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乞食
自活できることは好ましいことと思っている人間です。 しかし辞書には、仏教用語の乞食(こつじき)は自活することは邪命であるとされているようです。 なぜ、邪命なのでしょうか。 よろしくお願いします。
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- oska2
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>自活できることは好ましいことと思っている人間です。 正に、その通りですね。 河川敷・公園などで、青テントに住んでいる浮浪者も一種の自活できる者です。 努力もしないで、直ぐに生活保護に頼る事は「好」としていませんからね。 空き缶・ダンボール・雑誌拾ってでも、自分で生活しています。 >仏教用語の乞食(こつじき)は自活することは邪命であるとされているようです。 これは、托鉢僧と乞食(こじき)を同一視した考え方です。 乞食(こつじき)が邪名なら、仏教国のタイの僧侶は全て邪名になりますよね。 釈迦も、托鉢業(乞食・こつじき)を行っていますからね。 推測ですが・・・。 この辞書の関係者は、乞食(こつじき)・乞食(こじき)を誤って解釈しているのかもね? または、托鉢業を行わない宗派の方が執筆したのかも? また、仏教でも宗派によっては乞食(こつじき)を行わない教えもあります。 臨済宗・曹洞宗は、托鉢の修行が有名ですよね。 ですから、乞食(こつじき)を邪名とは看做しません。
- marukajiri
- ベストアンサー率45% (504/1101)
昔、お坊さんは修行の一つとして、家々を回りお経を唱え、食べ物やお金をいただくということをやっていました。乞食(こつじき)は、托鉢とも言いますが、めぐんでもらったものを手に持っている鉢に入れてもらったからでもあります。 乞食(こつじき)によって食べ物を得ることで、おのれ自身の感謝の心を育み、同時に他者に対して慈悲の心を持つことが人間として美しく、すばらしい事であることをこの修行から身体で学んでいたのです。どこかのえらい坊さんが「乞食(こつじき)は自活することは邪命である」と言って、それが今日まで残っているのかもしれませんが、乞食(こつじき)は修行僧の修行であり、これなくして人間としての完成や悟りは得られないという考え方が仏教にはあるのです。 想像してみて下さい。仏教が修行僧に自由に何の制約も無く職業を選んで金もうけに励みなさいとなったらどうなりますか?株式のトレーダーになって、一日中パソコンに向かい、株価の上下に一喜一憂し、金の亡者になる修行僧や、金貸しをやって多くの人から金を搾り取る悪徳金融業者の集団となる修行僧軍団が出てくるかもしれません。そうなれば仏教の教えは地に落ち、世の中は欲望に翻弄される人間であふれかえるでしょう。今でさえ乱れている世の中が、さらに乱れることになりかねません。 これは極論なので、あり得ない話で笑い飛ばしてもらっていいのですが、要はお坊さんというのは修行僧であるわけなので、おのれの修行に励むことがまず第一とされているのです。仏様の教えを守り、人々を正しい道へと導く使命を修行僧たちは帯びているのです。自分勝手な考えで自活してもらっては、みんなが困るのです。そういうわけで乞食(こつじき)の修行に励んでもらうことが大事な修行になるわけです。 「自活することは邪命」というのは修行僧に対する戒めの言葉です。一般のそれぞれの生業を持たれている人たちは、自活してもらっていいのです。生活保護に頼る人ばかりでは社会自体が成り立たなくなってしまいますので。(笑)
お礼
ご意見ありがとうございました
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