書で、ちょっと普通の図書館にはありません。googleの検索で、christophe, masque, baudelaireと入れると、少しオルセー以外の写真が出るようです。
お礼
ありがとうございます。そして徹底した態度を示した見事な回答です。 >見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さ。 これが醜さの定義ですか! 美の定義かと一瞬思いましたよ。そしてこの最たるものが、ギリシア彫刻であると仰る。 確かにそうかもしれません。つまり評論家らは、ギリシア彫刻を美と思うわけでしょうが、「見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異」な美がある、と言うかもしれない。そのまま裏を返して、人が美と思うものを醜さと呼び換える。驚きました。この回答だけで、スレッドを作った意味があったというものです。 そして美の序列をつけるにあたっては、一人の女優を例に出す。同じ女優でも、初期の慣れない時が醜い、とは。実によいですね。 私が御回答から引き出した定義とは、 ――初々しさ、未成熟は醜さである。
補足
さて、そろそろ締めることにいたしました。約五十もの投稿、どうもありがとうございます。BAをNo1と選んだのは、おどろおどろしい質問に対して、最初に回答してくださったからであり、また、私の考えた遊戯の仕掛けを、よく理解してくださっていたと考えるからです。 一般的には、未熟や初々しさを、特に異性に対しては媚態と考える方が多いのではないかと思います。いわゆる、萌え、あるいは海外で浸透しつつある、Kawaiiという概念です。その一方、それが醜いのだとおっしゃる。まさに独自の視点がよく出ていると思いました。結局、このスレッドの課題になっていたのは、主観的な問題であって、社会的な通念としての「醜さ」とは違うのです。 なぜこのような問いのたて方をしたのか。他の投稿者からもちらほらと意見が出ていましたが、所詮、美や醜は定義できないものです。他人が美だというものが、自分にとっては醜さとなりうる。このスレッドでは、そういう愚痴をこぼし合って、和気あいあいと議論をしたいと思ったのでした。ここで私が拾い上げた醜さの定義を拾っておきます。 ――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。 ――イドラに踊らされること。 ――諍い。 ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。 ――他を見下すための自己顕示。 ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。 ――作品に注ぐ愛情の欠如。 ――ナルシシズムに耽溺すること。 ――他人を不毛さに巻きこむこと。 ――飢えた虚栄心。 ――初々しさ、未成熟。 醜さとして提示しているが、もし美学に関心がある方なら、一瞬で、どれもが、とある芸術家の美意識に結び付くものだと見抜かれるでしょう。オナニーでさえも、ジュネであったら、的確な意見となるでしょう。イドラに踊らせることも、バロック期の芸術家ならば、望むところ、と言えないでしょうか。私としてはこれまで建てた問いの中でも、なかなか豊かな収穫があったと思います。 さて、美の乞食が乞食ではなくなるとはどういうことか。この身近にある醜いものに愛情を注いでみる、というのが一つの答えです。無論、私はそれを声高に主張するお節介な趣味はありません。しかし、一つの可能性として、もし醜さの中に美を見いだせるようであれたら、世界が変わって見えるだろうな、ということくらいは、言えそうなものではありませんか? 私の趣旨は非常に、単純なので、もう看破していらした方もいるかもしれませんが、こうやって敢えて定式めいたものを出すことで、心の中にある感覚を言語化し、自分からつき放してみるための契機となれば、と思ったのです(aliénationといいますか)。しかしその中でも個人的に、諍いに美があるとは、ちょっと考えたくありませんね(笑。やはりダメなものはダメか)。 最後に、このタイミングで締めることにした理由について触れておきます。その理由はいくつかありますが、議論が十分になされたということに加え、一つには、美の乞食が自分だと名乗り出たNo10の方が、未だに自分だと考えているらしいと判明し、思いこみの強さを気の毒に思い、また質問そのものが楽しいものではなくなってしまったからです。上述の醜さは、一つくらいは誰にでも身に覚えがあることだが、全部自分のことだとお考えになってしまった。そういう醜さの権化みたいな人がいるものでしょうか。いや、いないでしょう。要するに、彼が美学を何にも勉強していないから、全部、自分のことに思えるだけなのです。これはこれで哀れだと思うべきでしょうか。 しかし、私は彼に対して、まったく関係ない、と伝えたはずでした。それで、本当に自分のことだと考えているのかどうか、私は疑問に思っています。というのも、彼はこの手口で、複数回、関係ないことを関係あると言って、私を追いかけてきているからです。口実を作り、是が非でも私と議論したいのかな?と私には見えています。普通なら、「関係ない、あっそ」で終わりだし、勘違いした投稿を消してしまえばいいのだが、どうしても「関係ある、日本のためだ、議論しろ」とおっしゃる。勝手な理屈をこねた、ネットストーカーの類と私には見えています。私のアカウントは、これで様々なカテで交流ができていたため、まことに残念ですが、ストーカー対策として、私はアカウントを消してしまうことにしました。 ――というわけで、リトルキスちゃん、雨合羽さん、マシュマロさん、木造の親方、では、さようなら。良いお年を、ジョワイユーズ・フェット! (※パリだと、年末年始の挨拶が、ジョワイユー・ノエルではなく、ジョワイユーズ・フェットJoyeuses fêtes「よいお祭りの日々を!」というようです。クリスマスがキリスト教だから、多国籍に配慮して、わざと「お祭り(複数形)」というんだろうな、と感心していました)。