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長篠の戦について

長篠の戦で織田は本当に鉄砲の三段撃ちで、武田に勝ったのでしょうか? それとも、教科書と全く異なった作戦で勝ったのでしょうか? 皆さんはどう思いますか? 理由もつけてくれるとありがたいです。

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>長篠の戦で織田は本当に鉄砲の三段撃ちで、武田に勝ったのでしょうか? 回答から先に述べますと「三段撃ちはなかった」と考えます。 信長軍3万と家康軍8,000は、長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原と言っても川に沿って丘陵地が幾つも連なる場所であった。ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、3万の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させた。 一方、武田軍は清井田付近に布陣をした。右翼に馬場や土塁、穴山などを築き諸将を配置、中央に武田信豊(武田信玄の甥)を配し、左翼に内藤、原、山県の諸将を配した。後詰としては長篠城包囲軍、鳶ノ巣山(とびのす)の山塁。 長篠城の西方にあたる鳶ノ巣や久間山の砦からは、織田、徳川の連合軍の動きが一望できた。 しかし、旧暦の5月は新暦の6月に当たり、梅雨空の長雨が続いていた。 5月20日夜、雨をついて酒井忠次を将とした兵2,000の徳川軍が動いた。 家康は、大戦になる前に、まず鳶ノ巣と久間の武田軍を陥落させようとの腹づもりからであった。 家康は酒井に銃卒500をつけたが、降りしきる雨の中では何も役立つことはなかった。 槍や太刀での戦いとなったが武田軍は敗れた。この戦いで武田軍15,000の内すでに5,000余りの兵が敗走したと言われている。 これで勝負は決したと言っても過言ではなく、武田の騎馬軍団はもろくも破れ去ったのである。

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その他の回答 (5)

  • zep19
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回答No.6

私は三段撃ちないしは多段撃ちはあったと思いますよ なぜなら長篠と似た地形、状況が非常によく似た戦いが長篠の戦いの72年前の欧州であったからです 1503年スペインの名将ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・コルドバは1000のアーケバス銃兵を含む7600の兵を率い 当時欧州最強といわれたフランス重騎兵とスイス長槍兵7000と 日本と地形のよく似た南イタリアのチェリニョーラで戦いました コルドバはフランス軍重騎兵を迎え撃つため壕と盛り土で野戦築城し さらに盛り土には杭を刺し、その直後にアーケバス銃兵を四段構えで配置しました 案の定、フランス重騎兵は衝撃力で突破しようとして安易に突撃し壕の前で立ち往生したところを スペインのアーケバス銃兵の四段撃ちで叩かれ壊乱した後 予備のスペイン騎兵が両翼からフランス軍を包囲撃滅しました 銃兵と野戦築城により重騎兵と長槍兵による突撃を撃破した初の戦いとなりました 後の宣教師が信長が戦いの様相を伝えていたのかも知れません 通常発射速度の遅い射出兵器があるなら大抵多段撃ち戦術を編み出すのが普通です 銃より以前の弩は洋の東西問わず二段撃ちなど当たり前でした 三段撃ちがなかったとされる歴史学者は全く軍事知識の乏しい人たちです 今川の兵に対し真冬に吹くとしか思えない北西の風が吹き 敵より少数の兵が三間半の槍担いで最も戦闘に脆弱な行軍隊形で自分たちより高地にいる多数の敵兵に対し 左右に展開できない状況で雨天後ぬかるんだ街道上で突破するなととするなど 桶狭間正面攻撃説同様、軍事的な再検討が必要だと思いますね 長文失礼致しました

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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.5

>長篠の戦で織田は本当に鉄砲の三段撃ちで、武田に勝ったのでしょうか? 実は、鉄砲の三段討ち戦法は「広報・世論操作」の一環です。 「織田軍は、大量に鉄砲を持っている。武田の騎馬戦法は敗れた」とね。 屏風に描かれている事が本当なら・・・。 1.長篠の戦場では、大量の弾丸が発掘できる。 2.武田軍の戦法(○○の陣形)通りの場所で武田軍武将が戦死している。 が、発掘調査では「弾丸は、10個前後しか見つからない。武田側武将の戦死場所がバラバラです。 学術的(学会)では、既に鉄砲の三段撃ちは否定されていますね。 >教科書と全く異なった作戦で勝ったのでしょうか? まったく、別々の作戦でしよう。 長篠の戦での戦術が本当なら、信長軍の以降の戦闘も同じ作戦か又は多くの鉄砲を用いた作戦を用います。 ところが何故か、長篠の戦以降の戦闘は長篠の戦以前と同じ作戦を用いていますよ。 「広い戦場が無かったからだ!」という方もいますよね。 しかし、長篠の戦でも「武田軍を、あの場所までおびき寄せている」のです。 他の戦場でも、敵をおびき寄せればいいだけです。

