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物が存在すとはどう言うことですか?

ダーウンの進化論?。無から有への変化?。はたまた般若信教?色んな質問投げかけました、段々本質的な疑問に行き当たってしまいました。

みんなの回答

  • k_mutou
  • ベストアンサー率12% (101/783)
回答No.12

『モノが存在す』とは【“選択”して“認め”て“拒否”して“主張”する】事だと思います。 生きて日常で当たり前にやっている事が、結局、『存在す』る事になるのでは? 生きているだけで、【“存在”の“主張”】だと思います。

oyajitokushima
質問者

お礼

有難うございました。

回答No.11

お気づきになって下さいませ。あなたなのですよ。 物はあなたのいわば反射として存在しているということです。 物を存在させているのはあなたです。 物だけではありません。空間も時間もあなたが自由に存在させています。

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.10

物が存在する=わからん。 進化論? 微量の放射能が遺伝子に影響を与えてるんです。タブン。 現在の人間はてんとう虫をつくりだせません。 成分だけ集めても、生命体はつくれません。作れたら、ノーベル賞。 てんとう虫そっくりの機能を持つミニロボットは作れそうですね? これは、宇宙の視点からみて、生命体ですかね? 年をとると、1人のこらず、みなさんシにますけど。 死後の世界はあるんでしょうかねぇ? 精神生命体で肉体が器なら、「ワレワレは宇宙人だ。」

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.9

1, 素朴な定義として、存在するとは知覚できること、 より広く観察出来ること、と言えます。 ここにあるコップも、太陽も知覚、観察できる から存在することになります。 しかし、これでは知覚、観察できないものは 存在しない、ということになってしまいます。 例えば、まだ発見されていない惑星です。 そこで、存在する、というのは知覚、観察の「可能性」が あることだ、という定義が登場します。 これだと未発見の惑星も、将来、知覚観察の可能性は あるから、存在する、と言うことができます。 しかし、この定義では 知覚、観察の可能性すら無ければ存在しないことに なってしまいます。 即ち、人間の生物学的能力を超えて、知覚観察の 可能性も無いものは存在しないことになるが、それで 良いのか、ということです。 そういうモノが存在するのか否かは、所詮人間には 解らないのだから、それで良い、という考えもあります。 つまり、人間にとって知覚観察の可能性も無ければ、 それは存在しても存在しなくても、関係ない、意味がない、 どうしようもない、ということです。 知覚、観察の可能性もない異次元世界の存在・・? 確かにどうしようも無いですね。 2,このように、存在するとは人間を離れて論じる ことは出来ません。そして存在する、には色々あります。 例えば、太陽などは人間の存在に関係なく存在します。 これに対して、国家などは人間の脳に存在するだけです。 神はどちらの存在の問題なのか。 私は人間の脳に存在するだけだと思いますが、信者は 人間存在に関係なく存在していると信じているようです。 では、太陽は本当に、人間存在と関係無く存在している のでしょうか。 もしかしたら、バーチャルリアリテイかもしれません。 これを判別できる方法はたぶん無いのでしょう。 こうなると、人間の存在と関係なく存在するモノと 人間の脳にだけ存在するモノとの区別がつかなくまります。 そこで、デカルトはこう考えました。 確かに、この世はバーチャルかもしれない。 しかし、そう考えている私の存在はバーチャルでは ないだろう。 これが、我想う故に我あり、です。 厳密に言えば、間違いなく存在するのはそう思っている 「思考」であり、その主体まで確実に存在するというのは おかしい、と思えるのですが、それはおいておきます。 3,え~と、つまり、モノが存在するとは 人間が知覚観察できる可能性がある、ということになると 思われます。

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.8

ドイツの哲学者ハイデガーに、『存在と時間』という著書があり、ものの「存在」について究明しています。 しかし、この書物はなかなか難解のようです。 たまたま、古東哲明氏が『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)という本を書いておられるのを知り、購入して読んでみました。 これなどは、比較的分かりやすいかと思います。

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。「ハイデガー」なつかしい名前です。

noname#194996
noname#194996
回答No.7

おじさん!そりゃ、あなたがいるということでしょう。 あなたがいて、そうやって質問をして、その結果としてこうやって私が回答を書いている。 その反応(わっおもしれー、という感情の変化)がおじさん自身の存在をたしかめるたしかな証拠になってるのでしょう。 ちがいますか。 お釈迦さんの言葉もそういうことでしょう。 はんにゃぎさんもいっておられますが。 天上天下でわしだけをたっとべ。 まあこれは自己中と紙一重ですけどね。 ジコチューと違うのは、わたし自身がすべての出発点だ、他者をそこからじゅんじゅんに認めていこうということだと思いますよ。

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#143377
noname#143377
回答No.6

>物が存在すとはどう言うことですか? 存在す、って述語じゃない。~は~である、っていうコブラ。 おじさんが目も眩むような大哲学者がそう言ってるよ。

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.5

釈迦は生まれるとすぐ、立ち上がり、天に向かって右手(だったかな)を上げ 「天上天下唯我独尊」と言った。伝説もあるようです。 伝説=後の作り話、ではあります。 「唯我独尊」、とは西洋思想の言葉に当てると、「我思う故に我あり」ですよね。 釈迦が 「己れこそ己の寄るべ」 「弓師が弓矢をまっすぐ整えるように、人は己を整えなければならない」 と言っています。(真弓、と言う名の由縁?)いうような事を言っています。 自分を救えるものは自分しかいない、人が人を救う事は出来ない。 「余計な事をする者は何もしない者に劣る」の意味でもあります。 伝説のもう一方の意味として考えられるのは 唯我独尊、という、認識論、は釈迦にとっては、赤ん坊の時の思想、であった。 という事です。 行き着いた、釈迦の思想は、我がなくとも在る世界の在り方、起こり方、と合致する 、思い方、認識論、ではなく、考え方の追求、すなはち、哲学、方法論、であり、 存在論、なのです。 認識は、本質的に「群盲象を語る」であり。人に聞いても、それが正しいか道かを 自分で吟味できなければ、「かえって智をあやふやにする、知識」(老子)、を増やし 、そのぶん、考える能力を失う、ことになりかねません。 まずは自分で考えること、ではないでしょうか。 物理カテの回答の中に 物理科学は、何故、を三度繰り返すと、訳が解らないものになる。とか 本質的な事は哲学の問題である。 とかの、意見がありました。 このカテが哲学カテになっているかどうかはともかく。 物理科学も、真理は単純である、という物理学者の言葉に合致する、根本的な、部分を 見落としている、スタートから間違っているのです。 それが何であるか、の答えは、多分東洋思想、とりわけ、釈迦と老子の知恵=考え方 なのです。 言われているような、空間、とか、時間、とか、エネルギーとか、が本当に存在するのか 考えてみられてはどうでしょう。 それらが、神、と同様の、人間が造りだした、空想、である。としたら 存在す、の概念も変わるはずです。

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.4

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。 実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。 無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性(記憶=過去=時間的流れ)」の相補としての「時空仮説性(予測=未来=空間的広がり)」。 「相補」というのは、絶対時空を否定し、認識体との相対においてしか時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。 即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。

oyajitokushima
質問者

お礼

長文・ありがとうございました。

noname#144675
noname#144675
回答No.3

もの と 物 の違い 存在する と存在す の違い 存在す いる ある の違い 本質的回答というのは 純粋に そのテーマ を絞る という行為にあります。  つまり 「そ(Deixis)」 です。 必然性に重点を置くとすると 要素と存在について語ることとなります。 いいかえるとすると  自分がどんな物事を学んできたかということに素直になり、 意識を 無造作に動かすのではなく 煩雑に あちこち飛び跳ねるのではない 静的な把握を試みることです。 つまり  たとえば 「アリストテレス」 という テーマで何か雑談をしたい! 俺が投げかける話は全部哲学的で みんなが注目するべき問題である という ような 傲慢は捨てるということです。 そのテーまが 現象学でもいいでしょう。  ドイツ語も読めないのにフッサールの議論をしている ひと が 残すものというのは  よしもとばなな か むらかみはるき の おっかけ ファン の 心理だけです。 狂った常識です。 読んで意味が分からなっかたら話題にするべきではない という 常識がある という ことを 改めて 把握し、 そのうえで 生活に役立てたいのだが 具体的には これこれ こういう 切り口が 理解しがたいと 質問を もっと具体的にするべきです。 質問者様の話す 「存在す」 は 『いる』 と 『ある』 の区別以前の問題であるようです。 つまり 円実と浮従 現実と「おれさまはこうおもう」 という 区別すらないという ほどに  本末転倒の議論です。 存在にかんし 般若の心境を 関連付けるという作業は  まったくもって 常識的・哲学的議論に 関係ないはずです。 関係があるとすれば ゆいいつ「おれさま」を つうじた 「おれテーマ」 としてです。 「存在はマイブーム」です というのなら 素直にそう発言していただけないでしょうか? おれんパソ・大さま製紙・テポコ の 例を出すまでもなく 哲学者を気取る高齢者男性が 社会を破壊しているという事実 責任を取らないという事例が多くて 大多数のひとが困っているようです。 本質とは 具体的なものです。 抽象的な話は 本質的であるとは言い難く 方向性を変えていくべきではないでしょうか? 「いる」 こそが 一番重大な本質的課題です。  存在 に関する議論は 抽象的で意味のない議論です。

oyajitokushima
質問者

お礼

ありがとうございました。

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