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  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.4

 鉄砲の三段撃ちは現在ではほぼ否定されています。足場の悪い場所(前日まで視界が100mを切るような豪雨が降っています)で具足を身につけて、鉄砲を持って入れ替わりながら連射するのは、不可能ではありませんが兵の体力が30分ともちません。  長篠の合戦では織田軍は陣前に柵を張り巡らしています。三段撃ちが本当なら柵はほぼ必要ありません。  柵の前に歩兵や騎兵を出して武田軍の突撃を誘う。  ↓  武田軍が突撃して来たら歩兵や騎兵は柵の後ろに逃げ、柵で突撃を防ぎながら鉄砲を撃つ。  ↓  武田軍が引いたら再び歩兵や騎兵が柵から出て逃げ遅れた敵兵を攻撃し、次の突撃を誘う。  という戦い方を繰り返していたようです。  では何故、武田軍は全滅するまで無謀に突撃を繰り返したか? 1.当日早朝に織田&徳川軍が武田軍後方にあった砦を奇襲し、退路を遮断。  織田&徳川連合軍を攻撃するために全軍で前進し始めたところで、後方の砦がいきなり陥落します。前方に織田&徳川連合軍主力、後方に詳細不明の敵戦力、側面に長篠城を囲まれて盆地(しかも水田)に全軍で出てきてしまった武田軍は、引き返して砦を取り戻すこともできず(戻ったら正面の敵主力に背後を攻撃される)、側面に逃げることも出来ず(地形的に無理)、窮地に陥ります。  これによって武田軍は是が非でも前面の織田&徳川連合軍を破って前進する以外、生き残る道が無くなってしまいました。 2.鉄砲の煙で煙幕ができ、状況判断ができなくなってしまいました。  当日、織田&徳川軍が柵をはって布陣している程度は目視で来ていますが、風が弱く時間がたつにつれ鉄砲の煙が立ち込めていったため、後方の武田軍本陣からは前線の様子がほとんどわからない状況が出来てしまいました。突撃した部隊が返ってこないので、次から次へと後続部隊を送り込み、気が付いたら…  重要なのは1の「敵の後方遮断」ですが、鉄砲が無ければ確かに織田&徳川軍の勝利は難しかったかも知れません(織田軍は当時の日本でも有数の弱兵ぞろいで有名ですから)。その点、「鉄砲の集中運用が画期的勝利をもたらした」とする通説は正しいです。  しかし、仮に鉄砲が史実ほど効果を発揮しなかったとしても、後方を遮断されて死地に誘い込まれてしまった時点で武田軍が侵攻継続困難な被害を被ることはほぼ確実であり、その年の攻勢は頓挫したも同然です。戦が始まる前に武田の敗走はほぼ決まっていたと言ってよいと思われます。突撃する武田勢は死に物狂いだったことでしょう。  蛇足ですが、武田軍は当時有数の鉄砲保有率を誇っており、鉄砲の配備数で織田軍に負けていません。時代遅れな騎馬突撃と酷評される事が多い武田軍ですが、これは的外れで不当な評価であると断言できます。

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  • gungnir7
  • ベストアンサー率43% (1124/2579)
回答No.2

三段戦法は虚像であったと検証するページがあります。 http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-01.htm ここのQAでもなるほどと思わされる回答がたくさんありますよ。 http://okwave.jp/qa/q1744903.html

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  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.1

設楽原決戦は延べ8時間も戦っています。 この間、鉄砲隊の前に馬鹿みたいに突っ立っているはずがありません。(ーー; 馬防柵の為に織田軍は待ち伏せ。武田軍は攻撃となりますから、 「数度の突撃」があったはずです。 作戦を変えたり、攻める場所を変えたりです。 武田軍はそれまでは何とか持ち堪えていて攻勢だった。 7時間経も経過した時に武田軍は本陣もろとも総攻撃を加えた。 この時三段構で壊滅的打撃を受けた。 この可能性は高いです。

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